ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカのレビュー・感想・評価
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映画オタクがおっさんになって、25年ぶりに謎に向き合ったよ
本作の日本公開時1984年と言えば、オレは小学生だ。よって先日レビューした「ディア・ハンター」同様、初見はVHSで、高校生の時だ。これも当時長いモノだったが、のちに「完全版」なるものを観たりと、大好きな作品だが、今回は「ディレクターズカット」という4時間11分の代物だという。
あの至福の時間を劇場で味わえるなんて。さらに22分の追加シーンがあるなんて。朝から眠いとかあるわけない。「シティーハンター」に駆け込む大量の老若男女を尻目に、
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ ディレクターズカット版」
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今回は追加シーンについて、話をしようと思う。カットされたシーンには、極めて重要なものもある。
1)墓場管理人ルイーズ・フレッチャーの登場シーン
2)追跡車両の爆破シーン
3)デボラの舞台のシーン
4)老婆キャロルとの再会
これらは特に無くても問題はなかったと思える。特に1)2)4)は、「妄想」ラインが大きく薄れてしまうため、削って正解。
4)デボラとのデートでの、タクシーの運転手とのやり取り
ヌードルスがユダヤ人の恥のように言われるのだが、唐突すぎて不要なシーン。彼がそもそも一匹狼であるのは、「イタリア系」でないのが大きい理由の一つであり、また彼の性格が自分勝手で直情的なクソであることは劇中、十分描かれているので、必要ない。
5)デトロイトでの「泳ぎ」のシーン
これはとっても重要で、車ごと突っ込んだ一行はヌードルスがおぼれたのかと心配する。ここではヌードルスの姿は見せないのだが、ここでの「ゴミ清掃」がラストとリンクする。
ベイリー(マックス)はゴミ清掃車の中に消えたのか?いやそうではなく、初めからいなかったのだ。
これはヌードルスとマックスはお互いに「親友」のなかで「からかいながら、だましだまされ」を繰り返してきた仲だということ。
このシーンが削られたことで、ゴミ清掃車、ラストの「笑み」の解釈がこれまで難しく議論されてきたといえる、最重要のカットシーン。
6)ヌードルスとイヴとの出会い
これまでのヴァージョンでは、イヴの存在がキャロルより軽く見えてたのが、どうも納得いかなかったのだが、今回の追加でその存在が大きくなる。またヌードルスがずーっとデボラを引きずっていたことがより分かりやすくなった。
心情的には削ってほしくなかったシーンだが、ヌードルスの「妄想」の中では、序盤であっさり殺されるという軽い存在なので、確かに無くても良かったのかもしれない。
7)ベイリーとジミーの会話
ベイリーすなわちマックスとジミーの立場が逆転したことがはっきりわかり、ベイリーに選択肢がないことがより分かる。これは「現実」ラインを厚くするエピソードであり、マックスのやり方が60年代では通用しなくなっている、という「ギャング」の衰退を意味する。
総じて、これらのシーンのカットの理由は、上映時間の関係よりも、と作り手の「意図的な混乱」というのがよりはっきりした。
この映画自体の面白さはいうに及ばず追加シーンも不要なものとはいえ、とても楽しく観ることが出来た。
追記
それでも、マックスが連邦銀行に執着した理由がないんだよね。
レオーネの映像、モリコーネの音楽、デ・ニーロの演技に酔いしれる
2020年7月6日、エンニオ・モリコーネが逝去した。イタリアを代表する映画音楽の巨匠である。91歳だった。モリコーネが「荒野の用心棒」の世界的大ヒットでマカロニ・ウエスタン(イタリア製西部劇)の作曲家として欠かせない存在となって以降、コンビを組み続けたセルジオ・レオーネ監督(1989年逝去)の遺作にして代表作が「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)だ。
