ヴェルクマイスター・ハーモニーのレビュー・感想・評価
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四半世紀を経て、預言者の如く還ってきたクジラ
タル・ベーラの作品はたやすく時を超える。4Kで生まれ変わったこのモノクロームの黙示録的怪作と23年ぶりに対峙し、相変わらず催眠術にでもかかったかのように体と心が痺れゆくのを感じた。そこに東欧ハンガリーが辿ってきた歴史の苦悩が刻まれているらしいことはわかる。だが同時に、約四半世紀を経たいま、この映画が指し示しているのはむしろ「現代」なのではないかと、本作のことを預言者のごとく改めてまじまじと見入ってしまう我々もいる。見世物のクジラ。扇動者プリンス。怒れる人々。不気味に立ち込める街の空気。音もなく静かに広がる破壊、暴力・・・。もともと千差万別のメロディで自由に謡われていた人々の暮らしや価値観が一方的に定められた概念によって統制されゆく時、人間はそこから逸脱する者を集団で否定し、貶め、抑圧しようとする。そこに思考や理性は皆無。いわばこの映画そのものが、世界の現実を見つめ、謳い続けるクジラである。
アカとクジラ
「恥ずべきことにこの数世紀の音楽作品の音程はすべて偽りであり、音楽もその調声もエコーも、その尽きせぬ魅力も、誤った音声に基づいている。大多数の者にとって純粋な音程は存在しないのである。」 「ここで想い起こすべきことは、もっと幸福だった時代のこと。ピタゴラスの時代だ。我々の祖先は満足していた。純粋に調声された楽器が数種の音を奏でるだけで。何も疑うことなく、至福の和声は神の領分だと知っていた。」 主人公の郵便配達ヤノーシユが面倒をみる老音楽家エステルが語るこのヴェルクマイスター音律と、ブダペストの広場にサーカス一座が運び込んだ巨大なクジラのハリボテ、そして、影だけで姿を人前にけっして現さない“プリンス”とは一体? 戦時中はナチスドイツに協力→戦後はソ連占領下の共産主義政権→ソ連崩壊後NATO・EU加盟→現在はウクライナ支援に反対する親ロシア政権。東欧諸国の戦後史を辿ると決まって上記のようなストーリーに遭遇する。親独政権と親露政権の間をいったりきたり、米国と中国の両方からカツアゲを食らっている現在の我が国と同様に、不安定な政権が戦後ずっと続いているのである。“プリンス”の国籍や中産階級の暴動の後軍事介入してきた国がどこか特定されていない理由は、ハンガリー国内で将来も起こりうる、いな現在すでに起こっている紛争を見越していたからに相違ない。 同監督作品『ニーチェの馬』(2011年)を劇場で見た時は、ジャガイモ爺さんとその娘に待ち受ける“嵐”の意味がよく分からなかったのだが、グローバリズムの終焉とナショナリズムの世界的盛り上がりを肌で感じる昨今、むしろストレート過ぎる政治的メタファーだったのだろう。バッハのお友達だったヴェルクマイスターが考案した調律方法では、和声が濁って聞こえる副作用を生じるらしい。つまり、コミュニズムにしろグローバリズムにしろ、人工的な政治経済システムではかならずや不協和音を生み出し、それは神が自然界にもたらしたハーモニーには遠く及ばない。てなことを多分言いたかったのではないか。 『ジョーカー1』でトッド・フィリップスが描いた暴動前夜の不穏な空気が、本作では異様な凶気をはらんだ中産階級の無言の行進によって、より具体的にリアルに描かれる。巨匠タル・ベーラはこう語る。「言うなれば、飢えや苦難で堕落した文化と、キリスト的西洋文化を二分する、目に見えない壁です。この物語で、追放された人々の獣的な熱情が、飢餓行進と同時に吹き出す。一方、中流的価値は意味を失い、昔からの階級秩序が独自の風刺画になり、何世紀にもわたって続いてきた文化がその価値を下げるのだ」と。 私は思うのだ。他国を占領しようと思ったら、まずはその国の不満分子を焚き付けて内戦を起こす。