イントゥ・ザ・ワイルドのレビュー・感想・評価
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彼の死は哀しい死であったか?
出生の秘密により心に大きな傷を負った主人公は幼少の頃から夢だった放浪の旅を経て、自分の心の中のわだかまりを打ち消してゆく。その途中で出会う様々な人たちを通して彼の心は変わっていく。
カネも、家族も、名前すら捨て、インチキだらけの社会から脱して正しく、誠実に生きて行こうと必死にもがく主人公の姿には、私のようなスーパー俗物人種も共感を抱かざるを得ない。
そして最期に彼が得たものは何だったのか。
彼は非業の死を遂げたのか?
この作品の舞台はアメリカ全土にわたる。
主眼が置かれるのはアラスカの草原にある「不思議なバス」周辺の美しい自然豊かな土地である。そして複線としてアメリカの砂漠地帯や都市部の光景が描かれる。
その美しい対比描写の中に、実は人類の物質文明に対する懐疑の念と、人間の心の真の美しさとを対比するというテーゼが込められている。
とかく世の中はインチキだらけである。欺瞞、偽善、嘘、経済効果として消費される為だけのモノ、モノ、モノ……。この作品はそんなゆがんだ完全消費型文明に投じられた一石なのである。
作品として非常に難解な命題をはらんだ本作であるが、その映像もまた素晴らしい。
アラスカの山々やそこに生きる生き物たち、アメリカ本土で交流する人々の愛に満ち溢れた姿、山々を下ってゆく濁流、その全ての描写が美しい。
特に眼を見張ったのは、ヘラジカを仕留め解体するシーンであろう。見ようによっては残虐、グロテスク描写にもなりえる動物の解体というシーンを、生命の尊さや神秘性を垣間見せるような表現にまで昇華させている。(グロいけど。)
主人公にほのかに恋心を寄せる役所の少女を演じるクリステン・スチュワートも冷たい水のような美しさを湛えており一見の価値アリだ。
上映時間がやや長く疲れる事を除けば、ほぼ間違いなく名作と言っていいだろう。
既に3度観たが、未だ繰り返し見たい決して見飽きない作品だ
この映画が実話だなんて到底信じたくは無かった!
それではあまりにも残酷だ!何故、こんなにも恵まれた何不自由無い青年の人生の歯車が狂いだすのだろうか?しかもこの若さで、こともあろうに、餓死するなんて!しかも、僅か2週間後に発見されるのだ!もし2週間早くに誰かが彼の存在に気付いていたなら、彼は死なずに済んでいたのだ。
神も仏もあったものでは無い!衝撃と怒りで、打ちのめされた!
彼の人生・彼の家族の人生とは一体何の為に存在していたのだろうか?
妹・母・そして父・・・その後のこの家族はどう生きて行くのだろう?
大学生の若い命と引き換えに、彼が生命を賭けて得た人生訓とは一体何だったのか?
これがフクションなら、へぇ~と一言で終わる、しかし実話なのだ。
アメリカで、経済的には恵まれた家庭に生れ育ち、しかし年頃の影響もあるが父親との仲違いあり、家を飛び出し放浪の旅へと向かう。
その中で、彼は様々な人々と出会い、それぞれの人間の持つ生活歴に触れていく。
生真面目で、感受性が強く曲がった事が嫌いで、勤勉でもある。
そんなGoodBoyな性格が裏目に出てしまうのが人生の皮肉な現実なのかも知れない。
彼がことさら廻りの人間を受け入れられない偏屈野郎というのでもなく、
むしろどちらかと言えば、人が良くて付き合い易いタイプ
これは神さまに気に入られ、この薄汚れた社会で生かすには勿体無いとその命が天に
召されたとしか考えられないような話だった。
自然は厳しく美しい そして変わる事の無い一定の秩序を保ちながら存在し続けている。
その自然の営みの中で、人も生かされている。
人間は多くの人との繋がり、関わり合いの中で活かされて生きるのだ。
自分で生きているようでも有り、
只、自然と活かされているようでもある。
どちらが本当の姿で、どちらが幻なのかは分からない。
しかし、生きている間には、人や、自然と繋がり、自然を司る神との関わり合いも存在しているのだ。
人が生きると言う事、人の生命が育まれて存在し続けると言う事、
都市型生活を送っていると中々、自然から切り離されてしまい、
基本的な人間も動物の一種で、この惑星地球の中で活かされて生きる種の一つに過ぎない事にぶち当たる。
それゆえに、人にとり愛する事、人生の総てに愛と感謝を持って暮す素晴らしさが身に沁みた感動の映画だった。
1ミリも共感できず
こういう映画は主人公に感情移入、自己投影できるか否かが評価の決め手になるが、私はできなかった。
結局は両親との確執がことの発端なわけで、そこに大義名分かぶせて自分をごまかしてるだけの現実逃避。
相当なエネルギーはいるけど、さっさと家に帰って家族と対話をしなさいよ。
