惑星ソラリスのレビュー・感想・評価
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センチメンタル·ジャーニー
うーん
お国柄か時代のせいか
劇中でも誰かが言ってる「色恋話」と「科学」
ゴッチャにしてんじゃねーよというのが感想
期待し過ぎた
3時間も尺取るんならスナウトとサルトリウスの各々の
葛藤も描いたら(あの子供なに!?)
出だしはウルトラQみたいで期待したが、日本の首都高が長々と出てきた辺りでイヤな予感して、見事的中
終始重苦しいばっかで少しはメリハリ欲しい
話しのスケールの割に登場人物少な過ぎ
クリスの奥さん役の女優さんはキレイで熱演でした
残念でした
旧国営放送を知り合いの家で見た。僕は傑作だと今は思う。
5回目位の鑑賞。
「2001」と同じで、小説に哲学的な所は無い。全て原作者の科学に基づくフィクション。それをスリリングに描いている。だから、それを映像で表現した時にどうしてもこうなってしまうのだ。
それに加えて、ソラリスの科学的な存在をタルコフスキーのこの作品には、それを描く気持ちは全く無い。あるのは地球の話。だから、
低予算に室内劇の様に撮っているので「2001」と比べてもとても退屈に思えてしまうだろう。でも、難しい所はないのだ。人類がソラリスの様な惑星に出会える事も行ける事もないからだ。
小説を読んだ限りに於いては原作に忠実だと思う。寧ろ、原作よりも奥深さはあると思う。決して、抽象的な内容はない。
やはり、テーマは郷愁で、タルコフスキーの好きな「雨」がこの映画でも登場する。
「僕の村は戦場だった」「アンドレイリブリョフ」「ノスタルジア」「サクリファイス」
全て、実に分かりやすいテーマがはっきり描かれている。
「H2O」と「郷愁」だと思う。
まぁ、日本人には突然首都高速が現れるので「何だこりゃ」なんだろうね。
個人的には今は亡きオジキと一緒に六本木のウェーブへCDを買いに行く時首都高速を走る。通る度にこの映画を思い出す。
まだまだ、オジキのところへは行かんぞ!
ともかく、人類(ソ連は本当に人類にとって、大変な放射線をウクライナに於いて放出してしまったって事だね。
もう一度映画館で観たい不朽の名作
スタニスワフ・レムの小説を名匠アンドレイ・タルコフスキーが映像化したSF映画の金字塔。
学生時代、先に映画を観てから原作小説(当時は飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』)に触れ、今世紀になって完訳版(沼野充義訳『ソラリス』)が出版されてからは4、5回読み比べしているので、合計15回くらいは読んでいると思う。
原作との相違で冒頭の地球での場面やラストシーンが話題になることが多いけれど、個人的にはハリーが蘇生(今回の放送の字幕では復活)する場面に両者の違いを強く感じる。
ハリーが自殺をはかった直後、原作でのクリスは科学者として「どんな酸性溶液よりも腐食性の強い液体酸素なんか飲んだら生物としての蘇生どころか、物体としての復元すら不可能」と分かっていながら、自己弁護か現実逃避なのか、薬品棚をまさぐっている最中に背後でハリーが蘇生する気配を察しておののき、完全復活した彼女から「やっぱり私が怖いんでしょう」とやり込められるが、すべてクリスの個室内での出来事で、ほかに目撃者はいない。
映画でのクリスはハリーが液体酸素を飲んで死のうとしたことに戸惑いながらも、その眼差しは明らかに彼女の蘇生を期待している。
そしてもっと重要な相違は、タルコフスキー監督がこの場面をステーションの回廊に場所を移すことでスナウトにも立ち会わせていること。
その意図は極めて明白で、彼に「不気味だ」というセリフを吐かせるため。
でも、タルコフスキーが描くハリーの蘇生シーンはそんなにいうほど不気味だろうか。