その内紛を鎮圧するという名目で、本作のように大国が軍事侵攻をかければ一丁あがりなのである。今般のウクライナ紛争がいい例である。自民党の旧安倍派や保守系の野党と、米国や中国に弱味を握られいいなりのなんちゃってグローバリストたちとの間で内紛状態にある日本とて例外ではないだろう。しかし「内紛は水際まで」という言葉があるように、“プリンス”のようなデマゴーグに踊らされて事に及んでは大国の思うがままなのだ。 獣と化した暴動グループが襲撃をかけた病院で、痩せこけた老人を見つけた時、彼ら一団はある“過去”を思い出すのである。それは、戦時中ナチスドイツのホロコーストに協力したハンガリー矢十字党の暗い歴史の一頁だったのではないか。老音楽家が「彼らが築いたものや、これから築こうとするものは、すべて幻覚である」と語ったように、広場に放置されたハリボテの巨大クジラは、霧雨の中で次第にその輪郭を消してゆく。かつてヴェルクマイスターが均等に音律を割り振った秩序の中では、自由と平等は未来永劫ハーモニーを奏でることがないのだろう。
よく分からぬまま圧倒さる
毎回、「一体何の映画なんだ」と混乱させられるものの、心をざわつかせる長回しの映像がいつしか脳裏に焼き付けられるタル・ベーラの2000年の作品が、スクリーンでリバイバルです。 広場に突如出現したクジラの巨大オブジェと人々の心の裏側を煽る男。そして、その言葉で目覚めたかのように暴徒化する大衆。それぞれが何を意味するのかは今回もやはりよく分かりません。しかし、タル・ベーラらしいモノクロ・長回しの映像は困惑とザワザワ感を抱かせたまま観る者を圧倒します。 それは、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」の風評に振り回された関東大震災の暴徒の様にも、フェイク情報に踊らさられる現代のSNS空間の様にも見えます。 そして、終盤の10~15分間にわたる大規模破壊行動の長回しでは、「これ、絶対に失敗できないお金の掛かった一発撮りだよな」と別の緊張感にも晒されたのでした。
あまり理解できなかった…
忽然と現れたクジラ ラディカルでパンクな傑作 と紹介文にあり、 デヴィッド・リンチっぽい不可思議な感じやパンクっぽいモノを期待して観たんだけど、不可思議な感じじゃないしパンクっぽくもない。 あまり意味わからなかった… 1回観ただけじゃ理解できないと思う。 あと、言われてる方いますがワンシーンが長い(笑) 意味あるんでしょうけど(笑) ここでの評価は高いみたいだけど、個人的には…
タル・ベーラの黙示録
劣悪なシートだった今はなき名古屋シネマテークに低反発の座布団を持参し臨んだ世紀の傑作、7時間18分の「サタンタンゴ」(1994)に続く2000年作が4Kデジタルレストア版で再映となった。
期せずしてシネマテークの後を継いだナゴヤキネマ・ノイでのデビュー戦となった(シートは新調されていた‼︎)
そして今作もまた嫌になるほどの傑作だった。
ハンガリーの荒涼とした田舎町。町の広場にやってきた移動サーカスと見世物の巨大なクジラ。彼らとともに現れたプリンスと名乗る煽動者にあおられ、住民たちが暴徒と化した。まるで思考を停止したかのように暴行と破壊を繰り返した。何の救いも無かった。
そう、これは黙示録そのもの。
観る我々は郵便配達のヤーノシュと共にそのすべてを見届けることになる。
「サタンタンゴ」や「ニーチェの馬」と同様、ロシア🇷🇺の影響下で自由を奪われ考えることをやめてしまったハンガリー🇭🇺に絶望するが如き厳しい作品だった。
思えば2012年に「ニーチェの馬」で出会った短いお付き合いのタル・ベーラ。しかし自分の中ではすでに45年以上付き合ってきたタルコフスキーやアンゲロプロスと並び称したい別格の存在だ。
「クジラ」とはいったい何なのか?