金を燃やしたり車を捨てたりと「自分ひとりの力で」と意気込むわりには、文明の捨て方が中途半端すぎて、
なんか単なる自己陶酔だな〜と。
彼が身につける衣服やバッグやナイフや本は他人が作ったもの。
他人のこしらえた文明の力のお世話になってるという時点で、間接的に他人の力に依存してることになり、
たとえ地の果てまで行ったとしてもそれは街の中にいることと本質は何も変わらない。
そこまで言うなら原始人のような暮らししてみろよ。
少なくともバスに住み着いちゃダメだろ!って感じですよ。
彼が「ああはなりたくねえ」と蔑視する人間、つまり都市に住み、会社に就職し、
モノに囲まれ現代の利便性の中にどっぷりつかって生きる人間、
彼らが汗水垂らして作った「植物の本」に主人公は最後の最後に頼り、裏切られ、そして死ぬ。
中途半端な覚悟で文明を敵視した人間にふさわしいなんとも情けない最後で、そこは納得。自然の摂理ですね。
自由気ままな旅は、気分を高揚させる
映画「インツゥ・ザ・ワイルド」(ショーン・ペン監督)から。
ストーリーとしては、重たい作品だったが心に残った。
「一度は自分を試すこと」の大切さは伝わった。
「一度は太古の人間のような環境に身をおくこと」の大切さも。
「自分の頭と手しか頼れない、過酷な状況に1人で立ち向かうこと」
それがどんなに人間を強くするか、も理解できた。
しかし、その経験で、死んでしまっては、何も残らない。
こんなメモも、残っている。
「金は必要ない。疑い深くなるしね」
「クリスタルガラスは、もろいからこそ、美しい」
「子どもは親を厳しい目で見るものだ」
「キャリアは20世紀の遺物、僕は興味がない」
「新しい経験が心を豊かにするんです」
「人生の楽しみは、人間関係だけじゃない」
「幸せが現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」
一つずつは、私のアンテナに引っかかるのだが、
どれもが「気になる一言」に選ぶには首をかしげた。
そして選んだのは「自由気ままな旅は、気分を高揚させる」。
「どこか逃避を思わせるからだ」の注釈が気に入ったので。
自己犠牲の精神
人生は、究極の「自分探し」の旅なのかもしれない。しかし、旅の途中でいつしか「存在の本質(意味)」に背を向け、瑣末な日常に埋没して生きる人々が大半ではないか。「自分探し」の旅は、「幸福探し」の道程でもあるのだ。この世に生を受けた意味を深く考えた時に、「幸福とは何か?」の答えを手にするのだと思う。怠惰な日常から一歩前に踏み出した時に、私達は新しい自分を発見できるのだ。
この映画の主人公・クリスは、両親の欺瞞性や腐敗した現代社会に疑問を抱き、大学卒業後にアラスカの荒野を目指す。自分自身と真摯に向き合うために、過酷な環境が必要だったのだろう。退路を断つために、途中で車を乗り捨て、手にしていた紙幣も燃やす。バックパックを背負い、「自分探し」の旅が始まる。
お金や出世に関心がなく、旅の途中で出会う人々に癒しを与え、ひたすら荒野を目指すクリスの姿は、まるでキリストを彷彿させる。クリスは愛称で、本名はクリストファーと言うのだが、少年に姿を変えたキリストを背負って、川向こうまで運んだとされる、半伝説的な殉教者(クリストフォロス)の英語形なのだ。キリスト教の精神を担うことの高貴さを表す名称だという。
アラスカの荒野を目指したクリスだが、キリストもまた荒野で修行している。新約聖書に書かれているのだが、40日間の断食を終えて空腹になったキリストの前に、悪魔が現れる。悪魔の誘惑を退けた後、彼は宣教の旅を始めたという。
旅の途上で、クリスも様々な悪魔?の誘惑を受けるのだ。16歳の女の子からの性的な誘惑を断ったり、麻薬常習者がたむろするヌーディストグループにも加わらず、ストイックな生き方を貫くのだ。アラスカの荒野に着いて数ヵ月後、狩りをしても獲物が見つからず、何日間も断食状態が続く。ある日、空腹を満たすために「ワイルド・ポテトの根」を食べて飢えを凌ぐのだが、それは葉形がよく似た毒性のある別の植物だった。
その後、ヘラジカ狩りの猟師によって彼は遺体となって発見される。死因は餓死だった。彼を題材にした「荒野へ」という作品は全米ベストセラー・ノンフィクションに選ばれ、この映画もアカデミー賞にノミネートされた。それぞれの作品から、多くの人々が勇気と希望をもらったと思えば、キリスト教の精神である「自己犠牲」を担った死だったのかもしれないのだ。
彼が読んでいた本の行間に「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」というメモがあったという。彼は「自分探し」の旅を完結させて、別の新たな旅に向かったのだろうか?