ハリー・グレイの自伝的小説を原作に、ニューヨークのロウワー・イーストサイドを縄張りとした、ユダヤ系ギャングたちの栄光と挫折を描いた一大叙事詩。1930年代初めの禁酒法時代から幕を開け、60年代後半と20年代初めの3つの時代が交互に描かれる。ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・ウッズ、エリザベス・マクガヴァンに加え、バート・ヤング、ジョー・ペシ、さらに少女だったジェニファー・コネリーまで錚々たる俳優たちが、構想14年、前作から10年以上の沈黙を破ったレオーネ監督の元に集結した。
第37回カンヌ国際映画祭を震撼させた全編を貫く凄絶なバイオレンス描写とともに、レオーネ作品の重要なモチーフである愛と友情、金と記憶、裏切りと悔恨が、二人の主人公を鏡映しにノスタルジックに描かれ、3時間超えの時間の長さは感じない。イタリア人監督レオーネが、憧れていたアメリカへオマージュを捧げたフィルム・ノワールだ。
光と影、クローズアップの多用と遠景を織り込んだ緻密な画面構成、フラッシュバック、長回し、さらに鏡、覗き穴、電話などを効果的に用いて登場人物の心情を表現。そして、名曲「アマポーラ」とともにモリコーネの音楽が物語を語っていると言っても過言ではない。また、当時のマンハッタンを再現した映画美術も素晴らしく、脚本、撮影、衣装など最高のスタッフで作り上げたスケールと豪華さに圧倒される。
タイトルなし
完全版を鑑賞、他のバージョンは一切観ていない。
4時間近い長尺を嫌って避けていたが、観終わってみれば夢中で観ていたから気にならなかった。とは言え鑑賞後に時計を見た時は思った以上に遅い時間で少し焦りはした。
1920年代、17歳のユダヤ移民の子ヌードルス(通称)は、ブルック...
1920年代、17歳のユダヤ移民の子ヌードルス(通称)は、ブルックリンから越してきた同じくユダヤ移民の子マックスと出逢う。
ふたりは意気投合。
同年代のパッシィー、コックアイ、それに年少のドミニクを加えた仲間で、街でひと稼ぎしていた。
そこには、親が経営するバーの手伝いをする太っちょモーも時々加わっていた。
モーの可憐な妹デボラにヌードルスは恋心を抱いていた。
ある日、バグジー率いる年長集団といざこざが起こり、殺されたドミニクの復讐で、ヌードルスはバグジーを刺し殺してしまう。
刑期は6年。
20代半ばになったヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)を迎えに来たのはマックス(ジェームズ・ウッズ)。
マックスは禁酒法下で、太っちょモーを利用してスピーク・イージー(もぐり酒場)を経営して、裏社会ではちょっとした顔だった。
しかし、「ボスは俺自身だ」と言っていたマックスも、大立者フランキー(ジョー・ペシ)の仕事をするようになっており、そして禁酒法の終焉とともに自棄な銀行強盗を計画するようになった・・・
そして、パッシィー、コックアイとともに焼死体で発見され、ヌードルスはひとり、グレイハウンドのバスに乗り、姿を消した。
それから30数年、60年代後半。
老年期に入ったヌードルスのもとに一通の手紙が届き、ヌードルスは街へ戻って来る・・・
といった物語で、禁酒法時代の30年代を中心に、少年時代と老年期の現在が複雑な時制で描かれます。
豪華な美術とゆったりとした語り口で、壮大な絵巻物をみるような感じであるが、いかんせん、物語が薄っぺらい。
「男たちの友情と裏切り」といえば聞こえはいいが、ヌードルスもマックスも下衆な男で、彼らをとりまく人物も概ね下衆な人物なので、途中から「どうぞ、ご勝手に」って感じになってしまいます。
花を添える女優陣は、少女期のデボラを演じるジェニファー・コネリーが格段に良く、成長してからを演じるエリザヴェス・マクガヴァンは、やや小物な感じは否めない。
マックスの情婦キャロルを演じるチューズデイ・ウェルドが、予想外にいい味を出しています。
エンニオ・モリコーネの音楽も甘美で素晴らしいのだけれど、のべつ同じようなトーンで流れるので、胃にもたれる感じがします。
どうもセルジオ・レオーネ監督とわたしは相性が悪いなぁ。
(ディレクターズカット版での鑑賞)
ヌードルズは誰に狙われたのか?
