アントワーヌとコレット 「二十歳の恋」よりのレビュー・感想・評価
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アントワーヌ・ドワネルとバッハの管弦楽組曲第3番。トリュフォー映画のリズムはクラシックだ。
ピエール・ルスタンが製作したオムニバス映画(なんと石原慎太郎も監督として参加している!)の一本で、30分の短編ながら、見ごたえも歯ごたえも十分。
全体に、若やいだリズムと、幸せな温かさが、作品を支配している。
ラストはずいぶんと苦い結末を迎えるが、それも含めて観ていて心がどこかほっこりする一本だ。
ポジティブな青春の躍動に、ラストでふわっと影が差す構成は、デビュー短編の『あこがれ』となんとなく似ているかもしれない。
元ネタとなっているのはトリュフォー自身の初恋で、シネマテークで顔を合わせていた女性(ゴダールも同じ女性に熱をあげていた)に焦がれて、実際に彼女のアパルトマンの向かいのホテルに引っ越したりしたらしい。
要するに、「映画とシネマテーク」を、作中では「クラシックと青年音楽連盟」にすげ変えているわけだ。
僕は、6月に観た『家庭』の感想で、トリュフォー作品のリズムは「クラシック」だと書いた。
その感想は今も変わっていない。
本作では、トリュフォーのクラシックへの造詣と関心が随所で発揮されている。
ここでは、クラシックと本作の関係に絞って、気づく限りのことをまとめておきたいと思う。
冒頭、時計とつながったラジオから流れるシャンソンで目覚めたアントワーヌが、短い両切り煙草をふかしながら、バッハの『管弦楽組曲第3番』の「序曲」をかけるシーンは、映画史上に残る名オープニングのひとつだと思う。
ただし、手にとっているレコードのジャケットには「バッハ」とあるが、その上にフェルナンド・ジェルマーニと書かれており(Le Professeur Fernando Germani – Joue J.S. Bach)、彼は指揮者ではなくオルガニストなので、実はこのジャケットは思い切り間違っている。意外に適当だが、もしかすると、撮影時点ではオルガン曲を流すつもりだったのが、編集段階でもっと派手な組曲に差し替えになったのかもしれない(ちなみに、引っ越しのシーンで同じレコードを戻すジャケットが明らかに別のものに変わっているが、斜めになっていてよくわからなかった)。
このシーンで、背後の壁に貼られているのはワルター/コロンビア響のマーラー交響曲第1番(1961年録音)の仏フィリップス盤レコードジャケットポスターであり、これはアントワーヌがフィリップスで働いている設定とぴったり合致する。その右には、一瞬でよくわからないがベートーヴェンらしき肖像のポスター、レコードの左奥の壁には、指揮者らしき手が写ったポスターが見える。
このポスターは、後のシーンで全体が映り込み、カール・べームの指揮姿であることがわかる。
べームについては気になったので、家に帰っていろいろ画像検索で調べてみた結果、遂にくだんのLPを発見した。モーツァルト交響曲41番「ジュピター」、32番、26番のレコードで、カール・ベーム指揮コンセルトヘボウ管(1956年録音)。
おお、ドンピシャでフィリップスのLPじゃないか!