荒野で感じた温もり。
どうしてこの話をS・ペン氏が映画化したのかを考えた。
確かに素晴らしい出来ではあるけれど、非常に地味。
ハリウッドが賛美しそうな映画とは一線を画した感じ。
実話を売りにしてはいるが、普通の一青年の話である。
鑑賞中におのずと答えが見えてきた。
これは昔の彼そのものというか、とても重なって見える。
彼が若いころにハリウッドから問題児扱いされた時の、
あのムチャクチャやったるで!的な暴走意識が窺える。
金持ち裕福青年という筋書きもおんなじ。
だからどことなく廃れておらず(爆)人間的にも綺麗だ^^;
そして何より感じたのは、自分が歳をとったこと…。
悲しいことに人間は歳をとると色々なことが見えてくる。
ここに登場する、青年が出逢い別れていく大人たちが、
みんな過去に同じことを考え、背負い、立ち向かい、
乗り越えてきた過ち(と言いたくはないけれど?)を
この青年に見ていることが、どう見ても明らかなのだ。
そして私も彼らと同じように、この主人公を見ている。
彼が考える未来。今持ち合わせている社会への絶望。
荒野へ行ったからって消化できるものではないけれど、
彼がひとり旅に出たこと自体は有意義だったと思える。
ホント、人間的に真面目でとってもいい子なのだ。
だから、一体なにが彼をこの旅に向かわせる原因に
なったのかが、最初はぜんぜん見えてこなかった。
金持ち坊ちゃまの我儘か?世間知らずの悪あがきか?
…原因は、両親の不和だった。
でもねー。(ふと中年意識が出る)
ここで描かれた夫婦の不和なんて、どの家にもあるぞ。
(ちょっと特殊な家族形態ではあったけど)
こう言っちゃなんだけど、やっぱりこの子は繊細だな。
良い子をひたすら演じ、機会を窺っていたわけだから…。
そんな彼が旅に出て、様々な触れ合いを通じて学ぶ。
息子を見失った両親は、心ひとつにして息子を待つ。
結果が幸いならばこの家族は、のちにまた再会を果たし、
ひと回りもふた回りも大きくなった息子に歓喜するはず。
もちろん、そうあって欲しかったのだが。。
自然界(しかも荒野)をナメるな。ってこういうことだ。
悪ガキを卒業し、家族を作り、映画人として社会に
貢献するようになった今のペン氏が、いちばん興味を
持つであろうテーマだと、やっぱり思える作品だった。
青年を見守ろうとする視線の先に
父なるペン氏の眼差しが感じられる描き方が素晴らしい。
E・ハーシュの演技力に万歳。
(社会の荒波だって荒野だよ。ナメてかかると危険だよ。)
俗世間に対する反発と無謀な旅
若者が俗世間の愚かしさに反発するために旅に出ることは素晴らしいことだ。
理想の人生を追求したり、新しい価値観を模索することは若者の特権である。
しかし彼の旅ははあまりにも無謀のように思える。
確かに冒険と無謀は紙一重かも知れない。
しかし旅先での出会う暖かい人たちとの交流は結局何だったのか?