マックスはその才能を買ってくれた政治家どもにとっての扱いやすい駒として生きることに決めた。恐らくは彼はユダヤ移民で孤児で住所や職業を転々としてきて誰にも詳しく良いことを知られていないので政治家としては利用しやすかった。政治の駒として使うためにはには死んだことにしなければならないし彼の悪行を詳しく知る人間は始末しなければならない。だから仲間と一緒に超無理のある銀行強盗とか決行させてそこで射殺されたことにする・・という政治家たちの書いたシナリオに乗った・・彼の悪行を知る仲間たちは皆殺しにしなければならない。
ヤクザとかギャングってのは自分の周りにいる奴はたとえ仲間でも友達でも全員が未来のカモなのだ。騙して利用したり稼げる時が来たらそうする。友情とか信用とかいうのはそのための伏線に過ぎない。たとえ何年も続いたものであったとしても。・・人を騙した。殺しもした。レイブもしてしまった。友達はカモ・・そんな人生の中に友情や愛情のようなものがあった・・
関係ないけどこの映画を見てプーチン大統領のことを思い出した。プーチンはエリートとしては下っ端の方だった。エリツィン勢力に対抗する奴らがプーチンをうまく担ぎ出して大統領にした。そしてエリツィン勢力をぶっ潰した。・・この話とこの映画のネタがよく似てると思った。
ある年寄りが思う友人とはしゃいだ昔の思い出はどこまでも甘美で懐かしいのだが、もう1人の想いは?
セルジオ・レオーネ 監督による1984年製作のアメリカ映画。原題:Once Upon a Time in America、配給:東宝東和
1回目視聴ではサッパリ理解出来ず。2回目視聴で初めて、とても良い映画と認識できた。とは言え、最後のところは監督が観客に謎かけを仕掛けてきてる様にも感じた。
少年時代、成人時代、老年時代と、時代が順序無関係に混ぜられて描かれる構成が上手く、深い感動に結びつく。こうして昔の少年時代を描かれると、やっていることはチンピラ集団で酷いことや滑稽なことだが、どこかノスタルジックで甘美な思い出に思えてくる。主人公ヌードルスが覗き見をするジェニファー・コネリー演ずる少女デボラの美しさ・可憐さが、その思いに拍車をかける。
そして、ヌードルスから見たマックスのカッコ良さや少し大人びたリーダーシップも印象づけられる。近所のヤラセ娘との初体験もマックス主導で出来た。2人の出会いと友情のきっかけになったのは懐中時計。それがラストシーンにも意味ありげに再登場する。ヌードルスはジェニファー・コネリーとキスをするが、それをマックスは覗き見していたことも本人弁で明かされる。キスが下手とか言うので、マックスの視線はヌードルス側にあった様にも思える。マックスのヌードルスへの気持ちは、友情の次元を超えている様にも思えてしまう。そして、マックスが水中に消えた様に見せてヌードルスを慌てさせるエピソードは、将来の出来事を予言していて見事である。
大人になったロバート・デ・ニーロによるヌードルスは悪い奴だがとても魅力的だ。だが、憧れの女性に対しての行動は不器用と言うか、いただけない。ハリウッドで女優を目指すと言うエリザベス・マクガバン演ずるデボラを車中でレイプしてしまう。年齢を重ねた彼女、死体偽装で過去を消し政治家として力を得た愛人マックス(ジェームズ・ウッズが好演)の力も借りて、長年の夢であった主演女優として成功し、マックスそっくりの息子も得た様であるが、必ずしも幸せそうに見えなかった。それが、厳しい映画界の現実ということだろうか。