儚くも哀しげではあるが、むしろ美しいと感じた人も多いはず。
スナウトが蘇生のシーンを不気味に感じるのは、生物が蘇生するわけがないという思い込みがあるからにほかならないが、宇宙に目を向けずとも地球には蘇生する生物なんていくらでもいる。
昆虫や爬虫類の仲間は、死んだように冬眠しながら、春には再び活動を開始する。
広葉樹だって冬には葉を落とし枯れ木同然になっても春が訪れれば芽吹いて花も咲かせる。これらの営みは蘇生といってもいいだろう。
SFの世界では地球人と異星人は当たり前に会話しているが、将来そんなテクノロジーが開発されるのなら、同じ地球の生物とのコミュニケーションだって可能なはず。
もしそんな時代がくれば、人類は地球のほかの生き物たちから「人間って蘇生できないんですか」と言われてしまうかも知れない。
タルコフスキーがみずから挿入したスナウトの言葉とは相反する映像を作ったのは、人間の自己欺瞞に満ちたエゴの暗喩なのではという気がする。
原作者レムの三部作(正確にはファースト・コンタクト三部作)にも人類の科学や知識に対する過信や自己欺瞞がテーマとして通底しているように感じる。
一作目の『エデン』では異なる文明化の過程を経た異星人となまじ接触したために訪れる悲劇が描かれ、三作目の『砂漠の惑星』は武装宇宙船に「無敵号」と名付け、自信満々で外宇宙に繰り出した部隊がどんな敵に何の攻撃を受けているかすら分からぬまま全滅寸前にまで追い詰められる話。
両作品の間に書かれた本作の原作小説では知性を持つ海に安易に放射能を照射した結果、ステーションの乗組員の深層心理を曝け出され、地球人はパニックに陥る。
監督も原作者も人類の思いあがりに着目した点は同じなのに、その感性の相違から二人が激しく衝突した逸話はあまりにも有名。
同様のケースはスタンリー・キューブリックの『シャイニング』(1980)でも発生しているが、原作者が一方的に悪口を言い続けた同作とは異なり、レムはタルコフスキーのいるモスクワに乗り込み、堂々議論を闘わせたが、結局はケンカ別れに終わっている。
翻訳者の沼野先生によると、レムは「大馬鹿野郎」と罵声を浴びせて帰国したらしいが、知性の精髄ともいえる彼にそんな下品なセリフを吐かせたタルコフスキーはやっぱりスゴい?!
レムはその後も「タルコフスキーが映画にしたのは自分の小説ではなく、(ドストエフスキーの)『罪と罰』だ」とも発言したそうだが、それって悪口なのだろうか。
高熱でふらつくクリスを突然フレームインしたハリーが脇から支える場面は単純なのに、不思議と胸を打たれる。
それだけに彼女がみずから望んで消滅を択んでる時に、うなされるクリスが彼女ではなく若い頃の母親の夢を見ていることに釈然としない気持ちを引きずったまま、観賞後もやり切れない余韻が募る。
ヒロインのハリーを熱演したたナターリヤ・ボンダルチュクはソ連時代の名優にして大監督のセルゲイ・ボンダルチュクの長女。
当時22歳の彼女の瑞々しい魅力がなければ作品の評価も少し変わっていたのでは。
原作を何回読んでても映画の魅力は別。死ぬまでにもう一度、劇場の大スクリーンで観たい作品。
『午前十時の映画祭』でやらないものでしょうか。
レビューの印象に「美しい」の項目がないのが残念。
NHK-BSにて観賞。
こういう映画こそ4Kで放送して欲しい。
タルコフスキー、またも水の癒し、星の抱擁
記憶と幻想の海が人間に喚起するものは、愛か、科学か、それとも不幸か、、、
草藻たゆたう地球の水、母が血を洗い流してくれる桶の水、底深く轟き渦を巻くソラリスの水、、、そのどれもが、自分を果てしなく包み込む恐ろしいまでも完全な元素の力―それも辿ればどこかで自己に回帰するような、孤独でも絶対的な癒しを感じさせる。
冒頭、 え!?草、池、家、道路!なんだー結構ソラリス住みやすそうじゃん!