若さゆえと言ってしまえばそれまでだが、愚かな自分の無謀さに気付くことはない。
いや、気付いてないいうよりも受け入れないと言った方が正しい。
ノーマンズランドを目指した冒険の旅の代償はあまりにもせつない。
孤独とは本来否応なしに訪れるものであって、愛するものではない。
ラストに青年もそれを悟るのだが、時すでに遅し。
人生を考えるうえでの節目にいる若い人には是非見てもらいたい作品だ。
主人公の「身勝手」さが際立ってしまった
正直にいえば、自分の力を過信した青年が自然を舐めてかかって自滅する。それだけのことである。彼は準備も知恵も足りなかった。映画の中では触れられてなかったが、確か増量した川を無理に渡ろうとして足を痛めてしまったんじゃなかったっけ?自然の中で生活することにおいて「なんとかなる」は通用しない。「なんとかする」には知恵がいる。そこを表現するシーンとしてヘラジカかなにかを仕留めるのだが、解体するのに手間取り、まったく食べることが出来ずに腐らせるシーンがある。彼は「仕留めなければよかった」と後悔する。もしイヌイットや猟師としばらく生活をともにして狩猟経験を積んでいればこんなことはなかっただろう。また保存方法もわかっただろう。だが彼はただ狩猟経験者から話を聞きメモをとるだけにした。こういうシーンが続き、なんだか私は彼が死ぬべくして死んだように思え、そんなんじゃ死んで当然、と映像化された彼には同情も感情移入すらできなかった。それこそ自己責任だ、と冷酷な感情すらわいた。
原作を読んだときにはあまりそういう感じがしなかったのは、原作はあくまでも「通過儀礼」として「旅」をとらえていたからだと思う。原作には筆者クラクワーの似たような体験(彼の場合は冬山に単身登攀する)が描かれており、自分も彼(クリス・マッカンドレス)のようになっていたかもしれない、それをわけたのは「経験」と「運」であるとしていた。クラクワーの「共感」と「冷徹な視点」が原作「荒野へ」に深みと諦観を与えていた。クリスは力の限り挑戦し、そして敗れた。結果は非常に残念だが、それでも精一杯やったのだ、と。
そういった原作にはあった「自分と彼の違いは何処なんだ?」という問題意識がこの映画にはない。すっぱりと抜け落ちている。そのため(「帰ってくる」ことを前提とした)通過儀礼としての側面が消え、(死者に対してはかなり語弊があることを承知で用いるが)「良き敗者」としての主人公があぶりだされることによって感じる、締め付けられるような自分もそういう道を通ってきたのだという「懐かしさ」「郷愁」はなくなり、好き勝手にやって勝手に死んだという印象が浮かび上がってしまっている。昔ある精神科医から聞いた「ドラゴンボールみたいにどこかに行けば強くなれるとか変われるとか思うやつが多すぎる」という話を思い出した。「自分探しの旅」はこの側面が強いと私は思う。通過儀礼はそれとは違い、オデュッセウスのように「発見」するためあるいは区切りをつけるために旅立ち、やがて「帰ってくる」。帰ることを前提にした通過儀礼としての旅と自分探しの旅はテーゼそのものがまったく違う。原作と映画の印象が私の中でかなり異なってしまったのも、ここに由来するのではないだろうか。
冷徹な分析のない「無邪気な共感」はかえって主人公の無謀さを浮き立たせ、共感をそぐことになったのは皮肉である。製作者側の「視点」が手放しの礼賛と「自分探しの旅」への共感(「通過儀礼」としてのではない)にあるため、主人公の「身勝手」さが際立ってしまった。アカデミー賞を取れなかった原因はそこにあるのではないだろうか。
映像的技巧が凝らしてあり見所は多いし、つまらねえ感傷を粗く断ち切るような生ギターのブルージーな音楽とか、いいところがいろいろあるのに非常に残念。主眼とするところを掛け違うだけでこんなにもずれた話になるんかねえ。
実話に基づくアメリカ版「北の国から」(だってアラスカですもの。)
この映画、きわめて評判がよくて、見たかったのですが、正直、予備知識があまりない状態で見たので、ちょっと戸惑いました。
簡単なあらすじは、大学卒業したばかりの若者が、世の中に悲観してヒッチハイクの旅に出て最終的にアラスカを目指すのですが、途中、人の温かさを知り・・・・、という内容のロードムービーです。ラストまで、甘やかされたアメリカの青年のイメージで見ていたので感情移入できなかったのですが、ラストが・・・ちょっと唖然。これ、結構有名な話らしく、友人はラストを知っていたようで「え?知らなかったの?」みたいに言われて・・・・。ちょっとラストがショックで、しばらく映画の評価ができずにいました。何故にこの映画、みんな評価しているの???っていう・・・。
1日たってわかったのは、さわやかな気持ちであらゆるシーンを思い出せるということです。彼のアラスカまでの道のりでの人との出会いを通してアメリカ人の人情と素晴らしい自然を描きたかったのではないかと、ショーン・ペンは。特にアメリカの自然の描写が素晴らしく、そういう意味ではどこかのサイトにもありましたが、撮影賞向きなのかもしれませんね。残念ながら、万人にはおすすめしませんけど、いい映画には違いないと思います。
全29件中、21~29件目を表示