レイジング・ブルのレビュー・感想・評価
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ボディーブローのように効いてくる映画史に残る名作
ロバート・デ・ニーロとマーティン・スコセッシ監督にとって、1980年製作の「レイジング・ブル」はそれぞれのキャリアの一つの到達点で、俳優と監督の才能が見事に融合した映画史に残る作品。
1940年代から50年代に活躍し、ミドル級チャンピオンにまでのぼりつめた実在のボクサー、ジェイク・ラモッタの自伝を元にその半生を映画化したもの。栄光を手にしながら、次第に嫉妬心や猜疑心を募らせて破滅していくジェイクをデ・ニーロが体現。ボクサー引退後の姿を再現するために27キロも体重を増やし、体型をも変化させるその徹底した役作りから「デ・ニーロ・アプローチ」という言葉を生んだのは有名な話。この演技で第53回アカデミー賞主演男優賞を受賞した。
暴力的な人間の弱さや欠点を描き、目を背けたくなるシーンも多く、主人公に共感はできないかもしれないが、スコセッシ作品に通底する「罪と贖罪」というテーマが次第に見る者に迫ってくる。
さらに、そんなドラマ演出、名演を引き立てるのが、意欲的な撮影技法や編集、サウンドだ。ボクシングの試合のシーンでは、180度の切り返しのショットやシャッタースピードを変えるなど、カメラは絶えず動き、パンチの音、観衆の声、マスコミのカメラのフラッシュとその音が合わさった編集とサウンドはまるで飛び散る火花のようで、自分がリングで戦っているような錯覚に陥る。セルマ・スクーンメイカーが第53回アカデミー賞編集賞を受賞した。
本編の約1時間18分あたりから始まる試合直前の約1分30秒のシーンはワンカットで撮影。地下の控え室でジェイクが、ジョー・ペシ演じる弟ジョーイを相手にウォーミングアップしている。そこからバックヤードを抜けて超満員の観衆の中をかき分けてリングへあがっていくまでの間、ピエトロ・マスカーニ作曲の歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」の美しい曲が重なり、CG合成なしのこのシーンは、何度見ても鳥肌が立つ。
「罪と罰」そして「贖いと救済」―― マーティン・スコセッシとポール・シュレイダーの刻印
この作品は、監督マーティン・スコセッシと脚本家ポール・シュレイダーの刻印が深く、明らかに垣間見える。
「罪と罰」そして「贖いと救済」の物語の深奥に。
主題は、まさに「妄想」である。両者の創り上げた『タクシードライバー』と同じく。
ボクシングの様式を用いた「暴力」
主人公(ロバート・デ・ニーロ)の「愛」の狭間に躍動する「嫉妬」
その源は「妄想」にしか他ならない。
「妄想」が主人公に「暴力」を喚起させて「人格」を形成させ「罪」を為させる。
その果てに在るのが「罰」なのである。
それは自らに「罰」を与えるかのように周囲から「暴力」を浴びる。
ボクシング然り。家庭生活然り。マフィアとの関係然り。
では、どのようにして「贖い」が成立するのか。
それは極論するとボクシングを捨てるときである。
形だけにおいても「暴力」の手段を捨て去る第一歩を踏み出すときである。
何故なら、少なくとも主人公にとって、ボクシングは〈スポーツ〉ではなかったのであるから。
自らの「憎悪」を吐き出す捌け口であったのであるから。
主人公はボクシングと訣別する。
ここから、「贖い」が主流として始まり出す。
見事な肉体を捨て去り、豊富な財産をも失う。そして、妻(キャシー・モリアーティ)をはじめ家族とも別れる。
それらは何を意味するのか。
それは「愛」を見出だす遍路である。
主人公は、場末の芸人と成り果てる。けれども、そこに悲壮感はない。
ようやく自らの「居場所」を見つけ、弟(ジョー・ペシ)にも優しく抱擁する。
そこに「救済」が確かに存在する。
主人公は、かつて何も見えていなかった。しかし、いまは見える。
何を?