と思ったら、さすがに地球でした👏地球万歳
せっかく異星へ飛び立ったのに、そこで形として現れる思考、つまり求める情景は結局、公園の木々や身内や風にそよぐ木の葉の音、なんだものな。
するとタルコフスキーお馴染みの“水”に加え、宇宙ステーションのビニールベッドや凍てつく妻の羽織りなど、嗚呼asmr!と思わず聴き惚れてしまう身近な名脇役の音たちに意識が向く観方も邪道とは言い切れまい。
眠れない夜は、通気孔にビラビラを。
タルコフスキー世界デビュー作であり官能映画
この作品は1977年に神保町の岩波ホールでの上映初日の午前の回で見たと記憶してます。その時私は二十歳。
映画情報誌で形而上学的なSF映画だと言う説明。かなり混むだろうと思って行ったが観客は私を含めて五人ぐらい。
この作品は1972年のカンヌ映画祭に出展され、審査員特別グランプリをとっているのですがほぼ無名のソ連の監督作品なので5年遅れで細々とした上映でした。その後の「鏡」「ストーカー」「ノスタルジア」「サクリファイス」が次々と普通の映画館で上映されるようになりました。
日本で一般に認知されるのは1980年の「鏡」上映以降です。
鏡は日本の映像作家に影響を与えました。モダンな映画作家でした。1986年に亡くなった時はショックでした。知的映像を世界に与えて去ってしまった。ジョンレノンが亡くなった時と同じような喪失感を感じました。
惑星ソラリスに戻ります。映画「惑星ソラリス」はSF映画ではありません。恋愛映画。官能映画。自然からの癒しを渇望する映画なので、映画の見方を間違えないように。初歩的な間違いをして評価をする人がいます。
この作品は私の映画ベスト10に入ってます。官能映画としてはヒッチコックの「めまい」と双璧です。
どのシーンが脳に来るか?
「妻」ハリーが夜になると部屋に来て、椅子にショールをかけてベッドに入りますが翌日は椅子に掛けたショールが二枚になる。
ハリーが悩む姿は現在の21世紀に生きる人類よりも真に人間的です。
タルコフスキーが21世紀の今の日本を見たら悲しむしかない。消費と生産の循環しかしていない。こんな21世紀になって先人に申し訳ない。情け無い。
くだらない消費映画ばかりでただただ申し訳がないです。
どこが官能的に美しいか?
水草が湧き上がる水流にたゆたう姿。
自然は人類のように地球に反逆的ではないから癒される。
レビューを書いてきたらタルコフスキーが得難い映画作家だと思い返しました。五つ星しかない。
眠くなる、わからないのに、巻き戻してでもまた見たくなる不思議な映画。
何気ない映像にくぎ付けになる。
水の流れにそよぐ草草。まるで、何かの触手のように、私を誘う。
水の流れの中にそよぐ、緑。
首都高。均等なスピードで進む流れ。道自体が意思を持っていて、ただ、その流れに乗って、私の意思とは関係なくどこかに連れていかれるような。
首都高の光の帯。実際に日本の物流の大動脈ではあるのだが、この映画の世界観の中で脈打つ大動脈に見えてくる。それ自体が、意思を持ってうごめいているようにも。
大写しになる、多少凍った紅葉した葉、葉、葉。
宇宙ステーションの窓の外は光の洪水。
目を凝らせば、ソラリスの海は鳴門の渦のようにうねる。それ自体が何かの意思を持っているかのように。
人でさえ、会話をしているときよりも、黙ったままの眼差しに食い入ってみてしまう。
『ノスタルジア』のレビューでも書いたが、何か意味づけがあるのではないかとフロイトの夢分析やユング心理学を片手に、感性と想像を駆使して読み解きたくなる。目が離せなくなる。
映像の詩人と呼ばれたとか。確かに。
贖罪?
