「ジョン・フォード監督とジョン・ウェインが辿り着いた、西部男の清廉な純愛秘話の味わい深い西部劇」リバティ・バランスを射った男 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
ジョン・フォード監督とジョン・ウェインが辿り着いた、西部男の清廉な純愛秘話の味わい深い西部劇
西部劇と郷愁の人間ドラマを得意としたジョン・フォード監督の、名作「駅馬車」から刻んだ歴史の終着点に位置する後期の代表作。ダブル主演のジョン・ウェインが55歳でジェームズ・スチュアートが54歳、そしてフォード監督が68歳。それ故にスピードとダイナミックな迫力はなく、交通手段が駅馬車から鉄道に代わった時の流れを回顧する主人公ランスの、記憶に残る一人の西部男トムへの鎮魂歌が渋い感動を呼ぶ。キャスティングに於いても、「駅馬車」の御者役アンディ・ディヴァインが頼りない保安官でユーモアを出し、同じく賭博師役だったジョン・キャラダインが後半の準州会議での牧場主側の弁護で風格ある紳士を演じている。ヒロイン ハリーは「捜索者」のヴェラ・マイルズで勝気な娘と淑やかな婦人を上手く演じ分けている。「バファロー大隊」の黒人俳優ウディ・ストロードもウェインに仕える使用人役で良い存在感を見せて、とても印象的だ。加えてゲスト出演ではあるが、「わが谷は緑なりき」のアンナ・リーが、冒頭の駅馬車に乗り合わせた未亡人を演じているのも個人的には嬉しい。他にもアル中の正義漢ピーボディ編集長のエドモンド・オブライエンもいいし、食堂の女将ノラのジャネット・ノーランの人懐っこいキャラクターも好感持てる。
しかし、この作品を名作にした一つの要因は、タイトルネームのリバティ・バランスを演じたリー・マーヴィンの悪役の存在だ。彼の強烈な個性が、ウェインとスチュアートの対立をより鮮明にしていると言っていい。このウェインとスチュアート名優二人と五分に渡り合う事の困難とその挑戦は、マーヴィンのその後の俳優人生を変えるくらいの成果を上げたというだけの事はあると、感心してしまった。それと、全盛期を過ぎたアメリカ映画の西部劇が、イタリアのマカロニウエスタンに移行したのを象徴するかの様に、名脇役リー・ヴァン・クリーフがバランスの手下役で出演している。これほどに、キャスティングだけでも楽しめる映画はなかなかない。
弁護士資格を持った主人公ランスは名声と富を求めて駅馬車で西部に来るが、この25年前の時代説明には驚くことが多い。トムを引き立たせる意味で保安官のだらしなさを強調しているのだろうが、それでもたった一つの牢屋の鍵が壊れていて、しかも保安官の寝床になっているギャグのような話は唖然とさせる。保安官とは名ばかりで、法と秩序より銃の支配する暴力が正当化されているのだ。この無政府状態の素因は、支配階級にあたる牧場主が荒くれ男を用心棒に雇い、その権力を意のままに行使していたからだろう。一応は法律書を読み解くランスの場面があり、管轄権とか告訴状の言葉が語られるシーンもある。しかし、ヒロインのハリーを始め多くの人たちが文盲のため、法律を理解できる人が少ない。多くの西部劇映画では教会が学校の代わりを果たし、子供たちに読み書きを教えるシーンがあるが、この田舎町シンボンを舞台にした話には神父さんが登場しない。よって弁護士のランスが先生を兼ねるが、その教室の黒板には、”Education is the basis of law and order”(教育こそ法と秩序の基盤である)と書かれている。ワシントンやリンカーンの肖像画が飾られ、ジェファーソンの独立宣言の基本原理である人間は皆平等であるを黒人のポンピーに説くランスと、ジョン・フォード監督らしいヒューマニズム溢れる名シーンになっている。憲法や法律があっても、それを理解する知識と広める教育が無ければ、単なる絵に描いた餅に過ぎないのもまた、自明の真理なのだ。
この真面目な講義の時代再現を味付けする厨房シーンもまた興味深い。大きな皿からはみ出る程のステーキの巨大さ、豆とポテトとアップルパイとパンの限られたメニュー。ランスがホットコーヒーにブランデーを混ぜた飲み物に辟易する場面もあった。そういえばコーヒーをサイフォンで淹れて楽しんでいた中学時代、興味本位でカフェ・ロワイヤルを何度か試したことを想い出す。映画ではブランデーをそのまま注いでいて如何にも西部らしいと思ったが。保安官のステーキのツケが49枚に達しているマーシャル専用黒板のカットも可笑しい。
この映画の演出で特に良いというか、ジョン・フォード監督独自のタッチが光るのが帽子の扱い方だった。最初は、トムが保安官の帽子を取り床に落とす場面。拾おうとした保安官より先にハリーが足で蹴飛ばし、帽子がランスのところへ飛んでいく。保安官失格をユーモラスに描きながら、町の新しい秩序をランスに託すハリーという、この映画の人物設定と役割をワンカットで見せた巧妙な演出が素晴らしい。それを些細で日常的な仕草で表現する自然さと映像の遊び、これこそ映画演出の本質ではないだろうか。次は、準州会議の代表者を決める集会場面。ランスから候補の推薦を受けたトムが、自分のする仕事ではないと聴衆を静める為、机上にあったピーボディ編集長の帽子を木槌で叩き潰す。禁酒の集会でわがままを言うアルコール依存症の編集長への戒めと代表を示唆するトムの心理を表したものだ。そして、決闘の決着が付いた後の、馬車の荷台に乗ったバランスに投げ込まれる帽子のカット。死者に対する最低限の儀礼と言えるだろう。蹴られ、叩かれ、投げられる帽子。この帽子たちも、この映画の主要登場人物になっている。
それら、主軸のストーリーを支える演出が素晴らしいが、映画の主題は西部男の清廉な純愛だった。トムは、愛する人の為に結婚を想定して家を増築するが、ランスの正義感と行動力に惹かれていくハリーの幸せを優先させ、男らしく身を引く。しかし、そこには男ならの惨めな嫉妬と、非情な殺人に手を染めた苦悶もある。ジョン・ウェインがこのトム・ドニファンという翳のある男性像を見事に演じていた。二度目のクライマックスの決闘シーンに入る前のウェインの顔がズームアップするカットのやさぐれた表情。嫉妬に囚われ、見た目も気にせず、無精ひげを生やして眼も虚ろながら、ランスを奮い立たせるために最後の力を振り絞る男の姿があった。この姿は泣かせる。「駅馬車」でストレートに愛を告白したリンゴ・キッドを演じたジョン・ウェインが辿り着いた23年の軌跡の終着地。外見の格好良さに拘らない西部男の純粋な心意気を讃えた、フォード監督の真意を汲み取ったジョン・ウェインの名演と言いたい。このウェインとスチュアートは、本編の殆どを占める回想場面では30代の青年役なのだが、そんな違和感は何でもない。名優の演技力と存在感で見事に払拭している。
ジョン・ウェインとジョン・フォード監督の最後の作品に相応しい、味わい深い西部劇映画の名作であった。