「アカとクジラ」ヴェルクマイスター・ハーモニー かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
アカとクジラ
「恥ずべきことにこの数世紀の音楽作品の音程はすべて偽りであり、音楽もその調声もエコーも、その尽きせぬ魅力も、誤った音声に基づいている。大多数の者にとって純粋な音程は存在しないのである。」
「ここで想い起こすべきことは、もっと幸福だった時代のこと。ピタゴラスの時代だ。我々の祖先は満足していた。純粋に調声された楽器が数種の音を奏でるだけで。何も疑うことなく、至福の和声は神の領分だと知っていた。」
主人公の郵便配達ヤノーシユが面倒をみる老音楽家エステルが語るこのヴェルクマイスター音律と、ブダペストの広場にサーカス一座が運び込んだ巨大なクジラのハリボテ、そして、影だけで姿を人前にけっして現さない“プリンス”とは一体?
戦時中はナチスドイツに協力→戦後はソ連占領下の共産主義政権→ソ連崩壊後NATO・EU加盟→現在はウクライナ支援に反対する親ロシア政権。東欧諸国の戦後史を辿ると決まって上記のようなストーリーに遭遇する。親独政権と親露政権の間をいったりきたり、米国と中国の両方からカツアゲを食らっている現在の我が国と同様に、不安定な政権が戦後ずっと続いているのである。“プリンス”の国籍や中産階級の暴動の後軍事介入してきた国がどこか特定されていない理由は、ハンガリー国内で将来も起こりうる、いな現在すでに起こっている紛争を見越していたからに相違ない。
同監督作品『ニーチェの馬』(2011年)を劇場で見た時は、ジャガイモ爺さんとその娘に待ち受ける“嵐”の意味がよく分からなかったのだが、グローバリズムの終焉とナショナリズムの世界的盛り上がりを肌で感じる昨今、むしろストレート過ぎる政治的メタファーだったのだろう。バッハのお友達だったヴェルクマイスターが考案した調律方法では、和声が濁って聞こえる副作用を生じるらしい。つまり、コミュニズムにしろグローバリズムにしろ、人工的な政治経済システムではかならずや不協和音を生み出し、それは神が自然界にもたらしたハーモニーには遠く及ばない。てなことを多分言いたかったのではないか。
『ジョーカー1』でトッド・フィリップスが描いた暴動前夜の不穏な空気が、本作では異様な凶気をはらんだ中産階級の無言の行進によって、より具体的にリアルに描かれる。巨匠タル・ベーラはこう語る。「言うなれば、飢えや苦難で堕落した文化と、キリスト的西洋文化を二分する、目に見えない壁です。この物語で、追放された人々の獣的な熱情が、飢餓行進と同時に吹き出す。一方、中流的価値は意味を失い、昔からの階級秩序が独自の風刺画になり、何世紀にもわたって続いてきた文化がその価値を下げるのだ」と。
私は思うのだ。他国を占領しようと思ったら、まずはその国の不満分子を焚き付けて内戦を起こす。その内紛を鎮圧するという名目で、本作のように大国が軍事侵攻をかければ一丁あがりなのである。今般のウクライナ紛争がいい例である。自民党の旧安倍派や保守系の野党と、米国や中国に弱味を握られいいなりのなんちゃってグローバリストたちとの間で内紛状態にある日本とて例外ではないだろう。しかし「内紛は水際まで」という言葉があるように、“プリンス”のようなデマゴーグに踊らされて事に及んでは大国の思うがままなのだ。
獣と化した暴動グループが襲撃をかけた病院で、痩せこけた老人を見つけた時、彼ら一団はある“過去”を思い出すのである。それは、戦時中ナチスドイツのホロコーストに協力したハンガリー矢十字党の暗い歴史の一頁だったのではないか。老音楽家が「彼らが築いたものや、これから築こうとするものは、すべて幻覚である」と語ったように、広場に放置されたハリボテの巨大クジラは、霧雨の中で次第にその輪郭を消してゆく。かつてヴェルクマイスターが均等に音律を割り振った秩序の中では、自由と平等は未来永劫ハーモニーを奏でることがないのだろう。