自分の言動がきっかけで、自死した妻が現れる。どんな気持ちなのだろう?
だが、その妻は姿かたちは似ているものの、自分が何者かわからない。ドアの開け方も知らない。なのに、同じことを繰り返す。時間の轍にはまったように。
贖罪が執着に変わっていく。
他の科学者たちにはどんな”お客さん”が来たのだろうか。
眠っている間に頭に浮かんだことが見える化する。意識しての思念や記憶ではなく、前意識、よりむき出しの欲望に近いもの。場合によっては、打ち消したい、心の奥底にしまっておいたもの。確かに、人には見せたくない。そんなものが毎回、こちらの心の準備なく現れたらきつい。「これは単なる物質だ」そう認定しなければ、やっていけないだろう。
そして、人は何をもって、同じ人と認定するのだろうか。『オブリビオン』にも通じるテーマ。
そんな人もどきであっても、容貌が似ているだけで、愛せるのか?愛とは何なのだろうか?
フロイトの転移を持ち出して、解説したくなる。
自分自身に跳ね返ってくる問い。
映画が答えをくれるわけではない。
映画の登場人物との対話で、自分自身が探す答え。
そして、そんなお客さんに耐えられなくなった科学者たちが、ソラリスの海に行った作戦により、大きく舵が変わってくる。
クリスの脳に浮かぶものに反応したソラリスの海、ああいうラストに繋がる。
原作と大幅に変えたというラスト。
監督の意図を逡巡し、意味づけるけれど、これと言った正解はなく…。
SF映画でありながら、科学の暴走への怒りも強い。
「ヒロシマ」当然、原爆の悲劇のことを言っているのだろう。
無知なので、X線と放射能がどう違うのかは知らないが、
X線をソラリスに放射してから、困った現象が現れたと言い、無暗な対策を非難している。
放射能でケリをつけたいサルトリウス博士。放射能を放射するということは、すべてを破壊するという意味か。それを阻止しようとするスナウト博士。
その結果の、個人的意味合いの原点回帰?
役者さんたちはそれぞれに味がある。
クリスの父とクリスの体形が違いすぎで、父子に今一つ違和感はあるが。
クリスの父と、バートン博士の若い頃と老けた様子。クリスの火傷の跡(水ぶくれ)。そのメーキャップが自然。
だが、圧巻はハリーの蘇生。すごすぎる。あまりにも生々しすぎて、美しいのだが、目をそむけたくなる。
幾重にも意味付けされているような気がして、次こそはと挑戦したくなる。
自然の美しさ、日本人なのに田舎の原風景に揺蕩う心地よさと相まって。
(原作未読。リメイク版未鑑賞)
「ヒロシマのように」
恥ずかしながら一部うつらうつらとしてしまい理解不十分。それでも、印象に残る作品。
日本の首都高(?)がずっと映し出されるシーン、これは未来的な光景として選ばれたのだろうか。標識や看板に映る日本語を見ていると何とも不思議な気分になる。
また、無重力のシーンは短いながらもとても美しい。こんなにも個性的で印象的なシーンはなかなか無い。この作品を観ていると、人や愛の本質は何かという事について考えさせられる。
…
愛と逃避を混同してしまった主人公と事実基づく判断をする科学者。AIやクローン、フェイクニュースや偏向情報が溢れる現代、気をつけないと偽りの世界の住人になりかねないという、今改めて観るべき作品のようにも思える。
地球に帰りたくなる映画‼️
エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」が映画史的に一番重要なのかもしれませんが、私がロシア映画で一番好きなのは「惑星ソラリス」であり、アンドレイ・タルコフスキー監督‼️私的には「惑星ソラリス」がタルコフスキー監督の最高傑作だと思う‼️海に覆われた惑星ソラリスに、地球から心理学者ケルビンがやって来る。ソラリスの海は生命体であり、人間のイメージを実体化する力を持っていた。そして、ケルビンの前にも10年前に自殺したはずの妻ハリーが現れる・・・‼️実に3時間に及ぶSF大長編です‼️しかし、いわゆるSF的な描写や映像はほとんどありません‼️ソラリスの海もまぁ海だし、あえて言わせてもらえば宇宙船内のセットぐらいでしょうか‼️この作品は宇宙の旅ではなく、主人公ケルビンの意識の中にある故郷・地球への郷愁、亡き妻への変わらぬ愛、そんな「記憶」の数々ですね‼️「鏡」とか「ノスタルジア」でも記憶が重要なテーマになってると思うのですが、今作ではSFと言う枠組みで、そんなテーマを結晶化させている点が素晴らしいと思います‼️ケルビンの裏切りがハリーの自殺の原因になっており、いわばケルビンにとってのトラウマ‼️そんなトラウマであるハリーが眼の前に現れることで、ケルビンは自らの罪の意識と向き合わねばならない‼️ホントに深いです‼️最初ハリーの記憶はない‼️ハリーをカプセルに閉じ込め、宇宙に放出しても、次の日には何事も無かったように新たなハリーが現れる‼️そして徐々に記憶を取り戻していくハリー‼️そんなハリーと対峙するうちに、ケルビンは恐怖と贖罪意識と戦いながら自らの過去を見つめ、改めて幻のハリーを愛して、受け入れる‼️シャンデリアがしゃらしゃらと音を立てる無重力空間で、ケルビンとハリーが浮遊するシーンはホントに美しくて鳥肌が立ってしまいます‼️そしてラスト、ケルビンとハリーはソラリスの海が作り出した、懐かしい故郷・地球へと帰っていく‼️なんという感動的で素晴らしいラスト‼️自らの罪と向き合うという、哲学的な側面もあるのですが、ヒジョーに分かりやすい作品だと思います‼️水草が揺れる水面の美しいイメージ、東京の首都高速道路の映像が採用された未来都市の場面、神秘的な青いプラズマのソラリスの海もホントに美しくて、最近のハリウッドの物々しいCG映像で描かれる派手なだけのSF映画と比べると、ホントに心が洗われるような美しさですね‼️さすがは映像詩人、アンドレイ・タルコフスキー監督‼️彼が紡ぐ「愛の本質」に、いつまでも身を委ねていたい作品です‼️
近未来的でもあり、哲学的でもあり
SF金字塔 ソラリス モノリス
Dボウイ⇒坂本龍一⇒なぜかタルコフスキーに着地 坂本教授が影響受けた映画音楽とのことで、流水音もただの自然の音ではなくまるで映画音楽のようにと拘りが感じられるらしい レンタルは確か昔途中頓挫してしまったけど音にも注目するとまた新たな見方が出来るかも しかしカメラアングルも音楽もちょっと恐い時が...ホラーテイスト? 米ソで作りがこうも違うのねという印象で画面も寒々、厳かな感じ 肝心のストーリーは1408号室を想起した
爪痕を残した作品だろうけど、長い…眠い…
やっぱりラストは素晴らしいが…
37年ぶりに観た。
といっても当時観たのは短縮版(東京12ch版?)だったので、やっと本来のヴァージョンを観ることができた。
その短縮版ですら、だいぶ冗長に感じていた本作、あの衝撃のラスト以外は殆ど内容は忘れていたが、やはりずっと気になっていたのは、知性を持つソラリスの海と人間は、結局コミュニケーションは出来ていたのか?
だったのだが…
ん?
え?え?ない?え?ない?ない?
………
な、な、ない…
無いって、どういうこと?!
映画にしたら最もスリリングになるはずだった、そんな部分をバッサリ捨て去るとは…
もう本当、なんというか…
まったくもって大変に失礼ながら…
本当、バカなんじゃねえの?
