「100年前の「アンチ亭主関白」教育映画。結婚する若者♂全てに鑑賞を義務化してはどうか?」あるじ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
100年前の「アンチ亭主関白」教育映画。結婚する若者♂全てに鑑賞を義務化してはどうか?
何ってこった。100年前の映画なのに全然古びてない!!
現代でも十分に通用するよね。教育的な観点から見ても。
これから結婚を予定している青年たち全員に、
「婚前教育ビデオ」として観させてもいいくらいじゃないか(笑)。
暴君として厭味ったらしく高圧的に振る舞う亭主。
それを愛ゆえに受け入れてしまう良妻賢母の奥さん。
二人の様子を観察している、通いの家政婦でもある夫の乳母。
あまりの亭主の横暴ぶりに業を煮やした乳母は、一計を案じる。
奥さんを実家に返し、度の過ぎたDV亭主を己の手で「再教育」しようというのだ。
しょうじき、100年も前に、支配的な夫を懲らしめて、
奥さんの価値を称揚し、家事労働の大変さを知らしめ、
家庭での「本当のあるじ」とは誰かを高らかに宣言する、
そんな映画が作られていて、びっくりした。
やっぱりデンマークって先進的な国なんだね。
(「奥さん」という言い方もフェミニズム的にはアウトなのかな? まあ専業主婦を敬う呼び方だと僕は理解してるんだけど。関西出身なので、なんでも「妻」と称することに語感として抵抗があるんだよなあ。あっちじゃだいたい、みんな「嫁はん」っていうからね。まあ許してください)
コメディ仕立てではあるけれど、本作は本質的には「社会派映画」であり「教養映画」だと思う。
「主婦の価値の向上」と「父権的な家庭構造からの脱却」を目指した、きわめてまっとうな社会変革を指向する映画であり、その意味でも本作はとてもよく出来ているのではないか。
まず、じっくりと腰を据えて、夫婦+子供三人の「一般的な家庭」のモーニング・ルーティンをリアリスティックに描き出す。
そのなかで、以下の情報を手際よくまとめて呈示してゆく。
●主婦の朝は忙しく、次から次へと家事が押し寄せてくること
●夫は命令口調の愚痴をぶつけるばかりで、何も手伝わないこと
●長女にはある程度の家事分担がなされていること
●緯度の高い国なので、冬になると家事として「靴や外套を温める」「お湯をわかす」といった、ストーブまわりの管理がたいへん重要になってくること
●食事は朝はパンとバターとコーヒーのみ、昼はおかゆだけ、と困窮した生活を送っていること
●その割に旦那は「出かけて歩き回ってるだけ」という疑惑があること
●夫は妻だけでなく、娘や息子や鳥にも高圧的に当たっていること
●通いで夫の元乳母のおばあさんが来ていて、彼女が奥さんの側の味方であること
とにかく前半で夫君に対する観客の「ヘイト」を溜められるだけ溜めておいて、中盤以降の「再教育」からラストに向けて、今度は観客の「溜飲」を下げてゆく。
その構造は、冒頭に荒くれ者の犯罪者を出してきて、その男が優しい修道女やいたいけな子どもと交流を持つことで、だんだんと人としての心を取り戻し、ついには改心するという王道の「更生もの」の形式を、上手くホームドラマへと移入しているといっていい。
DV亭主を単なる悪役として描かず、もともとは愛情深い夫だった人間が生業の不調で異変をきたしているように設定して、成長の余地と救済の余地を与えているのも清々しい。
これは、ろくでなしのDV夫を「やっつける」話ではなく、大好きなお父さんを「取り戻す」ために、家族が総出で「がんばる」話なのだ。
大枠でこの「父親教育」の作業を進めながら、一方で、日常の家事のちょっとした所作や家内のルールを、ドキュメンタリー映画のように端々に挟みこんで来る。その匙加減が絶妙で、とても100年前の映画とは思えない。
ここで細やかに描き込まれる家事のたいへんさは、北方ルネッサンス~バロックの風俗画(ブリューゲル、ヤン・ステーン、フェルメール、レンブラント、メツーなど)の絵画的世界の現代的な再現であると同時に、主婦の家庭内労働が男性の賃金労働に匹敵するという社会経済学的な真理を表わしており、「家庭劇としての美的リアリズム」と「社会派ドラマとしてのテーマ性」の双方を充足するものである。
ついでに言うと、ドライヤー映画としても、本作のとっつきやすさはピカイチで、観ていてとても好感がもてるし、先行きが終始気になるし、出てくるキャラについ感情移入してしまう。これだけ「楽しく」観られるドライヤー作品は他にないのではないか。