監督自身は上の問いの答を持っていたのかどうか。 見直してみたけど、クジラに限らず、全てがさっぱりわかりませんでした。 でも、印象に残るシーンがたくさん。 ある方のレビューでの「パンクする子どもたち」というような表現を思い出してしまい、あのシーンでは笑いをこらえるのに苦労しました。末はシド・ヴィシャスかチンパンジーのおもちゃ(わんぱくおさるのシンバルくん)か、というくらいパンクしていました。 あと、月は地球の方に常に同じ側を向けるように自転してますから、せっかくなので、最初の場面はそうして欲しかったなあと思いました。(まあ、どうでもいいんですけど) <最初のレビュー> 理解できてない。 もう一度見てみたい。
伸縮するカメラ
ギリシア語には時間を表す語彙が2つある。一つはクロノス(χρόνος)、もう一つはカイロス(καιρός)だ。 クロノス的時間は過去から未来へと一定速度で一定方向に流れる時間の流れ、すなわち客観的時間を表しているのに対して、カイロス的時間は個々人が感じる時間の流れ、すなわち主観的時間を表している。 20世紀文学最大の収穫は、このカイロス的時間が発見されたことだろう。バージニア・ウルフやジェイムズ・ジョイス、ウィリアム・フォークナー等に代表される「意識の流れ」文学然り、プルースト『失われた時を求めて』然り、「私」を一人称とした日本の私小説然り、語り手の主観的な「感じ」の強弱によって記述の密度が変化するような文学作品が多数登場し、主流化した。これによって文学は物理現象のみならず、個々の内面的な心理作用をも扱えるようになった。 このように、今やカイロス的時間は文学上のレトリックとして広く流通しているわけだが、それというのも小説や漫画が物理世界の制約を受けない媒体であるからだ。小説や漫画の中の世界は個々の想像力の中だけで完結する空想世界であり、ゆえにカイロス的時間という超物理的な時間進行が許容される。 しかし物理世界において流れるクロノス的時間においては、一秒は絶対に一秒であり、罷り間違っても伸び縮みすることはない。ゆえに物理世界を部分的に転写し、それらを並べ替えることで初めて成立する映画という媒体において、クロノス的時間を描くことは非常に難しい。 というかそもそも映画は個々人の内面を描くことに強く抵抗してきた媒体だといえる。映画批評家の蓮實重彦あたりがいい例で、彼は徹底的に「映し出されているものだけを観ること」にこだわった(=表層批評)。彼にしてみれば心理描写を安易にモノローグで被せるような映画などはその時点で映画として「嘘臭い」のだろう。ここには映画という媒体におけるカイロス的時間の支配性が滲み出ている。 とはいえ自身の「感じ」によって眼前の世界が大きく変容するという事態は確かにある。でなければクロノスなどという概念は生まれない。 さて、映画という媒体において、主観的な「感じ」を表現する手立てはないのだろうか。本作はこの問いに対する一つのラディカルなアンサーになり得ているように思う。 本作の特徴はなんといっても全編を通しての執拗なまでの長回しショットだ。長回しが印象的な映画作家は多いが、ここまでカメラ本体が多動する例は珍しい。たとえばテオ・アンゲロプロスなどはタル・ベーラに匹敵するほどに長回しの多い作家だが、彼の場合は基本的にカメラは三脚に固定されている。 なぜタル・ベーラのカメラは多動するのか。もっといえば、なぜこれほど誇張的に対象への接近と離反を繰り返すのか。 先に私は文学における時間の伸縮とその効果について話したが、タル・ベーラはそれを時間ではなく空間という軸において成立させているのではないかというのが私の見立てだ。 