………
後で知ったが、原作者のレムが口論の末に怒りまくったのも無理もない。
やっぱりタルコフスキーはエリート主義(言い換えると芸術至上主義)が過ぎるというか、結局は我田引水なんだろう。
主人公の妻が声高に訴えていた科学技術に対する不信感も妙に説教臭かったし。
心理学者であるはずの主人公も、近代&現代以降の心理学のメソッドを駆使するような事も無く、殆ど心理学者には見えなかった。実は心理学それ自体に懐疑的になっているように見えなくもなかったが…
であるなら、明らかにそれと匂わす印象的な描写は入れて欲しかった。
宇宙ステーションのセットデザインの方も、あのキューブリックの『2001年〜』の後発なんだから、もうちょっと気合い入れて欲しかった。予算は潤沢にあったようだし。
あと突然、東京の首都高のシーンが出てくるが、アレは一応、未来都市としてのフッテージだったらしい…
我々にしてみれば、懐かしの70年頃の東京へ突然タイムリープっていう感じにしかならないし、ましてやリアルタイムで観ていた人達にしてみれば、なんでSF映画なのに現代の東京?と思ったに違いない。
本来は大阪万博のパビリオンを未来都市の背景に利用したかったらしいが、それにしたって間違いなく懐かしの70年代映像にしかならなかっただろう。
こういった辺り、本当にズレてるというか、手抜きというか、本気でSF映画を作ろうという気概はなかったみたいだ。
タルコフスキーにしてみれば、SF的な作り込みなどは、単にオモチャの延長でしかなく、彼なりの芸術とは無縁だったのかもしれない。
あのラストといい、冒頭からの水の描写といい、素晴らしい映像が多かった分、なんとも勿体ないことをしたもんだ。
映像としての魅力がズバ抜けている部分と残念な部分、そして原作において最も重要なテーマを確信犯的にオミットしてしまう部分…
ソダーバーグがリメイクしたくなるのも良く分かるような気がした。
スタニスワフ・レムの原作を読んで、映画も見る事にした。
Blu-rayで新装版が出ているので、買ってしまった。4000円位したが、配信されていないので、仕方ない。
封切りで見たのと、一昨年、渋谷のアップリンクで見た。
スタニスワフ・レムの原作を読んで、映画も見る事にした。だから、タルコフスキーの映画だから見たのではない。
最初見た時、舞台劇の様で、面白くなかった。
アップリンク渋谷で見た時は、ベタな映像だなぁって思った。
つまり、原作を超えていないなぁと思った。
そして、今回は、原作をある意味、忠実に再現しているのでは。と感じた。つまり、面白かった。
ソ連の映画って、上空から見下ろすと言った空撮が多いと思う。ボンダルチェクの戦争と平和もそんな場面が多かった。惑星ソラリスもその手法が使われていると思う。
色即是空
全編に渡って沈鬱な空気が画面を漂っている。 カラーとモノクロのシーンが交互に現れ、登場人物の感覚や思考を炙り出す。 会話のリズムは非常にゆっくりで、内容は内省的で哲学的。 旧ソ連作品ならではの粗末なセットが、独特のリアリティと重厚感を醸し出す。
印象を一言で言うと、幻想的。 ただし、イメージと雰囲気だけで流したりぼやかしたりはしていない。。 人物の心理と行動が考え抜かれた演出で描かれており、最後まで退屈を感じない。 2時間40分を見入ってしまう。
原作は読んでいないが、この作品を見る限り、まさにこの世のカオス、「色即是空」の世界観を描いているように思えた。 監督は、イメージ通りの物語を具現化できたのではないだろうか。
ロシアには、ドストエーフスキーもトルストイもタルコフスキーもいた。 プーチンにも、もっと人間らしく悩み苦しんでほしいものだ。
【捉えて離さないもの】
宇宙開発競争が米ソの間で高まるなか、神の領域を思わせる映画が、「2001年宇宙の旅」と、そして、この「惑星ソラリス」だった。
日本人には、近未来の場面に、東京の首都高が使われていることが親しまれている。飯倉のところの秀和レジデンスのマンションは今でもある。
「2001年宇宙の旅」では、積極的に宇宙に進出していこうとする人類に対して、AIコンピュータのHALが、神を恐れているなど非常に人間的に描かれていて、その逆説的な表現が斬新だった。
