イディオッツのレビュー・感想・評価
全3件を表示
丸裸にする映画
障碍者の振りをして社会の偽善に異議を唱えるパフォーマンス集団「イディオッツ」。そのリーダー格ストファーはこの今の成熟した社会で人の心が満たされることはない、愚者こそが社会のすべてのしがらみから解放された真の先駆者たりえる、だからこそ愚者に少しでも近づくために芝居をするのだと言う。
それを聞いたカレンは本当の障碍者を愚弄することになるのではないのか、それをどう正当化できるのかと彼らと行動をともにしながらも納得できないでいた。
そもそも彼らメンバーたち自身がそれぞれに悩みを抱えていて中には投薬を受けていたものまでいて、いわば彼ら自身が潜在的な障碍者とも言える。メンバーの大半は医師や教授職など社会的地位のある人間ばかり、ストファーはブルジョワの出で、アクセルも育休中の広告マンだった。
行き場のないカレン同様にそれぞれの実生活でストレスを抱えた孤独な彼らが自然と集まり、ストファーの提案で始めたパフォーマンス。バラバラだった彼らが皆で団結して一つのことを成し遂げていく。自然と仲間意識が芽生え、さらにその活動が社会でタブー視されることだけに余計に彼らは共犯者のごとく結束を強めていく。後に彼らメンバーが語るように互いを認めあう家族のような関係にまでなっていた。
しかしそんな彼らの関係にもやがてひずみが生じ始める。そもそも彼らは社会の偽善を暴くと言いながら、グループを率いるストファーなどは障碍者を蔑んでいた。彼は親睦に来たダウン症の人間たちに対してガス室に送り込めだの、カメラに奴らの遺伝子が写らないのが残念だなどとナチス顔負けの暴言を吐く。愚者を憐れむ社会の態度を嫌いながら愚者を一番蔑んでるのは彼自身なのだという自己矛盾を抱えていた。そんな彼をリーダーとするグループメンバーたちの自己欺瞞も次第に暴かれていく。
彼らのパフォーマンスは公共の場のありとあらゆる場所で行われ、それは次第にエスカレートしてゆくが、やがてはその目的を見失い身内のいじめにまで発展する。ストファーは日ごろから気に食わないイエップを暴走族にゆだねてその場を離れてしまう。恐怖に打ちひしがれたイエップはその場から走り去る。
そしてグループ崩壊の危機がついに訪れる。メンバーの一人が家族に連れ戻されるのをなすすべもなくただ黙って見ているしかなかったのだ。家族同然という彼らの結束が乱れ始める。
このグループの存在意義をあらためて証明するためにストファーは選ばれたものは自身の実生活の中で愚者を演じて見せろという。しかし次々とメンバーは脱落し、グループは結局解散となってしまう。
誰もが自分の生活を壊したくはなかった、ここでの活動はいわば息抜き、自分の実生活を維持するための一時的な避難場所でしかなかったのだ。それは屋敷を貸してくれた叔父の前ではその場を取り繕うことしかできなかったストファーも同じだった。
社会の偽善の皮を剝ぎ取り丸裸にしようとしたイディオッツのメンバーたち、彼らも所詮は愚者たりえず、自分たちが欺瞞に満ちていたことが露呈する。社会を丸裸にするはずが彼ら自身が丸裸にされてしまったのだ。
しかしグループ最後の加入者カレンだけは違った。そもそも彼女には守りたい生活などなかった。彼女は自分の子を亡くしたのを機に抑圧的な家庭から逃げ出していたのだ。
メンバーの一人スザンヌを立会人として実家に戻ったカレンは皆の前で愚者を演じる。それは今まで自分を縛り付けてきた抑圧から解放されたいがための彼女なりの必死の自己主張だった。二週間も行方不明だった彼女を心配するでもなく平手打ちをくらわす夫、同じく彼女への慰めの言葉を家族の誰一人も発しようとしない。カレンはそんな家族に決別を告げたのだ。すべてのしがらみを脱ぎ捨てて裸になった彼女だけが愚者になりえた瞬間だった。
全編にわたりモキュメンタリー方式で描かれる本作、見るに堪えない映像が次々と展開するが、それが見る者の常識や倫理観を剝ぎ取り丸裸にしようとするかのようでとても挑発的でもあり魅力的でもあった。
配信でノーカット版で見れたのが良かった。これはモザイクかけてしまったら作品の意図は伝わらないと思う。
個人的には不謹慎とはわかっていても、広告マンのアクセルの浮気相手のカトリーナが取引相手として現れ、彼の前でイディオッツを演じるところや、イエップが全身タトゥーの強面グループに囲まれて逃げられなくなりトイレの世話にまでなるところが単純に可笑しかった。笑っていいものかどうか見る者を悩ませる点もトリアー監督の思う壺にはまってるのかもしれない。
良くも悪くも感情は揺さぶられた作品