郵便配達員ヤーノシュを追い続けるカメラは伸縮を繰り返す。たとえばヤーノシュが街にやってきた巨大鯨の見世物を見に行くシーンでは、カメラは遠巻きの位置からいつの間にかヤーノシュの目線そのものかと思われるくらい鯨の見世物に接近する。それはまるで鯨の見世物に対するヤーノシュの没頭ぶりを示しているようだ。ヤーノシュは鯨の見世物にオブセッシブな興味関心を示している。だからこそカメラという視界は近視眼的に局限される。 あるいはラスト、ヤーノシュの頭上をヘリコプターが旋回するシーン。線路上を歩くヤーノシュを追っていたカメラは次第に頭上のヘリコプターの方に引き付けられ、ズームインしていく。灰色一色の空に浮かんでいるヘリコプター、それを至近距離で見つめるカメラ。周囲との相対的な位置関係は失われ、ヘリコプターが画角の中を危うく揺れ動く。 「集中のあまり周囲が見えなくなる」という慣用表現があるが、これらのショットはまさにそれを技巧的境位において実現しているといえる。20世紀文学が時間を伸縮させることで主観的な「感じ」を効果した一方で、タル・ベーラは空間を伸縮させることでそれを成し得たのだ。 主観、という概念はタル・ベーラとアンゲロプロスの作家性を峻別するうえでも重要となる。 アンゲロプロスは映画を通じて歴史を記述することに腐心した作家だ。代表作『旅芸人の記録』や『ユリシーズの瞳』『こうのとり、たちずさんで』『シテール島への船出』からなる「国境三部作」が示す通り、彼の主たる関心は彼の故郷であるギリシャやその周辺国が経験してきた暗澹たる歴史のアレゴリカルな語り直しにある。 歴史は小説やエッセイとは異なり、記述の客観性によってその価値が担保される。ゆえに彼のカメラは常に被写体を遠く離れた位置に置かれる。恣意的なズームイン/アウトはしない。全体像をフィックスではっきりと見渡したうえで、そこに生成明滅する出来事を淡々と誠実に記録していく。 一方でタル・ベーラは「個人の感じ」(=小説、エッセイ)に照準を合わせる。ゆえに彼のカメラは自在に伸縮する。主体の心境に合わせて空間が恣意的に歪曲する。 ここにおいて「テオ・アンゲロプロス-客観-固定」と「タル・ベーラ-主観-多動」という対立軸が析出する。 最後に、本作の技術的方法論は約20年の時を経てフー・ボー『象は静かに座っている』へと鮮やかに継承されることとなる。極端な長回しといい伸縮するカメラワークといい、『象』はまさに本作の方法論でもって中国辺境に住む孤独な魂たちの呻吟を描き出した怪作である。 フー・ボーはタル・ベーラ本人をして「彼のまなざしにはある種の突出した個性があった。数百名の中国人映画関係者が私との共作を打診してきたが、私には疑いもなく胡波しかいなかった」と言わしめたほどの俊英だった。そしてフー・ボーもまたタル・ベーラのことを「両親よりも大切な存在」であると崇敬している。 しかしフー・ボーは本作を最初にして最後の大作としてこの世を去ってしまった。タル・ベーラは彼の死を心の底から悔やんでいた。 「胡波(フー・ボー)から贈られた彼の本の献辞には「教父へ」とまで書いてあった。クソ、彼を救えなかった自分が残念だ。だが、誰が暴風のように荒くれた人間を救える?彼は世界を受け入れなかったんだ。世界もまた彼を受け入れないというものだ」 近年ではタル・ベーラは監督業を事実上退き、世界各地で若手監督を発掘するワークショップを開催している。日本人の中では『鉱』の小田香あたりが有名だろう。若手発掘に心血を注ぐタル・ベーラの脳裏には、ひょっとしたら中国の若き才人の死が常にちらついているのかもしれない。
ワンシーンの長さが強烈!&群集心理の恐ろしさを体感!
