「現代版"崩れゆく絆" 宗教vs科学の全面戦争 血は血でしか洗えない。」アバター(2009) ネイモアさんの映画レビュー(感想・評価)
現代版"崩れゆく絆" 宗教vs科学の全面戦争 血は血でしか洗えない。
〜はじめに〜
ストーリー展開が単調すぎると酷評されている作品だが、私は全くそう思っていないことをまず明記しておく。
揺らぐアイデンティティ・文明と未開の邂逅など様々な見方ができる作品であり、そのどの観点も決しておろそかにしない繊細な物語構成に圧倒された。
〜"崩れゆく絆"について〜
"崩れゆく絆"というのは、アフリカ文学の巨匠チヌア・アチェベの代表作の小説だ。アフリカ大陸のとある場所の、ある部族の生活と、植民地政策のもとヨーロッパ人がやってきてキリスト教を持ち込んだことで原住民の生活や人々の絆が変化に晒されながらも崩壊していく様を描く物語。アフリカ出身のアチェベがアフリカ人目線で繊細に描く。
〜本作と"崩れゆく絆"との類似点〜
①"未開"を開拓する"文明人"
ナヴィと地球人、アフリカ原住部族とヨーロッパ人
この関係性がパラレルになっている。
②信じるもの
地球人は、金・物質的利益を求めて科学や理論の力を盲信している。ナヴィは、ナヴィや自然との繋がりを大切にし、宗教的に自然を崇拝する。
"崩れゆく絆"におけるヨーロッパ人とアフリカ大陸の原住民にも共通していて、パラレルになっている。
〜ナヴィとアフリカ部族の共通点〜
ナヴィもアフリカ部族も、自然崇拝の文化を持つ。恵みを与える一方、大きく牙を剥くこともある自然。その自然に囲まれる彼らは、自然に畏怖の念を抱き恐れ、またその偉大さに敬意を払う。自然には敵わないことを前提として、彼らは自然に合わせて生き、自身は自然の一部だと考える傾向にある。つまり、自然と一体なのだと。
この"自然と一体"というのは今作においてかなり強調されていて、動物から力を借りる時(乗馬など)や自然に祈る時に、ナヴィ達の頭の先にある触覚を、動物の触覚や森の植物と連結させ、心を通わせている。この点興味深かった。
あらゆるものに神が宿っていると考えており、食料調達のため動植物の命を奪う際、自然の恵みに感謝し、祈る。
また、そうした神からの"お告げ"も重要である。"エイワ"と呼ばれる自然の神のお告げはナヴィ達の選択に影響を与える。同様にアフリカの部族にも大地の神や山の神が居て、その神からのお告げを頼りに飢饉や自然災害の対応や罪人への判決を決めていた。彼らにとって生活の中核をなす存在で、精神的な拠り所だった。
〜"現代版"の意味〜
現代版と呼べる理由は、"崩れゆく絆"の文明vs未開という構図を踏襲しながらも、"崩れゆく絆"には居なかった存在がいること。それが今作の主人公のジェイク。なぜなら、彼は両方のアイデンティティを持っているからだ。地球人であり、ナヴィでもある。ジェイクはナヴィの生活に侵入し、生活する内に自分の正体が人なのか、ナヴィなのか、その境界線を見失いそうになる。それほどにジェイクは両者に入り浸り、深く理解している存在と言える。
ジェイクのような存在がもし植民地政策時代に居れば、違った歴史になっていたのかもしれないと思わせてくれる。しかし、ジェイクという両者の架け橋となる存在が居ても、人類は、人類側の都合だけで、ナヴィ達の聖地スカイツリーを焼き払った。多くのナヴィが燃え盛るスカイツリーの下敷きになり、どれほど人類が愚かか、痛感する。文化の象徴でもあり家でもあるスカイツリーを奪われ、怒り狂うナヴィ。結局、戦争になる。流された血を洗うことができるのは、結局のところ血だった。ナヴィは大自然の力を借りて地球人に反撃し、見事に勝利を収め、ハリウッド映画としてはハッピーエンドを収める。
〜この物語は警告だ〜
① 植民地政策の犠牲者だったはずの、いわゆる"black"が、"鉱石採掘のためナヴィの文明破壊に乗り出す地球人側"に居たこと。(犠牲者であるはずの彼ら自身が時間の流れとともに、その悲しみをいつしか忘れ、かつての宗主国達と同じことを繰り返している)
②ここまで多くの人々や生活を代償にしなければ自由が勝ち取れなかったというこの世界の残酷さ
③信じるものが違うの者同士は、これだけ血が流れたにも関わらず、結局分かり合えなかったという悲劇
以上をもって、私は本作の物語をハッピーエンドとは決して思わない。
だが、これは幸いにもフィクションなので、私達はこの物語から学んでいくべきなのは言うまでもない。本作はそういう作品だった。警告として私達の前に現れた一つのバイブルだった。