……こんなくだらないことを、必死こいて調べている人間もそうそう世の中にいないと思うので、この発見は大いに褒めてほしい(笑)。
アントワーヌが部屋に貼っている一番大きなポスターには、「Jeunesses Musicales de France」と書いてある。これが、略称JMF、映画では「青年音楽連盟」と訳されている実在する団体で(フランス青年音楽協会とも)、1944年にルネ・二コリーによって設立された。学生を対象とする演奏会を定期的に開催しており、アントワーヌとコレットもその会員になっている(タイムカードみたいなものを棚に差して入場しているのが面白い)。演奏がおこなわれているのは、パリ8区にあるシンフォニー・ホール、サル・プレイエルだ。
JMFの演奏会で最初にかかるのは、ベルリオーズの『幻想交響曲』の第二楽章。
そういや、このあいだ観たテリー・ギリアムの『ジャバーウォッキー』でも、『幻想』の終楽章がかかってたな。
この曲は、ひとりの女性に恋焦がれるあまりに、ついにはアヘンによるトリップ状態のなか、愛する女性を殺して処刑される自分の姿や、そのあと魔女のサバトに参加するようすを幻視するという筋書きの話で、まさにこの映画の内容にぴったりフィットしている。
さらに第四楽章が流れるのだが、その最後(主人公の青年が断頭台で処刑されるところ)で客が拍手を始めて演奏が終わってしまう。これは明らかにおかしい。なぜなら、本来はこの曲には続く第五楽章があるからだ。
なお、これの次の演奏会の冒頭で、ピエール・シェフェール(磁気テープを用いた作曲のパイオニア)の現代音楽を流す前口上が語られるが、演奏自体は流れない。
このあと、アントワーヌがコレットからの手紙を読むシーンで、もう一度彼の自室が映るのだが、今度はワルターのマーラー1番のポスターの上に、もう一枚ワルターのポスターが貼ってあるのが映り込む。
こちらも帰宅後、画像検索で無事元となったLPを見つけました。
モーツァルトの交響曲第40番&第35番「ハフナー」。ブルーノ・ワルター指揮コロンビア響(1953年録音)。やはり、仏フィリップスのレコードでした!
アントワーヌが自室からの引っ越しを始めるシーンでかかっているのが、映画の冒頭で流れていたバッハの管弦楽組曲第3番「序曲」の「次」の曲にあたる「エア」だ。これは、ヴァイオリン独奏用に「G線上のアリア」として編曲されており、誰しも聞き覚えのある旋律だろう。
さらに、彼が引っ越した先のホテルの自室でかけているのは、同曲の3曲目にあたる「ガヴォット」。レコードをプレスして作っているシーンで流れているのが、5曲目にあたる「ブーレ」である。実際にレコードをプレスするところなど、滅多に観られないのでちょっと興奮してしまった。あんな手荒な手技でマジで作れるもんなのだろうか??
そんなこんなで、クラオタ的にもいろいろと見ごたえのある映画でした。
よくある●●話そのまま
よっぽど、ヒットに便乗したナンチャラPartⅡといった類いが嫌いだったようで、元々、続編の構想があったにも関わらず『大人は判ってくれない』の予想外の大ヒットによって一度は企画を諦めてたらしい。
恋愛モノのオムニバスゆえ、当然ストーリーも必然的にそうなるのは仕方ないが、とはいえ、続編なのであれば、前作のテーマと繋がる要素は入ってないと、やっぱり物足りない。
それに今回も自伝ネタであれば、ぜひシネマテークに通い詰めて、シネクラブを始めた頃の話をやって欲しかった。
あまりに赤裸々なのは嫌だったかもしれないが、トリュフォーは作品よりも、トリュフォー本人の方が面白いと思うので。
お相手を演じたマリー=フランス・ピジエは、この後の更なる続編にもチョイチョイ出てくるので、このシリーズが好きな人にとっては所謂マストか。
ちなみに本作、この頃に流行ってたオムニバス映画の一編なので、冒頭のオープニングで本作以外のクレジットも出てくる。
フランス篇が本作で、日本篇は石原慎太郎が、ポートランド篇はアンジェイ・ワイダ、他にもイタリア篇はロッセリーニの弟?など各国別々の監督の名前が出てくる。
トリュフォーが各国の監督を選択したのだが、もちろん作品は全く別々。
よって、他の監督達は本作に関わりは無いのだが、この辺を知らないと…
なんで石原慎太郎?という不要なクエスチョンが冒頭から付き纏ってしまうだろう。
アンジェイ・ワイダの作品も気になるが、あの頃の石原慎太郎、相当ヤバイ小説を書いていた時期と重なるので、どんな映画だったのか?ちょっと気になる。
女の子も判ってくれない
『大人は判ってくれない』のその後のエピソードで、30分の短編としてうまくまとまっています。学校をドロップアウトし、レコード会社で働いているアントワーヌが、コンサート会場で見かけた女の子に不器用なアプローチをするお話しで、トリュフォーが自分自身を主人公に投影しているようで、イタイ青春時代が微笑ましいです。最後のオチも、なんとも気まずい感じで笑えます。
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