ワンシーンワンシーンがとにかく長い!長回しにて撮影される監督なのですね。 これは初体験でしたので、強烈でした。 冒頭から好みの始まり方で、すごくワクワクしたのですが、 ちょっとこのワンシーンの長さが、私にとっては冗長に感じてしまい、 集中力が持たない場面も多々ありました。 それにしても不穏な空気感からの 群集心理による暴力描写が何ともいたたまれない気持ちになるものの 今でも起きている戦争の現実をつきつけられた気がします。 非常に恐ろしかったですし、今観ても実にリアルだと感じました。 ラストの主人公の佇まいが悲しすぎました。 旧作を劇場で鑑賞できる機会があり、こういう企画は本当にありがたいです。
名画の如き怒濤のワンシーンの連続!((((;゚Д゚)))))))
同じ人間が撮ったとは思えない 名画のようなワンシーンの連続に 驚愕の映像体験でした!m(_ _)m 最近、カールドライヤー監督の作品を観て、 こちらも圧巻の迫力の体験でしたが、 それに勝るとも思えるシーンがずっと連続して、 見終わっても心の火照りが止まないようで、 久々にレビュー投稿してしまいました! ただドライヤー監督はかなり分かりやすく 説明してくれるのですが、タルベーラ監督は 説明一切なしのように感じるのが、少し 残念ではあります。ただ、説明を入れたら この美しさが損なわれるような気もします。 f^_^; 歴史や神話のワンシーンを描いた名画を 前にした時、多くの人がそこで足を止めて、 絵の中の群衆の一人一人を見て、 脳内で彼、彼女達が動いているシーンを 想像してしまうと思うのですが、 それが見事に映像として成立している事に 驚愕でした。 昔の画家は、動画というものが無かった故、 苦心して一枚の絵にその動きを落とし込んだ 訳ですが、タルベーラ監督は、 それを動画において、 ワンシーンという一枚の絵に 描いたように思えました。 ((((;゚Д゚))))))) もちろん動く名画ですから どの瞬間も、カメラの動きやスピードも 人の仕草も、群衆の交錯も、その構図も 全てが美しく無ければなりません。 とはいえ、そんな事、普通は不可能だと 思いますが、、、 タルベーラ監督はそれをやってのけてる事に 鳥肌&体が震えました。 監督以前にドライヤー監督が それをやっていたとは思いますが、 現代において、まさに神の視点での映画!再び! しかも最初から最後まで、そんなワンシーンの 連続で2時間以上も魅せるなんて、、 凄すぎます、、 たぶんサタンタンゴもそうだったのでしょうが あまりにもワンシーンの尺が長過ぎて ついていけなかった気がします。 (^◇^;) そして今作は、サタンタンゴより 分かりやすいメッセージ?暗示? があった点が良かったですね。 エステル叔父の口述録音メモ?で 印象に残ったのは、 「ヴェルクマイスターによって 非常に便利な平均律12音階が発見されて 以降、人々はその流れに逆らわず 乗る事しか考えてなくなってしまった、、」 また、 「古代において、人々はもっと不完全な音で 満足して暮らしていた。しかし、現代の人々は より良いものをと、次から次へと開発し、競い、 独裁者のように、煽動者のように 神の領域を冒すようになってしまった、、」 (自分の記憶ではこんな感じでしたf^_^;) あぁ、まさしく、そのとおりだな、と感じた メッセージでした。 まだまだ理解不能な事ばかりでしたが、 冒頭の太陽系ダンス、日の出の逆光の道を歩く、 リアル大鯨ボックス、広場で焚き火?、 恐怖の影絵プリンス、叔父と叔母の闘い? 郵便局の女の独り言、叔父と歩く歩く歩く、 ロック?パンク?な子供の狂騒、暴風、 戦車発進!?、暴徒の行進と暴動の病院、 ヘリ旋回の恐怖、鏡と対峙、自失、叔父と鯨の目、 等々 印象的な美しい?畏怖、畏敬のシーンが 脳内に刻まれました。 m(_ _)m 何何でしょう?理解不能なようですが 何か分かる気もする美しさ、 徹底して練り上げられたシーンに 圧倒されます。 監督の怒号と共にわずか37カットで 完成された名画。 ドライヤー監督もそうでしたが、 根本に現代社会への怒り、があり、 虐げられた者たちの恨み、を晴らすかの如く の2時間半でありました。( ; ; ) サタンタンゴはこの作品の為の習作のような 気がしました。 「一つの解釈に囚われるな」との事ですので 次はまたゼロに戻って観る必要がありそうです。 ^ ^