ラスト、老年となった2人は再び対峙する。ヌードルスに銃を渡し、撃てと言うマックス。お前の全てを奪ったと言う彼。仲間を見殺しにして、稼いだお金を我が物とし、ヌードルス憧れのデボラを愛人としたマックス。しかし、仲間の墓を立派なものとし、苦労してヌードルスを探し出し大金を与え、パーティに誘い出し、35年の悔恨を話すのもマックス。モリコーネの甘美な主題メロディと共に楽しい懐かしい思い出しかマックスに関して浮かばないヌードルス。殺人依頼を断り、部屋を出て行くヌードルスのデ・ニーロ。大切に持っていた思い出の懐中時計を握りしめるマックスのウッズ。もう一回、ヌードルスへの長年の羨ましさ・憧れ愛憎を噛み締めたのだろうか。
ヌードルスが外に出た際、強力な歯車で物を砕くゴミ収集車が稼働する。その影に消えたマックス類似の人影。異論もある様だが、彼は自殺した様に自分には思えた。そして、その車と入れ替わりにやってくる若者を乗せた車。遠からずの死を見据えていたレオーネ監督自身(次作構想もあった様だが、遺作となってしまった)の世代交代を暗示した様にも思えた。
最後の最後のデ・ニーロの笑顔、大きな謎とされているが、きっと楽しかった若き日のことを思い出しているのだろうと自分は理解。そして、あの笑顔を愛したマックス、即ち監督の分身の想いが込められているのではと。結局、この映画は男同士の長年の友情、否それ以上の羨望や愛憎、それを超えたプラトニック・ラブを描いているという気がしている。レオーネ監督と作曲家モリコーネは小学校の同級生で、監督はモリコーネが他の監督と組むことは邪魔したとのエピソードを知ると、穿ち過ぎかもしれないが、映画の中の2人の関係性と重なるのかもしれないと。
監督セルジオ・レオーネ、製作アーノン・ミルチャン、製作総指揮クラウディオ・マンシーニ、原作ハリー・グレイ、脚本セルジオ・レオーネ 、レオ・ベンベヌーティ 、ピエロ・デ・ベルナルディ 、エンリコ・メディオーリ 、フランコ・アルカッリ 、フランコ・フェリーニ、撮影トニーノ・デリ・コリ、美術カルロ・シーミ、衣装ガブリエラ・ペスクッチ、編集
ニーノ・バラリ、音楽エンニオ・モリコーネ。
出演 ロバート・デ・ニーロ: ヌードルス、ジェームズ・ウッズ:マックス、エリザベス・マクガバン: デボラ、ジョー・ペシ:フランキー、バート・ヤング:ジョー、トリート・ウィリアムズ、チューズデイ・ウェルド:キャロル、ウィリアム・フォーサイス:コックアイ、ジェームズ・ヘイデン: パッツィ、ラリー・ラップ、ダーラン・フリューゲル、ジェニファー・コネリー:デボラ(少女時代)、スコット・ティラー:少年時代のヌードルス、ラスティ・ジェイコブズ: 少年時代のマックス。
半端な覚悟で見てはいけない
長尺で見てるのが辛い映画
ロバート・デ・ニーロとジョー・ペシが
好きなので最後まで見たが
時間返せってレベル
そして気付く、色々な解説がされてるが
この映画の伝えたいことは
(この映画見てくれてありがとう)
そして、最後の笑顔なんだと思う
煽りスキル高けー
何度か見ているが2つ勘違いしていた
勘違いしていた点2つ。
1.ロバート・デニーロ主演なので、てっきりイタリア移民の話かと思っていたら、ユダヤ移民の話だった。
2. マックスは最後に自殺したと思っていたが、必ずしも自殺とは断定できない。
彼の死体のシーンがないこと、自殺しようとする人がゴミ収集車の中に飛び込むようなおぞましい死に方を選ぶだろうか。さらに、マックスのような人を欺くような性格の人間だから、自殺したと思わせる事は十分に考えられる(ゴミ収集車の側面に隠れていたとか)。そもそも自殺する設定にするなら単純にピストル自殺のシーンにすれば済むことなのに、わざわざこんなシーンにする必要はなかったであろう。
ただ自殺でなく、ヌードルスに自殺と思わせただけなら、その後マックスはどうしたのであろうか。遠くのどこかに逃げて一人寂しく余生を送るつもりだったのだろうか?
それともあの邸宅から出てきたマックス、ゴミ収集車、その後のパーティー帰り風の一団の乗用車が通過するシーンまではヌードルスの幻か夢だったのか?
