「ラストシーンの意味」ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ ひろいしさんの映画レビュー(感想・評価)
ラストシーンの意味
大好きな映画です。エンニオ・モリコーネの音楽も本当に素晴らしいですね。
この映画のラストシーンについては様々な解釈がありますが、私と同じ考えを持つ方になかなか出会えず、初投稿します。
子供の頃にこの映画を観た時は、何がなにやらさっぱり分からなかったのですが、大人になって見返した時に深く引き込まれました。そしてラストシーンの笑顔を見た瞬間、全身に鳥肌が立つような感覚を覚えました。
「あの笑顔は、一体、何を意味するのだろう?」しばらくそのことばかり考えていました。
そして、自分なりの解釈にたどり着きました。
もぐり酒場でのパーティー中、ヌードルスは仲間を逮捕させるつもりで警察に密告しました。しかし、彼の意図に反して、結果として仲間たちは命を落としてしまいます。ヌードルスは遠くから彼らの死体を見つめていました。その中で、黒焦げになり誰だか判別できないマックスの姿に訝しげな視線を送ります。そしてチャイニーズ劇場へと逃げ込みます。(←ラストシーンです)
ヌードルスはそこで確信したのではないでしょうか。
「あの黒焦げの死体はマックスじゃない。別の人間だ!よかった、マックスは生き延びた!」
そう思ったから、彼は笑ったのではないでしょうか。
この解釈が頭に浮かんだ時、再び鳥肌が立つような感覚に見舞われ、この考えが頭から離れなくなってしまいました。
【この解釈に至ったポイント】
もぐり酒場のパーティー中の出来事です。
• 電話の置き方:ヌードルスが密告の電話をかけた後、受話器を左右逆さに置きました。右手で受話器を持っておきながらあの向きに置くのは不自然です。これは罪悪感によるうっかりミスというよりは、誰かに自分が密告したことに気づいてほしいという、複雑な心情の表れだったのかもしれません。
• マックスの気づき:マックスは、ヌードルスが部屋に入る様子をじっと見ており、後に受話器が逆さになっていることに気づいた時点で、密告したことを確信したと思います。また同時に、ヌードルスは「見つかってしまった」もしくは「わかってくれた」と思った可能性もあります。
• ヌードルスへの殴打:ヌードルスに「狂ってる」と言われ、マックスは懐から何かを取り出して彼を殴打しました。この行動は、ヌードルスを気絶させ、その夜の輸送の仕事から意図的に外すためだったのではないでしょうか。殴られたヌードルスは意識を失っているようでしたし、殴った後のマックスの表情も冷静です。また、ヌードルスは警察との銃撃戦に参加していない様子であることも、この解釈を裏付けると思います。
ヌードルスが意識を取り戻した時、すでに事態は終わっていたのでしょう。そして、自分が蚊帳の外に置かれていたことに気づいたと考えられます。
(この部屋でのマックスとヌードルスの会話は、双方の思惑が絡み合い、非常に意味深です)
【35年間の葛藤、そして笑顔の真意】
ヌードルスとベイリー長官の会話から、マックスは最初から、組織に仲間を売って、警察とも通じた上で、「自らの死を偽装して逃亡する」計画をたてていたことがわかります。
もしくは、組織から何かしら脅迫されていたのかもしれません。
一方、ヌードルスはそんな計画のことは何も知りません。そもそも彼は密告によって仲間を逮捕させ、自分も1年半ほどの禁錮刑に服すつもりでした。にもかかわらず、自分の意図に反して仲間が命を落とすという事態を招いてしまい、拭いきれない罪悪感を抱えていたはずです。
35年間、「自分の密告は正しかったのか」「マックスは本当に生きているのか」という問いを抱え続けたヌードルスの苦悩を思うと、胸が締め付けられます。そして、ベイリー長官としてマックスと再会した時の彼の複雑な心境を考えると、一層深く物語に引き込まれます。ヌードルスは、ベイリー長官となったマックスとの会話を通じて、マックスの死体偽装が当初からの計画であったことを知ります。
「それぞれが、それぞれの思いを持って、仲間を売っていた」
この事実を突きつけられたヌードルスの心の内は、いかばかりのものだったのでしょうか。
別の側面から見ると、この映画は「マックスが生きていた」というどんでん返しだけでなく、その裏に「実はヌードルスはマックスが生きていることを知っていた」という、もう一段階深いどんでん返しが隠されていた、とも捉えています。最後の瞬間に映画の見え方がガラリと変わる、言葉では言い表せないほどの奥深さを感じます。
(私自身、劇中で黒焦げの死体を見たときに「あれは本当にマックスなのだろうか?」という言葉が浮かんだことが、この解釈に至ったきっかけかもしれません。)
今もなお、あのラストシーンでヌードルスが見せた笑顔に込められた思いを考えてしまいます。「マックスだけでも生き延びてよかった」という安堵なのか、それとも「大した奴だ」というマックスへの感嘆だったのか。
あるいは、やはりこの解釈は正しいものではなく、また、そもそもあえて正解探しをするものでもなく、彼の真意は観る人それぞれの心に問いかけられていると考えるのが、この映画の本質なのかもしれません。
長文失礼いたしました。
独り言のようなものにお付き合いいただきありがとうございます。
まめにH/Pをチェックすることは叶わないのですが、引き続き皆さんの感想やご意見も楽しく拝見させていただきます。(ご指摘のコメントも歓迎です)