「【捉えて離さないもの】」惑星ソラリス ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【捉えて離さないもの】
宇宙開発競争が米ソの間で高まるなか、神の領域を思わせる映画が、「2001年宇宙の旅」と、そして、この「惑星ソラリス」だった。
日本人には、近未来の場面に、東京の首都高が使われていることが親しまれている。飯倉のところの秀和レジデンスのマンションは今でもある。
「2001年宇宙の旅」では、積極的に宇宙に進出していこうとする人類に対して、AIコンピュータのHALが、神を恐れているなど非常に人間的に描かれていて、その逆説的な表現が斬新だった。
「惑星ソラリス」は、実は、神の領域というより、神々の作りたもうた人間とはいかなる存在かとか、無意識のなかに潜み、自分を捉えて離さない、そう、縛り付ける人の幻影やものをどう考えるかがテーマだと思う。
無意識のなかに潜むものについては、「ストーカー」にも引き継がれるテーマだ。
僕達は、亡くなったり、別れた愛する人の幻影を事あるごとに思い出したり、追い求めたりしてはいないだろうか。
家族もそうだ。
生まれ育った街や田舎も同様だ。
アイデンティティとはそういうものだろう。
だが、意図せず別れた人は、常に、人の心を捉えて離さないことは多いのではないのか。
ふとした時に、群衆の中に、似た人の姿を見出したり。
それは、ソラリスの海のように無意識のなかを循環して、時々、姿を現し、元気づけることもあるかもしれないが、多くの場合は人々を惑わせ、混乱させるのだ。
もし、ソラリスのように、それが現実のものとなって出現したら『その人はその人』なのだろうか。
人は、人の幻影が作り出したものではない。
それは誰しもが理解していることだ。
しかし、人の心は、そうした幻影に縛られてしまうのだ。
ソラリスの海に島や家が出来て、家族もいる。
それは、何かを生み出しているようで、実は人が自分の心のなかに閉じこもるようでもある。
これも、一種の逆説的な表現なのだろうか。
そして、どこか寒々しさも感じてしまう。
神は、こうした幻影に揺らめく僕達に、何を問うているのだろうか。
どうしろと言っているのか。
仏教は、執着は良くないということが多い。
でも、執着は、とても人間らしいことではないのか。
親鸞は、執着を否定していなかったように思う。
「惑星ソラリス」が提示するテーマは、これからもずっと、時代時代で、人々が個人としてずっと考え続けなくてはならないテーマなのだ。