美しき諍い女のレビュー・感想・評価
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デッサンする時の木炭のキシュキシュいう音が耳触り。美人はちやほやさ...
デッサンする時の木炭のキシュキシュいう音が耳触り。美人はちやほやされる物と思っていたけど、美人でも絵のモデルって大変なんだなぁと。 映画の中でほとんど、ヌードの役に挑戦した女優に拍手です。
「映画館」ではなく「美術館」へ行くべき
これを「外国映画ベスト・ワン」に選ぶキネマ旬報にはおそらく「変なフランスかぶれ」や「芸術かぶれ」が多いのだろう。選んだ人物の「貴方たちには解らないでしょ」みたいな顔が目に浮かぶ「不愉快な変態映画」 同じテーブルの人が倒れても身動ぎもしない登場人物達に感情移入できる筈もなく、変な台詞に緩慢な演技は最後まで見る気がしないので途中退場した。
自己との、魂との対峙
途中で休憩をはさむ映画はインドだけではなかったんだ。 自分の求めるものは何なのか? 否、それは”私”が求めているのか? それとも、何か大いなる力に描かさせられているのか? 歴史を越えて、人の心を揺さぶる芸術について、よく作り手が語る言葉。 そんな瞬間・過程をひたすら紡いだ映画。 画家とモデルがアトリエで対峙する。そこにその妻や恋人の思惑が絡む。 それだけの筋で、4時間見せ切る。 キャンパスに色を塗りこめる。それだけなのに、なんともいえない緊張がはらむ。 そんなシーンが繰り返される。 それだけで驚嘆すべき映画。 音楽もほとんど自然音。 鄙びた?自然あふれる村に立つ城。 その納屋を改築したアトリエ。ホテルの部屋。 そんな閉塞的な空間と、突き抜けるような空と森、朴訥とした村の佇まい。 その中で巻き起こる登場人物の心の揺れ動き。 それは、たんなる気分ではなくて、生き方にもぐいぐい迫ってくる。 そんな凝縮された部分と、解放感のバランス・間も見事。 最後に画家の取った行動は、傲慢なのか、称賛を捨てて、モデル他周りの人を守った人間性なのか。妻が書き足した十字架がその答えのヒント。 そして、封印された”物”を心に秘めたマリアンヌの変化。人形から、”自分”への脱皮。 芸術論であり、地味なのに濃厚な人間ドラマ。 とはいえ、この長さ。再鑑賞には覚悟がいるし、誰にでもお勧めできる作品ではない。 インスタントな映画を好む人にとっては眠いであろうから駄作となり、 好みがあう人にとっては傑作となる。 P.S.:作品情報で知ったが、 ヒロイン(モデル)は、『MI』の初代ヒロイン・クレアを演じた方なのね。 そして画家は、ドヌーブさんの『昼顔』のあの方。
芸術は真実を表現するか
人は死の瞬間に人生のすべてを回想する、同じように一枚の絵画でその人の全てを表現できると信じる老画家と美しいモデルの物語。 完成した作品は、当然、封印される。 それを理解できるのは作者とモデルしか存在しないのに。 そして、自分の全てを知ったマリアンヌは生きる意味を失ったのか、復活したキリストのように生きるのか。 良い作品は自分の目のようにカメラが動く。
長い、辛い
白い地が変化していく様を淡々と見せるだけで、こんなにも興味をそそられるかという多少の映像的な発見もあったけれど、全体的に長すぎて辛い作品だという印象は否めない。 古臭い芸術の敗退していく様、差別的で暴力的様、利己的で人をも物として扱う様…様々な興味深い負の側面を数多く見いだすことができるけれど、その意義については理解には及ばず、絶えず苦痛を持って眺めていたように思う。 真新しさが見られない古典的芸術作品を教育的に鑑賞したといった感じ。
隠された真実を知るには
若い画家とその恋人が老画家の住む大きな屋敷に招かれる。老画家の妻と画商の男も加えた五人の会話は空虚な会話で、誰も自分の真情を口にしているようには見えない。 しかし、交錯する五人の視線は観客に対して登場人物たちの本音を伝えていて、彼らの視線の一つ一つを丁寧に追っていくことで状況に対する理解が得られる。 若い女がモデルになり、老画家は昔あきらめた絵をもう一度描こうとする。映画はこの描く行為を中心に映し出す。 筆によって紙にひかれる線の一本一本を丁寧に追うと、1本では何の意味も持たない線が、他の線と関係を結ぶことで人間の肉体の一部へと変容していく。非常に長い時間をかけてカメラはとらえるのだが、これは多くの観客に忍耐を要求するものである。そしてこの忍耐こそが、人間や人間を取り巻く真実を理解するには不可欠なものであることを映画は訴えかけてくる。 老画家は、新しいモデルに対して様々なポーズを要求し、自らもまた幾枚もの習作を描く。この過程の描写もまた、分かり易くテンポの良い展開を望む観客にとっては苦痛でしかなかろう。 だが、観客の都合に妥協することなく、このプロセスのなかにこそ相手への見方や自分の行為の意味の変化が起きていることを映画は見せるのである。 最終的に仕上がった絵は画面には映らない。老画家の視線によってとらえられた線の集まりがこの作品であるならば、それは四時間近くの長時間、老画家の視線を追い続けてきた観客に具体的なものを見せる必要はないのだ。 エマニュエル・ベアール演じるマリアンヌという女を見つめ続けてきた老画家と観客。この両者が出した答えにそんなに違いはないはずだ。そして、画商に渡すためのもう一つの絵には、その答えは描かれていないことも観客は当然知っている。 壁に塗り込められた絵のように、隠された真実は丁寧に忍耐強く観察を続けることでしか知ることはできないのだ。
まるで額縁舞台のような映像美。
冒頭のオープンカフェは、周りを木々に囲まれ、その隙間から無数に差し込む陽光が印象派絵画そのもので、額縁舞台の映像美である。芸術の街らしく、光と影のコントラストは風景画のような情景を見せてくれた。 裸婦役のE・ベアールもまた、印象派の画家達が好んだ丸みを帯びた柔らかい肢体で、艶かしい裸体を見せてくれた。 写真の技術により、絵画が記録としての役割を持たなくなった時代、画家達は内面にある感情を表現するようになった。それが印象派以降であるが、この映画の中でも“美しき諍い女”というモチーフで、モデルに様々なポーズをさせることによって諍い女=激しい女の内面を捉え、形象化しようと試みたのではないか・・・と思われた。
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