「知的障害者を演じるというサークル活動とその終焉」を描く、アウトレイジも顔真っ青な「登場人物全員クズ」という珍しい映画。
題材が題材なだけに、内容は不快of不快。
その上雑なところも多く、「サークルを作った目的」「サークルの信念」「メンバー1人1人へのサークル活動を振り返るインタビューに至った経緯」など肝心っぽい部分はふわっとしてたり、描かれもしなかったり。。。
そんな中でも最大のツッコミポイントは、大義を掲げていそうな雰囲気で描かれていたサークルリーダー(サッカーのウーデゴー選手似)の「みんなでセックスしたい⭐︎」というパリピ発言以降、スピーディに繰り広げられた無修正乱交パーティ。
監督は「人を驚かせたい」「ドン引かせたい」という欲求を抱えていそうだが、それって路上でいきなりチ⚪︎コを出すストリーキングと同じ発想なのよ。
私を含め劇場にいた全員、その場で監督のチ⚪︎コを見せつけられたように思う。
まぁ誰かと一緒に観たら感想を語り合いたくなる映画ではあると思うので、そういうのを希望している方にはオススメです。
cygne
スィニュと発音するフランス語、『白鳥』である カミーユ・サン=サーンスの 「動物の謝肉祭」の 13 番目で最後から 2 番目の楽章とのwiki情報 今作では劇判とスタッフロールで流れる曲である 本来ならばチェロなのだが、テルミンでもない、なにかの楽器にて演奏されているので、一寸した違和感も持ち味なのだろう ちなみに解釈があるようで、白鳥は生涯の最後の瞬間まで沈黙し、その瞬間にすべての鳥の鳴き声の中で最も美しい歌を歌うという信念になぞらえての信念は、口のきけない人間であるというものらしい そういう意味では今作のラストに主人公の女性が実家に帰った折り、家族でケーキを食べた際、まるで身体障碍者の食べ方を模し、夫に殴られるというシーンに当てはめた曲なのかも知れないと勘ぐるのは、勝手な妄想である
色々とルールを設けて映画を撮る運動の一作であるらしい今作は、さすがラース・フォン・トリアーらしい狂気染みたストーリーテリングである まるでドキュメンタリーのようであり、またインタビュー風景も差込まれつつ、異様な集団の実験的思考による団体生活ならではの、奇妙な生活を描く内容である
それは現在では絶対に許されることではないポリコレに反するアイデアだと言っても過言ではない 身体障碍者、精神障碍者等を演じ、社会に対しての悪ふざけを敢行する奇天烈なグループに、子供を亡くしたばかりの女が、その子の葬式から逃げだし、現実逃避で彷徨った際のレストランで知り合ったところから話を展開していく
兎に角ハチャメチャで危なっかしいリーダーの男や、行動を共にする仲間達男女のえげつなさには頭がクラクラしてくる 健常者にも障碍者にも大変失礼で冒涜極まりないこの一連の行動は、一体何の目的で愚行を繰広げているのかという疑問しか湧かないが、しかし折り返し位から本質というか理由がうっすらと滲み出てくる
"イディオッツ"(愚者)を演じることで自分の中の弱さや思い上がりをリセットしたい、安定を求めたい一つのエチュードなのであろう 但ししかしやがて、その予定調和(あくまで常識的にやり過ごそうとする相手のシチュエーションや行動パターン)に飽きたグループは、本物の障碍者達、又は反社的輩との交わりを通じてどんどん心をすり減らす リーダーの誕生日に希望で乱交が行なわれる突拍子さも、さすが北欧らしい狂気を演出で、キチンと本番さえ行なわれているボカシ無しの"ヌップリ"の画作りに戦慄さえ感じ、そしてその究極は、以前居たコミュニティに於いてのその立ち振る舞いの演技ができるかに移行していく
窮屈な以前の場所から逃げてきた連中達からすれば、わざわざ戻って、自尊心を自らへし折る行為をしたいと思う者はおず、逆に父親に連れ戻される少女もいる程に疲弊してしまうのだ そんな中で一連のグループの様子をずっと窺っていた主人公が、コメント冒頭での挑戦である
人間の薄っぺらい正義感や、化けの皮を剥ぐ、又は自分自体も剥がされる、倫理観をブルドーザーで抉るようなコンセプトであったが、そのハラスメントなんてぶっ飛ばすような強烈な展開の数々に、制作陣の映画作りの半端無い個性と暴力を存分に浴びた内容であった 50年かかさずにワックスがけをした床をいとも簡単に汚す、その敬意に果敢と壊す、そのデストロイヤー振りと、精神年齢を疑うような行為、そしてそうなるざるを得ない程疲弊したそれぞれ本来のコミュニティ、そうなってしまった社会 この"イディオッツ"達の実験は、まさにアメリカのフラワーチルドレンそのものなのかもしれない
全3件を表示