「惑星ソラリス」は、実は、神の領域というより、神々の作りたもうた人間とはいかなる存在かとか、無意識のなかに潜み、自分を捉えて離さない、そう、縛り付ける人の幻影やものをどう考えるかがテーマだと思う。
無意識のなかに潜むものについては、「ストーカー」にも引き継がれるテーマだ。
僕達は、亡くなったり、別れた愛する人の幻影を事あるごとに思い出したり、追い求めたりしてはいないだろうか。
家族もそうだ。
生まれ育った街や田舎も同様だ。
アイデンティティとはそういうものだろう。
だが、意図せず別れた人は、常に、人の心を捉えて離さないことは多いのではないのか。
ふとした時に、群衆の中に、似た人の姿を見出したり。
それは、ソラリスの海のように無意識のなかを循環して、時々、姿を現し、元気づけることもあるかもしれないが、多くの場合は人々を惑わせ、混乱させるのだ。
もし、ソラリスのように、それが現実のものとなって出現したら『その人はその人』なのだろうか。
人は、人の幻影が作り出したものではない。
それは誰しもが理解していることだ。
しかし、人の心は、そうした幻影に縛られてしまうのだ。
ソラリスの海に島や家が出来て、家族もいる。
それは、何かを生み出しているようで、実は人が自分の心のなかに閉じこもるようでもある。
これも、一種の逆説的な表現なのだろうか。
そして、どこか寒々しさも感じてしまう。
神は、こうした幻影に揺らめく僕達に、何を問うているのだろうか。
どうしろと言っているのか。
仏教は、執着は良くないということが多い。
でも、執着は、とても人間らしいことではないのか。
親鸞は、執着を否定していなかったように思う。
「惑星ソラリス」が提示するテーマは、これからもずっと、時代時代で、人々が個人としてずっと考え続けなくてはならないテーマなのだ。
心の深淵、ソラリス
“Beware that, when fighting monsters, you yourself do not become a monster… for when you gaze long into the abyss. The abyss gazes also into you.”
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
上記したのは、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの「善悪の彼岸」に記されている言葉である。
この「惑星ソラリス」は、スタニスワフ・レムが書いた小説が原作としているが、あくまで「枠物語」として利用したとするタルコフスキー監督。
小説を未読なのでこのあくまでこの映画でのソラリスの描かれ方に関しての解釈しかできないが、ソラリスと人間の交流を図るというのは、「自分の心の中を覗きこむ」という行為に近いことなのではないかと思った。心の中は宇宙と同じで、暗く、どこまでも続いている。
人間は幸せな状態の時、「人生とは何か」「自分とは何か」「愛とは何か」という問題に関心を向けない。逆に言うと、関心を持たなければそもそも問題が生じない。しかしそれが正解で、純粋な生きももの在り方なのである。
しかし人間は悲しみ、悩む生物だ。すると考えなくていいことをつい考えるようになる。すると出口の無い心の迷宮に迷いこみ、答えの無い問題と向き合うことになる。「これは病んでいる人」が行う行為だ。
劇中出てくる人物たちは、皆心を病んでいるように見える。しかし、これは宇宙ステーションにいない私たち視聴者も、充分になり得る状態なのである。
こういう哲学を感じるSFは個人的に大好きなので、始終楽しく観れた。睡魔に何度も襲われたのも事実だけど。
ゆったりとした美しい映像を観るのは小説を読んでいる感覚に似ていて心地いい。
東京の高速道路のシーンが結構ガッツリあって、それが妙にSFの雰囲気に合っていて面白かった。
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