それはともかく、この映画をいちばん気に入っている点は、多分他の人とずれていると思うが(多分他の人は2番目か3番目位かな)、音楽とジェニファー・コネリーである。
監督のセルジオ・レオーネはマカロニウェスタンで有名だが、その際の音楽は大体エンニオ・モリコーネだった。気のあったコンビという感じだ。ただこの作品ではマカロニウェスタンでよく使われるトランペットやギターを使わずに、盛り上げてくれた。特に気に入ってるのがニ箇所。 一つ目が、最初のほうの子供の頃のエピソード。仲間の子供が敵にピストルで撃たれて死んでしまうシーン。画面がスローモーションになり、流れる音楽だ。パンフルート(オカリナを侘しくした感じの音色)が実に涙を誘う。 もう一つはレストランでヌードルスがデボラと踊るシーンで流れたアマポーラだ。
ジェニファー・コネリーは、子供の頃のデボラを演じているが、ヌードルスが一目惚れをして好きになってしまうのが納得のいく美しさだった。
いままで見た映画の中で一番好きな映画です
初見は20代でテレビからでしたかね。淀川長治さんがとてもほめていましたね。
レンタルビデオで借りて、DVDをレンタルして。評価やネタバレも読んで。
60歳になって改めて見直しました。所見では恥ずかしながら知らなかったラストシーンが
若かった時の事だったとしり、深いねぇなんて思いながら、こんな人生もありだなってね。
監督、音楽、俳優 すべてが沁みますね。
私は48歳ですが、中学の時に見て以来、改めて感じるところがあります
中学の時に劇場で2回見て、ほとんど意味が分からなかったのですが
雰囲気がとても好きで、特にエンニオ・モリコーネの音楽が素晴らしいですね。
見終わった後もレコードをYou&愛でレンタルして
テープに録音して何度も聞きました。
劇場で見た時は意味がわかりませんでしたが
劇場で小説を売ってたので、それを買って
登校前にトイレで休み休み読んで
「こういうストーリーだったのか!?」って
とても感動しました。
少女時代のジェニファー・コネリーがあまりにも美しく
今でも彼女はアイドルです。
48歳になった今は、そろそろ両親が「いつ死ぬか分からん」と
言い始めたので、お墓のことをよくよく聞いてみたら
「宗教もお墓も決まってない」とのこと。
ハァ!?そんなの聞いてないぞ?
あんたらも俺も迂闊に死ねないやんけ!!!
まあ私事はともかくとして
ストーリーは主人公が友達を裏切って
警察に殺されてしまった仲間
(当時のNYですから武装警官も機関銃とか持ってたのかな?)
の墓地の移転の案内で
その案内が正体を隠した主人公の元に
身元不明の手紙で「誰が何の目的で!?」ってところから始まります。
そう言うところが今見ると身内の墓地とか大変だなぁって
48歳になって感じるところがあります。
私は中学の時に意味も分からず観てましたが
この歳になっても意味が深く理解できるとは
いやはやすごい映画です。
意味が分からない but クオリティは高い
名作の条件として、分かり易さがある。
名監督の作品(黒澤監督やコッポラ等)は観客に疑問を抱かせない。分かり易い。
が、本作はダメだ。
冒頭、デニーロがマフィアに仲間を売ったという事で追われて友人が惨い拷問を受け恋人が射殺される。
実はそれは、デニーロが仲間のマックスが連邦銀行襲撃という無謀な計画を立てたのでそれを阻止しようと事前に警察に逮捕させるためだった。ところが最後の方で分かるのだがそれがために幼少の頃からの友人でマフィア仲間の友人たちが皆警察に殺されてしまう。要は冒頭で恋人を射殺しデニーロを追ったマフィア達は銀行襲撃で死んだ友人の配下だったのだ(と思う、たぶん-笑)。全然関連性が感じられる表現になっていないので終わってから暫くして気付いた。
分かりにくさには枚挙に暇が無い。
