チェンジリング : 映画評論・批評
2009年2月10日更新
2009年2月20日よりTOHOシネマズ日劇ほかにてロードショー
「映画の風」を信じる大きな帆舟のように
なぜこんなに信頼して見ていられるのだろう。なぜこんなに安心して見ていられるのだろう。巨匠だから、などと愚かな答は返さないでいただきたい。先入観やブランド名で映画を見るほど私はナイーブではない。
「チェンジリング」は惚れ惚れするペースで撮られている。落ち着き払っていながら鈍いところはまったくなく、複雑な情感を描きながらお涙頂戴のメロドラマに堕ちず、背筋が凍る犯罪に触れながらホラー映画に足を取られることもない。要するに、脈が乱れない。
1928年3月、大恐慌時代前夜のロサンゼルスで9歳の子供が失踪し、5カ月後にまったく別の子供が戻ってくる。クリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の不屈の戦いは、そこから始まる。相手は腐敗した警察組織だ。
そのプロットに、別のプロットがからむ。映画は、単線から複線へと構造を変え、ふたたび単線へと戻っていく。イーストウッドの演出作法に無駄はなく、語りにも無駄がない。くすんだ灰青色の画面に鮮やかな赤や黄色をときおり滴らせる色彩設計。路面電車やクローシュ(釣鐘型の帽子)やラジオといった「時代」を意識させる細部。監督自身の作曲した主題曲のリフレイン効果。犯罪者に扮したジェイソン・バトラー・ハーナーの好演。さまざまな見どころを載せつつ、「チェンジリング」は大きな舟のように帆走する。イーストウッドは、「映画の風」を信じているにちがいない。
(芝山幹郎)