破壊とヴァイオレンスに満ちた漆黒の黙示録
ヴェルクマイスター・ハーモニー 4K 神戸市内にある映画館「シネ・リーブル神戸」にて鑑賞 2024年3月5日(火) パンフレット入手 破壊とヴァイオレンスに満ちた、漆黒の黙示録 雪も降らず、霜のほかには何も覆うものがない、ハンガリーの田舎町。いつものように、夜の場末の酒場に、飲んだくれ達が集まっている。そこに現れたデルジ・ヤーノシュは、彼らを太陽系の惑星に見立てると、配置し踊り出す。ある者は太陽とし中心で回転させ、ある者は地球とし、太陽の周りをまわるように回転させる。ある者は月とし、地球の回りを回るように回転させる。同時にみんな踊りだす。 ヤーノシュは天文学を趣味に持つ郵便配達である。革職人の工房に部屋を借りている。仕事と家の往復の中、老音楽家エステルの世話をするのが日課となっている。エステルは、ピアノのある部屋で口述の記録を続けている。それは、ヴェルクマイスターという18世紀の音楽家への批判のようにも聞こえる。 そんなある夜、街角に一枚の張り紙が 「夢のよう!自然界の驚異!世界一巨大なクジラ!ゲストスター・プリンス」 そして夜の街を、巨大なトラックがゆっくり通りすぎてゆく。 エステル夫人がヤーノシュを訪ねてくる。「風紀を正す運動に協力するように、エストルを説得して」彼女は何かに取り憑かれているかのようだ。 広場には何かが来ているという噂を耳にしヤーノシュは広場に向かう。そこにはトラックとそれを取り囲むように、数え切れないほどの住人たちがいた。トラックの荷台が開く。木戸銭を払い、乗り込むヤーノシュ。そこで目にしたのはクジラだった。不気味に光るクジラの目。ヤーノシュはそれに魅了される。また、潜りこんだトラックの中で目にするゲストスター、プリンスの影。 彼らの目的は何なのか?どこから来て、どこに向かうのか? そんなヤーノシュをよそに街中の何かが歪み始める。夜の街のいたるところで炎上が上がり、爆発が起こり、民衆が集まる。街中に"破壊"が充満する。群衆が向かったのは病院だった。そこでヤーノシュが見たものは・・・ また夜が明けた。ヤーノシュは、破壊されつくした街を徘徊する。ヘリコプターに追跡されるヤーノシュ。なぜ?どうして? エステルが、病院のヤーノシュを見舞っている。ことばが消えたヤーノシュ。 エステルは広場に向かう。そこには、あのクジラだけが横たわっていた。 その目ですべてを見ていたかのように。 監督 タル・ベーラ
最高
よく調整された音律(平均律)は、自然の音色(古典音律)と比べて均一で便利だ。現代人の生活は平均律の音に溢れている。 平均律に慣らされた現代人は、神の領域のうなりを察知する能力が退化しているのか。個性豊かな至福の音律は忘れ去られ、平均化された欲望に操られながら不満と鬱憤を募らせる。 音楽家の老人エステルは18世紀の音楽家ヴェルクマイスターを批判している。私には、人間が古典音律を聞く聴力を失うことへの警鐘に聞こえた。 『サタンタンゴ』では、サタンは無垢な少女にも欲望のタンゴを踊らせ、か弱い猫を犠牲にするというシーンが描かれていた。今作は『ヴェルクマイスターハーモニー』の名の通り、サタンは調律された心地よい扇動者の〝声〟によって人々を踊らせた。 冒頭の酒場でのシーン。太陽男は手をゆらゆらさせているだけ。地球男がのんびりとその周りを回り、月男は慌ただしく地球男の周りをあくせく回っていた。 太陽男がサタンだとすると、その引力で回る地球男が扇動者、そして、もはや自分が何のために回っているのかも理解できず踊らされる月男が、愚かな人間ではないか。 至福を引力に自由にダンスするには、誰かに調律された音ではなく、自然界に即した古典音律を聞ける聴力を取り戻さないといけない。 天文学を愛するヤーノシュは自然の音律を聞ける人だ。ところが箱の中のクジラ(トリック)に魅了され、策略に利用され、ついにヘリコプターの爆音でやられる。 自我(言葉)を失うという大き過ぎる代償を払って、扇動者の声をシャットアウトしたヤーノシュ。サタンの軍門に下らなかった彼に、唯一エステルとの友情は残っていた。 全てのシーンが圧倒的。他の追随を許さない映像の力に度肝を抜かれっぱなし。タル・ベーラはいつだって最高の映像体験の旅に連れて行ってくれる。