それは言うまでもない。
スコセッシとシュレイダーは、常に「妄想」に囚われた男を描く。
けれども、そこには「罪と罰」だけをほのめかさない。
ただ「贖いと救済」をそっと提示する。
加えて、その手段をも。
「ザッツ・エンタテインメント!」
白黒の美しさ
素晴らしい作品なんですがね
病的な性格
主人公ジェイクの前妻に対する八つ当たりを見ていて、2番目の妻であるビッキーに対しても同様の行為に及ぶだろうと思っていたが、案の定だった。そしてビッキーに対する束縛が強く、どこで何をしていたか監視をしないと気が済まないという病的な性格を見せる。しまいには弟まで疑い出す始末。今まで他者を信頼したことが無いのだろう。だから暴力で他者を押さえつけたがる。妻にも弟にも見限られる根本的な原因が、他者を信頼できないことにある。
ストーリーはボクシングの試合と家庭内不和の問題が繰り返され、単調に進むのでそこまで面白いとは感じなかった。ジェイクを演じたロバート・デ・ニーロの役作りは見事。いつ怒り出して何をするか分からない男の恐怖感を出すことができていた。
デ・ニーロ・アプローチ・・・
太ったり、筋肉質になったり、髪の毛抜いたり、いわゆるデニーロアプローチと呼ばれる役作りが浸透したのはこの作品からではないでしょうか。そういう意味では革命的な作品ですね。デニーロはこの作品の演技が素晴らしすぎるがために指針となってしまい、後の作品での演技が物足りなく見えるというか、なかなかオスカー獲得に繋がらない、幸か不幸か・・・天才マーティン・スコセッシ監督が描くデニーロ演じるジェイクラモッタの病んでる描写が容赦ないというか、血も涙もなく描いてますよね。人間としてボクサーとしてのジェイク・ラモッタの罪と罰の物語。こんなすごい人間ドラマを見せられたら、某ボクシング映画のアメリカンドリームが安っぽく見えてしまう・・・
ボクシングシーンの、 殴られて、顔面が切れて血が飛び散るシーンなど...
ボクシングシーンの、
殴られて、顔面が切れて血が飛び散るシーンなど迫力あるが、
ボクシングシーンがメインではない。
ハードな練習風景や
減量の苦しみシーンもそんなにあるわけではなく、
主人公のジェイク・ラモッタの
嫉妬深さなど、内面に焦点を当てた映画になっている。
なので、
娯楽映画として期待して見るのであれば、
ロッキーの方が面白いが、
ジェイクが栄光から転落し、
ショウパブにおちつくところまで、
ロバート・デ・ニーロの役者魂をとことん味わえる映画だ。
現役ボクサーの頃の出来上がった肉体から、
ボクシングやめた後の
だるんだるんの
たいこ腹、全部役作りでつくり上げたのであれば
この努力は半端ない。
映画としては特別好きではないが、
ロバート・デ・ニーロの役者としての生き様、
役者とはなんぞやを
がっちり見れる映画だ
そんなに名作かなぁ
んー…
リング上のタクシードライバー
だいぶ前にDVDで観たけど、改めて映画館で観たら、ボクシング映画と言うより狂気に取り憑かれた男の心理ドラマの印象でした。妻や弟にすら疑心暗鬼になり、試合では相手を徹底的に痛めつける凶暴なプレイスタイルのボクサーである主人公の屈折した心理が、モノクロ画面で不気味に描かれています。観客に血しぶき飛び散る試合のバイオレンス描写も凄まじいけど、監督と脚本は『タクシードライバー』のコンビで納得。デニーロの体型改造演技もあって、引退してからは憑き物が落ちたような豹変ぶりも、どこか薄気味悪さがあります。役者ではデニーロの演技は言うに及ばずだけど、意外と目立っていたのはジョー・ペシで、目つきからして怖かったです。キャシー・モリアーティの妖艶さも凄いけど、15歳の少女役は無理では?
ボクシングの壮絶な戦いの先に
はじまりのシーン
男のドリームとジェラシーをモノクロ映像とマスカーニの音楽で抒情化したスコセッシ監督の映像詩
マーティン・スコシージが演出した、破滅型ボクサーの成れの果ての映像詩。ロバート・デ・ニーロの役者魂がストレートに感じられる闘う男の熱さと敗北の無様な姿が強烈である。この演出と演技が一つに溶け合って見事な映画となる。描かれたものは男の敗北、それも生きながらえて人生に負けた男の挑戦者のむき出しの生き様。ここには今日の社会性とは無縁の、勝負に拘る男の性があるだけ。「アリスの恋」が自立して生きて行く女性の困難さを描いたのに対して、この作品は本能だけで生きて行く男性の孤独を見詰めた男のための映画だった。物語は非常にシンプルで、モノクロ映像の美しさが際立ち、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティーカ』の間奏曲と渾然一体とした演出も素晴らしい。この叙情的な曲が、ボクサーを主人公にしたドラマのメインテーマ曲として生かされている。
ドラマツルギーと云うより、ジェイク・ラモッタの見たスローモーションの残像が音楽で抒情化された、男のドリームとジェラシー。
1981年 2月18日 日比谷映画劇場
猜疑心の塊…
面倒くせー奴。しかもボクサーだから拳が凶器で厄介。主人公の病気とまで思うほどの猜疑心、嫉妬心から妻や子供、弟まで離れていき、落ちぶれていく元チャンプの実話だけに、共感はできない。ロバート・デ・ニーロの体重減量、増量、迫力あるボクシングシーンは見どころあり。
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