「対峙 自分自身の心と向き合うということ」息子のまなざし レントさんの映画レビュー(感想・評価)
対峙 自分自身の心と向き合うということ
いわゆる修復的司法を描いた「対峙」という作品があった。犯罪被害者側と加害者側が裁判外で直接ひざを突き合わせてお互いの立場から思いをぶつけ合い、つらい事件の記憶と向き合うことで被害者側は事件のショックから立ち直り、加害者側も罪と向き合い更生の道を模索するという、両者にとって最も効果的な再生の道を探るというのが修復的司法だ。
息子を殺された主人公オリヴィエと加害者の少年であるフランシス。この両者がオリヴィエが勤める職業訓練校で偶然出会うことから物語は始まる。二人はその偶然の出会いからお互いの自分自身の心と対峙さざるを得ない状況になってゆく。
オリヴィエはフランシスが事件の加害者であることを知りながら自分の生徒として受け入れる。しかしフランシスはそのことを知らない。
作品前半はオリヴィエのその態度や表情からは彼の意図が見えず、観客からしたら彼が復讐の機会をうかがっているようにも見える。隙をついてフランシスの部屋に上がり込み彼のベッドに寝そべったりとオリヴィエの行動が理解できず、先の展開が予測できないようになっている。エンタメ性の少ないダルデンヌ作品だが、この点では観客は中盤あたりまでその不穏さからスリリングな雰囲気を味わうことができる。
しかし、中盤以降次第にオリヴィエに復讐の意図がないことが徐々にわかってくる。彼の心の変容が彼の行動を通して作品では描かれていて、全編台詞を極力排した映像だけで見せることにより観客は主人公の心の変遷を作品を通して理解することができる作りになっている。
訓練校でオリヴィエの指導を受けるフランシスはどう見ても普通のあどけなさが残る少年であり、とても自分の子供を殺した人間には見えない。この段階では興奮する元妻をなだめながらもオリヴィエ自身いまだフランシスとどう向き合うべきなのか整理がつかない状態であることがわかる。
もしフランシスが悪びれる様子もなく息子を殺したことを後悔もしてないような人間ならオリヴィエは彼に対して殺意を抱くこともあったかもしれない。しかし目の前のフランシスはとても人を殺めたようには見えない年相応の少年でしかなかった。オリヴィエは時折そんなフランシスに対して息子と接するかの様な錯覚さえ抱いたのかもしれない。それだけにオリヴィエは悩んだ、自分の息子を殺した犯人が憎むべき存在であってくれた方が逆に楽だったはずだ。
しかし自分の指導を従順に受け入れるフランシスの姿を前にしてオリヴィエは自分の中にある憎しみや悲しみの感情と対峙し、赦しというものと向き合わなくてはならなかった。
フランシスから事件のことをどう考えているのか聞き出そうとするオリヴィエ。フランシスは果たして事件のことをどこまで後悔しているのか。罪の重さをどこまで感じているのか。オリヴィエはフランシスを憎むべきなのか赦すべきなのか、自分の心と向き合うにはフランシスが今どのように考えてるのか知る必要があった。
もちろん後悔を口にするフランシス、しかし彼の言動からは本当に人の命を奪った罪の重さを感じているようには見えない。彼が自身の犯した罪の重さを受け止めるには幼すぎたのかもしれない。オリヴィエはフランシスに思い切って事実を告白する。自分はお前に殺された子供の父親なのだと。
それは彼を責めるためではなく彼に知ってもらいたかったからだ。自分がいかに重い罪を犯したのかを。
逆にフランシスはここで初めて自分の犯した罪と本当の意味で対峙することとなる。自分が死なせた相手の父親が目の前にいる。彼が動揺するのは当然だった。後見人まで頼むほど慕っていた相手が自分の事件の被害者だと知りショックは大きかったはずだ。
その場から逃げ出すフランシス、彼を追いかけるオリヴィエ。思わずフランシスの首を絞めようとして思いとどまるオリヴィエ。
木材を積み込むオリヴィエのもとに戻ってきたフランシスは何も言わずに木材を積み込むのを手伝う。彼は逃げずにオリヴィエのもとに戻った。このとき彼は幼いながらも逃げずに自分の罪と真正面から向き合うことを決意したのかもしれない。
犯罪に巻き込まれた事件の被害者は犯人を憎み続ける限り本当の意味で事件から解放されることはない。その後の人生を生き続けるにはその事件のつらい記憶から解放されなければならない。そしてその重荷から解放されるには加害者を赦すことしかない。そうして自分の中の憎しみという重荷から解放されるのだ。映画「対峙」では修復的司法という制度の下で事件の当事者たちの心の解放を描いた。本作は偶然の出来事で事件の当事者たちが自分たちの心と向き合う状況に置かれ自分たちなりに過去のつらい記憶と向き合っていこうという姿が描かれた。
ダルデンヌ作品らしいヒューマンドラマの秀作であった。