案の定なのだが、傑作であった。
『ニーチェの馬』のタル・ベーラ監督。おそらく、まず意味&理解不能、解釈拒否なる2時間半の、精神が病みそうな苦行だろう。そんな銀幕に1300円の木戸銭を払って挑む、もう震えるほどの映画的マゾヒスティックなる恍惚へいざ。これもシネフィルの宿命。なんと2時間半で37カットしかない長回しの連続。さぞ編集は時間がかからなかっただろう。
カッコ良すぎる。
この監督は「ニーチェの馬」を見てる。 意味わからんかったが凄く記憶に残っている。 他の作品みたいと思ったが「サタンタンゴ」は7時間だからスルーした。今作は丁度良い長さだ。 やはり少し前半眠くなったけど話も割とわかりやすい。ニーチェもそうだったが世界規模の破滅の中で辺境に暮らす人々にはその詳細など知らされるわけもなく、静かに日常が崩れていくのを静観するしかない。 あの悲しい目をした鯨は何のメタファーだったのだろうか、、、パンフには「あまり象徴にこだわってはいけない」とコメントあったから気にせずふわっと見るのが良いのかも知れない、それでも充分何かが心に刻まれてると思う。 全てのカットが長回しだが退屈な感じはしない、後半タルコフスキーぽい移動と俯瞰を組み合わせたカットもあった。主人公のキャスティングも素晴らしいと思う。「わからない」は怖さの根本だよね。
目に焼き付く映画。
映像が目に焼き付いて印象に残った。丁寧につくられていると思う。観る気がありさえすれば細かい所まで十二分に答えてくれる映画だろうと思った。 長すぎる?描写は慣れてきたら面白くなってきた。いやでもよく観察し印象に残る。そして強調するのには実はそれなりの意味があると段々気がついた クジラは、ラストではテーマパークの大きな作り物のようにしかみえない。未知のものへの恐怖、そして踊らされるということは、所詮はそんなものらしい。 しかし暴動者たちの視点、こちらはなかなかシリアスで厄介だ。彼らがみているものは、人間はすぐに枯れて消滅する≪全く無意味な存在≫だということ。彼らはその事実の前に抵抗できず、うなだれる。絶望する。そして彼らにとってはその時、全てが無意味となる。生きることにかじりつくための病院なんぞは疎ましいもの、絶対的に不要なもの。絶望と、それゆえの怒り。 ヤノーシュは心身の逃げ場を失ってしまった。酒場で仲間に説いて楽しんだ幸福な世界観は消えてしまったらしい。 なんとか試みた物理的逃亡も、別の形の権力により阻止された。 叔父の温もりだけが、微かな救いとして残る。ここでふたりで同じ方向に向かって歩いた、あの長い場面が思い出された。 ストーリーは小説から来ているのだろうけれど、月並みに表現されていたらこんなにインパクトを持てなかった。 なかなかショッキングな世界だった。 やはり凄い監督さんなのだろうと思った。
個人と大衆心理
素晴らしい作品だ。ワンカットが長尺なタル・ベーラだが、この長さは必然的な長さである。主人公は無垢で美しい魂を持つ心優しい青年。その対極に大衆心理で流され、暴動を起こし破壊し尽くす大人たちが居る。張りぼてのクジラが個人と大衆を翻弄する鍵となる。印象に残るクジラの目は虚空を見詰めつつも、全てを見通しているようでもある。エンディングのワンシーンが一つの世界が終わった後の空虚感を見事に捉えている。全く唯一無二とはこの監督のためにある言葉ではないだろうか?
謎めいたクジラと「プリンス」がやって来て、街に混沌と破壊をもたらす...
謎めいたクジラと「プリンス」がやって来て、街に混沌と破壊をもたらす…黙示録的な不穏が炸裂する終盤、叫び声の一切あがらない病院への略奪暴行シーンが凄まじい。主人公の罪は傍観者に徹していたことか。本日2本目だったこともあり、執拗な長回しは正直言ってキツかった。
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