とにかく、マッス婆さんのキャラクターが痛快で素晴らしい。
ろくに笑顔も見せない偏屈ババアだが、弱きを助け強きをくじく、真のヒーローがここにいる。少しとろんとした得体の知れない眼差しで、彼女はすべてを見通し、いまこの家族が抱えている問題の本質を見抜き、最良の打開策を考案したうえで呈示し、計画を身を挺して実行した末に、奥さんを救ってみせるどころか、旦那さんまで救ってみせるわけだ。
これだけの「家族再生プログラム」を成功裡に実施できた背景としては、彼女が旦那さんの幼少時をよく知っていて、「彼が本当は善人に戻れる余地がある」ことに確信が持てていたというのも大きいだろう。
なんにせよ、「女たちに寄ってたかって旦那の性根を叩き直される」話でありながらも、観ていて嫌な感じは一切なかった。
僕のように、ふだんはストーリーを捻じ曲げるようなポリコレを疎ましく思い、映画で大所高所から理想論を語るような輩を生理的に受け付けられないタイプの手合いが、「この映画は面白いうえに、ためになる」と諸手を挙げて絶賛しているくらいだから、たいていの人はごく普通に楽しめるし、受け入れられる映画だと思う。
まあ、人によっては「あれだけ奥さんにろくでもないことをしてた亭主には、もっとお仕置きが必要だ」とか、「奥さんが旦那さんに優しすぎて、ふつうに共依存にしか思えない」って意見の人もいるだろうけど、あまり男女の仲を理屈で考えないほうがいいし、本人たちがある程度幸せなら、それが単なる幻想だったとしても傍がどうこういうことではない。
間違いなく、本作の一家は、乳母の荒療治によって「再生」したのであり、それで充分、僕は楽しく観終えることができた。
それにしても、本作の現代とそう変わらない人権意識に基づいた社会的メッセージ性には驚きを禁じ得ないが、この父権性への嫌悪と女性の価値の肯定的評価には、ドライヤー自身の生い立ちが深く関係しているようだ。
Wikiによれば、ドライヤーは富裕な地主が女中に産ませた私生児で、生後すぐに乳児院に預けられ、やがて植字工を営んでいたドライヤー家の養子となった。養家はカールに対して極めて厳格であったらしい。
ドライヤーの生みの親は、カールを産んだあとも別の男の子どもを身ごもり、民間療法の中絶に失敗して硫黄中毒で死亡した。生母の末路を後から調べて知ったドライヤーは、彼女を死に追いやったのが男性社会や権力者だったことを知り、繰り返し「女性を苦しめる権力構造」というテーマを扱うようになったとのこと。
要するに、ドライヤーにとっては『あるじ』も『裁かるるジャンヌ』も『怒りの日』も『ゲアトルーズ』も同根なのだ。
男性中心の父権的で権威主義的な社会が、よってたかって女性を押しつぶし、虫けらのように死に追いやってゆく。そのことに対する個人的な恨みと憎しみと、社会変革を志す猛烈な欲求。
それが崇高なる苛烈さをともなって、万人を調伏するような圧倒的な表現へと昇華したのが『裁かるるジャンヌ』と『怒りの日』だったとすれば、共感と優しさを秘めて、男性側にも女性側にも妥協と慮りを拠り所をした理想主義を説いてみせたのが、本作『あるじ』だったといえるだろう。
映画の仕上がりにはずいぶんな差があるが、『裁かるるジャンヌ』と『あるじ』は、同じ思想とテーマの、発現の仕方が異なる二つの側面に過ぎないのである。
ちなみに、お前はどうなのかと問われると、一応結婚して20年間、妻に怒鳴ったこともなければ文句をつけたこともない。ましてや手をあげるなどもってのほかである。
家事も、料理・洗い物、ゴミ出しは概ね僕がやっている。ただ掃除、洗濯は彼女が率先してやっているから、家事の総量としては似たり寄ったりか(僕が率先して料理を作るのは、明らかに僕のほうが得意だからで、家でも美味しいものを食べたいので作っているにすぎない)。
本作に出てくる旦那さんには、次のことを強く言っておきたい。
それは、どうせ奥さんに偉そうにしたいのなら、せめて家事ごとき、奥さんに負けてはいけない、ということだ。料理も、掃除も、洗濯も、裁縫も、女子供に自分が劣るわけがないとの覚悟と自負をもって、ぜひ率先してやってもらいたい。
なんなら、奥さんや子供の仕事は全部奪い取るくらいの迫力で、外では働き、なかでは家事に精を出し、家人をどんどん甘やかしてやってほしい。
それが本当の「男尊女卑」というものであって、そこまで女性や子供にやさしくできないというのなら、今度は満を持して男女同権を目指すと良い(笑)。
家父長制と男性権威主義を極めた先には、女性の抑圧ではなく「騎士道」が待っているべきだ、と僕は比較的真面目に信じている。