最後のシーン、実は生きていて長官になっていたマックスが自責の念ゆえにゴミ収集車の中に身を投じて(笑-もうちょっと別の設定も有ったのでは?)自殺した様だが、映像に写るパッカー車(ゴミ収集車)のローラーには木や葉っぱは巻き込まれてはいるが血糊は全く無かった。私は冒頭のマックスとデニーロとの出会いのシーンの様に暗闇からひょい、とマックスが現れて友情を復活させてめでたしとなるのかと思った。
そして最後のシーン。
デニーロがなぜか若い設定で何度も出て来る阿片窟で阿片を吸うシーンで終わる。
ただ此のシーンは私はとても良かった。
吸う前は普段の厳しい表情でいるのだが、ふかした後とてもリラックスした表情で笑いを浮かべた状態で本作は終わる。
このシーンに関して色々な解釈がレビューにあるが私は
いつもニヒルで硬すぎる性格、恋人も友人に盗られて不器用ゆえに不毛な人生を送るヌードルス(デニーロ)。
それが粗末な阿片窟で阿片を吸ったときだけ唯一リラックス出来る・・・
そういう寂しい切ないキャラクターを浮き彫りにして観客を一気に引き込む。
そしてそれを理解し体現しているデニーロの演技も素晴らしい。
総括すると筋や構成はダメ、クオリティの高さと音楽、そしてデニーロの演技が良かったので3とした。
なお、レビューで恋人のデボラの子供がマックスの子供、という意見がありましたが、あれはデニーロの子供ですね(でないとデニーロ子供の頃を演じた子役を再び登場させる意味が無いし、タクシーの中でデボラをデニーロが犯したシーン-その時の子供-との整合性が取れないから)
ワンス・アポン・ア・タイムインアメリカ
最後、マックスゴミ収集車中入ったのか??分からん。
よさげな雰囲気ある映画だった。よくわからんかったけど。
エロシーンがちょっと過剰だったのでは?
長かった
途中で休憩が入るとおもっておしっこを我慢していたら、3時間過ぎでようやく休憩で、タイミングがおかしい。2時間半くらいで入れるべきではないか。
あまり長さは苦にならなかったのだが、そんなに面白くなかった。チンピラがギャングになっていくのだが、デニーロが収監されている間に仲間が出世していて、密造酒で稼いでいたようだけど、よく分からなかった。そしてマックスがいきなり銀行強盗をしようとするのが唐突で、デニーロでなくても狂ったようにしか見えない。デニーロがイタリア人にしか見えないので、モヤモヤした。
レイプが甘美なもののように描かれていた。当時はそんなものなのかな。マックスとはやたらと穴兄弟であることが語られていた。
物語のポイントが薄い。肝心の銀行強盗が描かれない。デニーロの獄中場面も見たかった。アヘン窟が楽しそうだった。
「午前十時の映画祭」
終わったん二時半ぐらい、、、
長かったぁー 疲れたぁー
どんな話やったかな? 思ってたら
あの哀しい音楽とロバートデニーロで
徐々に思い出したけど…
結局それが強く印象に残ってたんやね。
なんか変な言い方やけど…
コントのネタになりそうな場面がいっぱいやね!
けっこう下品な映画やな…
やっぱショートケーキのシーンやね!
(哀しいゆうか切ないゆうか)
そして
最後の笑顔!
怖っ!思った。
このシーンの為に長い前ふりちゃうか?
(全部ぶち壊しみたいな)
とにかく帰って ひと眠りしたいです。
おやすみなさい。
最後の笑顔の意味
最後の笑顔の意味
俺はこう理解した
マックスも、仲間もイブも皆死んだのも、デボラがまさかマックスに囲われていたとは、しかも俺の息子がいたなんて
そんなことは全て阿片の紫煙が作り出した影絵とおなじ、単なる夢だ
なんでえビックリしたじゃねぇかと
ヌードルスが現実から逃避して、あーよかったと安堵した笑顔なのだと
そうか俺はまだマックス達仲間ともうひと暴れできるじゃないか!と
つまり若い時に阿片窟に行った時間に錯乱して短絡したのだと
Agree? Agree. 長かった・・・
そして眠かったです。名作と言われてるから観てみましたが、何故名作ポジションにいるのか不思議な作品でした。途中で休憩が出た時にはビックリしましたよ。昔の映画では休憩入る事が多々あったようですけど、別に長い映画でも面白いと思える作品はあるんですけど、本作は単に編集下手なだけではないでしょうか?
