劇場公開日 1952年5月22日

「暑いニューオーリンズ」欲望という名の電車 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0暑いニューオーリンズ

2020年7月11日
PCから投稿

人気タレントのドラマでのキレた演技が話題になっている。
狂気すぎるとか天才とか完全に壊れたなどの絶賛があがっていた。
去年奪い愛というドラマでも別の女優の怪演が持ち上げられていた。
Abemaは「狂気」に味を占めたようだ。
そういう品評を見ると、いちおうドラマの演技を確認したりする。
で、本気なんだろうか。とは思う。

ドラマはクオリティが低いが、適当な声を拾ったエンタメニュースがかぶさる。作るひとと見るひとに一体感がある。適当な作品と適当な意見。世界が不可解なものに変わる。
禍とはいえ平和である。世のなかシステムに乗っかることだって才能だが、システムに乗っかっただけでない国産コンテンツがもはや探しにくい。

タレントはたんに依頼されてドラマのしごとをこなしているだけだし、ぜんぶ笑うところなのかもしれないし、時事ネタをまじにとらえた意見は、たいていみっともない。
だが、ふと「狂気の演技」なら、シャイニングのニコルソンと比較してもだいじょうぶなんだろうか。とか、考えてしまう。

コレクターが、じぶんよりすごいコレクターを発見することがある。些末なじぶんのコレクションを不甲斐なくおもう。
日本人だらけの日本で多様性をやしなうのは世界のエンタメだと思う。そこでは、もしかしたら眼帯をしたアナウンサーの演技よりすごい狂気の演技を発見できるかもしれない。ばあいによっては日本のコンテンツが不甲斐なく思えてしまうかもしれない。

おりしも人種差別の描写をめぐって風と共に去りぬのオンデマンド配信が揉めていた。
ヴィヴィアンリーはスカーレットを演じた全盛期から、低迷を経て復活を果たした女優だった。それがこの映画である。ブランチは彼女の二つ目の代名詞になった。

ブランチは今様にいうなればスイーツである。スイーツもすでに古いけれど、自己顕示欲と気まぐれをもった、年甲斐もなくモラトリアムな女性である。
そして「ああ、こういうひといるよな」の感じは、時代を超越している。

その普遍の人物像に、ふと狂気のようなものが宿る。モノクロの陰影のせいか、スカーレットオハラの面影か、リーストラスバーグのメゾットか何か分からないが、狂的なものが、なんとなく見えてくる。

つまり狂気とは「はいこれが狂気の演技です」と喧伝するようなものじゃない。で、牽強付会とは知りつつブランチを挙げて、述べてみた。

庶民が享受するエンターテインメント、娯楽の俎上には、新古にくわえ、品質や程度のことなるものがごちゃ混ぜにならんでいる。移り変わる時代と風物のなかで、眼帯したアナウンサーが需要をになうこともある。なんの問題もない。ただ観衆=受け手が、比較しえるリテラシーを持っていないとき、世界はまるで文明がないかのように不可解だ。

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津次郎