エレクション 黒社会 : 映画評論・批評
2020年7月21日更新
2024年1月26日よりシネマート新宿ほかにてロードショー
香港映画界の名匠ジョニー・トーが描く「マフィア×選挙」に銃声は響かず
香港映画界の名匠ジョニー・トーが、2005年に紡いだ本作は「マフィア映画」であり「選挙映画」だ。香港国家安全維持法が成立した20年、この物語はフィクションを通じた警告から、未来の予言という意味合いを強めていた。
ドキュメンタリー「あくなき挑戦 ジョニー・トーが見た映画の世界」において、トー監督はこんな発言をしている。「最も描きたかったのは、香港が選挙の混乱を招いた1997年(香港返還)以降、直接選挙がなくなったこと」。現実社会を反映すべく題材としたのは、2年に一度行われる香港最大のマフィア・和連勝会の会長選挙戦。会長だけが手にすることが出来るという“竜頭棍”の争奪戦が描かれている。
本作では、マフィアの世界を扱っているにも関わらず、銃声が一度も鳴り響かない。続編「エレクション 死の報復」に至っては「撃つな」というセリフで、銃が懐へ舞い戻るという徹底ぶり。代わりに強調されるのは、身体、精神に対しての責め苦。無論、結果としての死はある。だが、権力奪取を目的とする選挙では、亡者よりも、生者の“痛み”の方が利用価値が高い。登場人物は、銃で即座に死ぬことも許されず、闘争に利用されていく。冷徹ともいえる「瞬間的な死」の排除が、ただひたすらに恐ろしい。
同胞への裏切りを許さない和連勝会。しかし、その掟は完全に形骸化。「組織のため」という理念が都合よく解釈され、掟を順守する者を傷つけていく。全てが「見せかけ」なのだ。狡猾な者ほど、これを上手く利用してしまう。温和な笑みは、必ずしも内面を表すものではない。この「見せかけ」が剥ぎ取られた時、そこに表出するのは“怨”の感情。壮絶な出来事に茫然自失とするはずだ。
冒頭から約15分、全てに「食」が介在している点にも注目してほしい。集う人々の目的は、食べることではない。あくまで対話の構築にある。飲食物は、その場に滞在するための道具なのだ。興味深いのは、冒頭以降、和やかな食卓が一切描かれないということ。一部食事の光景は挟まれるが、乱入者によって場は荒らされる。「対話が不可能になった」という状況が、「食」の喪失によって表現されている。
そして、中国本土に権力者の証“竜頭棍”が安置されているという設定は、今となってはあまりにも意味深い。「エレクション 死の報復」では、本作の2年後を舞台に新たな会長選挙戦が展開し、中国の実質的支配が加速していく。先人たちの思い、流れた血、消えた命――全てを背負った者に待ち受ける運命には、思わず言葉を失う。2作続けての鑑賞を、強く勧めたい。
(岡田寛司)