確実にもっと纏める事ができますよね、これ。時系列がバラバラになってる進み方は最近ではよくある手法なんで問題なかったですし、最初の少年時代はまだ楽しく観れたんですけど、その後が長い。途中のコーヒーくるくるしてる場面とか無駄に長い。レイプシーンも無駄に長い。最後のゴミ収集車での自殺はとても痛そうです。
やっぱ最近のテンポ良い映画に慣れてると、ダラダラ長い昔の映画ってハードル高いなっと思えた作品です。
この映画と出会う為に今まで映画を見て来たんじゃないかと思えるくらい...
この映画と出会う為に今まで映画を見て来たんじゃないかと思えるくらい最高の映画だった。
ひとつひとつの出来事がエンリオモリコーネの音楽と混ざり合って、瞬きが出来なくなるくらい良いシーンを作っている。
血みどろの暴力描写、少年期のピュアな恋愛模様、男同士の友情と裏切り、小洒落たシーン展開演出など、上がる要素しかない。
オープニング早々、容赦ない惨殺シーンと電話が鳴り響く回想演出で一気に引き込まれる。
列車での逃走前にビートルズのyesterdayで未来への時間に切り替わる秀逸な展開も、まだ内容がわからないにも関わらず泣きそうになる始末。
少年期のデボラとのやりとりの度にモリコーネの音楽が流れ、ここでも泣けてくる。
また、中盤のダイヤ強盗後の銃撃シーンでも、あまりにもカッコ良すぎてここでも謎の涙が出るという…。とにかく終始泣ける映画。とにかくワンシーンワンシーンが愛おしく思えてくる。
相棒マックスが告白する衝撃展開の後、ゴミ収集車への身投げ、そしてヌードルスの笑顔で終わるラストシーン、見終わった後もその世界に浸ってしまう。
物語の中で友情を深めていき、そして最後にお互いが親友(叔父)と呼べる存在を裏切り、30年以上もの時を過ごす苦痛、本当に切ない。
230分という長い映画の中にも描かなかった、映画内では空白である30年間、最後に観客が、この30年をお互いがどういう気持ちで過ごしていたのかということを頭の中に描かせるセルジオレオーネの演出力は本当に凄い。
感想を上げるときりがない、今まで鑑賞した映画の中でも断トツで素晴らしい、最高の一本。
人生において二度目に見るのが面白い映画だ。
最初に見たのは、公開当時の1984年頃だろうか?
高校生から大学生の頃だった。
今回、30年ぶりに見ると、作品の面白さが増して来た。
学生時代の友人達とも、疎遠になりつつある今日、若くして亡くなった友人達が、懐かしく思い出される。
友情と裏切り、成功と挫折。
映像、ストーリー、音楽と、全て私の好み。
ヒロインの少女時代が魅力的だっただけに、成人し、晩年の姿に違和感が残り、マイナスに。
ファトモーや、その他の役者は、少年時代、青年時代など、全て完璧。
ショートケーキを食べてしまうエピソードは、最高!
全てを疑念に変える天才的なラスト
ギャング映画好きとしては見逃せない一作。
とにかくラストまで感じるのは時代背景等の描写はリアリティがあって良いものの、だらだらと長いということ。
主人公の回想にしろ、現時点でのシーンにしろとにかく長ったらしく感じ、最後の方には映画の長さもあって気持ちが切れてくるが、ラストでそれらが全て吹っ飛ぶ。
ラストの主人公のアヘン窟での笑顔で今まで見てきたシーンは妄想なのか、現実なのかあらゆる疑念が湧き、その疑念と共に終わる。
このラストのために3時間もの時間があったんだなと関心させられる映画。
ある意味激しいアクション等もなく、ひたすらに一人のギャングの成り立ちと行く末を描いていくという意味では映画らしい映画。
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