「彼は自力で入る事が出来ない」ナンバー23 ゼリグさんの映画レビュー(感想・評価)
彼は自力で入る事が出来ない
最初のシーン。動物保護局のバンのドアは開いている。別に開いている必要は無い。
ウォルターは、それを「閉めて」いる。
中華料理屋のシーン。カットの始まりから犬がいる外に出るまで、不自然なほどドアというドアは開け放たれ、ウォルターは一度もドアに触れない。
開け放たれているのは、真実を知るきっかけとなる「犬」に出会うのを「導かれた」ように演出するためだ。
その後、犬に噛まれ車に行き、後ろのドアを開けるが、ただ麻酔銃を取るためであり、すぐに閉められる。
本屋のシーン。アガサは「開け放たれたドア」に目をやり、やはり導かれるように、本を見つけている。
当然、本屋は開け放たれているため、ウォルターはドアを開けない。
風邪のアガサのシーン。ウォルターは自分でドアを開けず、アガサが開けている。
女性に誘惑されるシーン。ウォルターはトイレのドアを開けようとはしない。
家に着き、ウォルターは玄関のドアを一度は開けるが、息子が彼女を連れ込んでいるのを見て、すぐにドアを閉める。その後、息子の手によりドアは開けられ、最後に入ったウォルターはドアを「閉める」のみ。
パーティーを抜け出し、本を読むシーン。ウォルターがドアを閉めるシーンから始まり、決して「自分で開ける瞬間」は撮られていない。
アガサにペンキを渡すシーンなどで、見事にドアは開け放たれている。
ケーキ屋は鍵が掛けられ、ウォルターはドアを開けて中に入れない。
アガサの靴の数を数えるシーン。自分でドアは開けているように見えるものの、少なくとも「入る」ためではなく、ただクローゼットの中の靴を覗くためだけに開けているし、まず「開け始め」というものは撮られていない。
刑務所を出る際、ウォルターは車のドアを開けるが「車の中に入らない」まま、次のシーンへと行く。
物語の核心である23号室があるホテルに夜中、家を抜け出して何気なく辿り着いたシーン。
ここでははっきりと、ウォルターが「自分でドアを開け、中に入る」という瞬間の行動を、わざわざカットを割って撮っている。
骨を発見し車を降りる時、フィンガリング=ウォルターがベランダに続くドアを開ける時、そして真実を知り、23号室のドアを開け、ホテルの玄関のドアを開ける時、「ドアを開けて出る」という行動に関しては、潔く、勢いよく開けている。
だが、この映画において真実が隠されている「ホテル」を除いて、ウォルターの「自分でドアを開けて入る」という行動は撮られていない。
これは偶然では無いだろう。
意図的に排除されている。
つまり、視点の問題であり、例えば「廊下」から「寝室」に入るシーンがあるとする。
そうすると監督は廊下側の視点からドアを開けて入るシーンは撮らない。
寝室側にカメラを置き、主人公がドアを閉める瞬間から撮るか、もう部屋に入っているシーンから始めるはずだ。
この映画は物語的に言うと「数字に取り憑かれた男」の話だが、画面的に言えば「ドアを自分で開ける事が出来ない男」の話だ。
もちろんそれはウォルターの生活の話ではなく、ドアなんて開けているに決まっているのだから、ドアは画面上での「真実へ辿り着くもの」の隠喩というだけだ。
話は変わるが、ウォルターとアガサの性生活は全く描かれていない。
あれだけラブラブぶりを見せておきながら、営みを行なった形跡もない。
ベッドで眠るシーンがあれだけありながら、撮っていない。
フィンガリングの話であれだけ性行為を見せているにもかかわらず、ウォルターの生活には、少なくとも画面上には性的な物が感じられない。
性行為=破滅だと言わんばかりに、あえて省いているとしか思えない。
またまた話は変わるが、この映画は照明が凄い。
ジム・キャリーの顔のちょうど半分が影に覆われていたり、本屋のシーンの街灯を使った照明や、ウォルターの家の、階段を取り込んだ構図の照明、ローラの葬儀を行う場面の、木々の隙間から一瞬差し込む光の筋など、全編を通して素晴らしい。
監督はおそらく、小説の持つ物語の力と映画の持つ画面の力を衝突させたかったのではないだろうか。
そのため終盤、回想によって画面が動機を説明するためだけの物に成り下がってしまっているという部分が残念だが、個人的にはその短所を補うだけの画面の豊かさは出せていると思う。
なかなかの秀作。