「だんだんおバカになってくアントワーヌ。君は社会の荒波のなかで果たして生きていけるのか?」夜霧の恋人たち じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
だんだんおバカになってくアントワーヌ。君は社会の荒波のなかで果たして生きていけるのか?
おお、ついにアントワーヌ・ドワネル・シリーズをフルコンプ!
若い頃に『大人は判ってくれない』を、6月の特集上映で『家庭』と『逃げ去る恋』を観て、8月の追加上映で今日、『アントワーヌとコレット』と、この『夜霧の恋人たち』をようやく観ることができた。
コンプして思うのは、回を追うごとに、アントワーヌ・ドワネルがバカになり、ついている職業が非現実的になり、内容が「無駄に」コミカルになっていったということだ(笑)。
『大人は判ってくれない』のアントワーヌは、斜に構えた不良少年ではあっても、むしろ「聡い」少年だったように記憶する。少なくとも、そんな「変な」子ではなかったような。
ところが、『アントワーヌとコレット』の時点で、すでにアントワーヌはかなり滑稽味の強い青年に成長している。でかすぎる背広を着て、背伸びをした感じで煙草を喫って、クラシックを聴いていて。
愛嬌はあるけれど、明らかに「痛い」青年だ。
それに、作中で彼がやっていることはかなりおかしくて、ほぼストーカーである。
演奏会で付け回して、無理やりデートに誘って、家の向かいに引っ越してきて、勝手に両親と仲良くなって、家に上がり込んで入り浸って……。俺なら100%警察に通報する。
とはいえ、レコード会社に勤めているというのは、職業選択としてはかなり普通だ。
『夜霧の恋人たち』になると、アントワーヌの「道化ぶり」はいや増しに増していく。
かるく発達気味に感じられるくらいの挙動で、明らかに「どこかおかしい人」に見える。
もしかすると、エルンスト・ルビッチっぽいことだったり、ジャック・ドゥミっぽいことだったりを目指してるのかもしれないけど、それよりはどっちかっていうと、ミスター・ビーンみたいなアブノーマルさに傾いているような。
職歴においても、兵役から追い出され、夜勤の職も追われ、ついには「私立探偵」に。
リアリティからだんだん乖離して、「空想的」「物語的」な職業へとジョブチェンジしていく。
しかも『アントワーヌとコレット』の頃は、変は変なりにまだ一途だったので許せる部分があったが、今回はステディがいるのに人妻と不倫して、しかもその関係から逃げるようにステディと結ばれる。とんだろくでなしだ。僕の道徳観からするとかなり理不尽だが、トリュフォー本人が生涯を通じてそういう人で、そんな自分を思い切り自己投影したうえで、思い切り自己肯定的に描いているのだから、まあ致し方ない。
『家庭』になると、アントワーヌの存在そのものが、ある種のギャグに近づいていく。
やっている仕事はなんと「花の色付け師」。
で、中盤ジョブチェンジしたら、今度は「誰も観ていない庭で一日模型船を運転する仕事」。もはや、なにがなんだかよくわからない(笑)。
そして、結婚してもやはり浮気。どうしようもない男だ。でもトリュフォーの眼差しは相変わらず温かい。
『逃げ去る恋』は、半分総集編のような内容だが、アントワーヌは一応「作家」に転身している。ある意味、「空想的な職業」の最果てにたどり着いた感があるが、一方で日銭は印刷工として稼いでおり、『アントワーヌとコレット』の時代(レコード会社社員)に原点回帰した感がある。
付き合う新恋人もレコード店の店員だし、コレットも再登場して三人のヒロインの一角を占めるし、「得体の知れない日本人」と浮気をしていた『家庭』よりは、格段に地に足がついた内容だ。
回顧的にシリーズを俯瞰して、アントワーヌという男を再検証していくなかで、ファルスに「逃げていた」彼の立ち位置を、もう一度「現実」へと立ち返らせようとのトリュフォーの意図が仄見える。
結局、ドワネル・シリーズには、「トリュフォーの分身」としての部分と、「ジャン=ピエール・レオの自画像」としての部分が混淆していて、トリュフォーとしても年を追うごとに「やりづらく」なっていった部分はあるのではないか。
遠い子供時代や青春時代の自分を振り返って、ジャン=ピエール・レオに重ねていた初期の仕事なら、ストレートに自らを投影してもまだ平気でいられたのだろう。
だが、いい年こいたオッサンのジャン=ピエール・レオに自分を重ねるとなると、なんだか「むずがゆい」というか、「おもはゆい」というか、「こっぱずかしい」というか、とにかく含羞に響く部分があったはずだ。
だからトリュフォーは、アントワーヌからリアルを剥奪し、敢えてカリカチュアライズしてみせたのだ。
斜に構えた笑いの糖衣をまぶして、おのれの気恥ずかしさを誤魔化したのだ。
出来栄えでいうと、『夜霧の恋人たち』(そういや、夜霧のシーンなんかあったっけ??)は、『家庭』よりは楽しく観られるが、『逃げ去る恋』ほどの技巧性は感じないし、『アントワーヌとコレット』ほどのみずみずしさもない。
なにより、前半と後半とでテイストが変わりすぎるうえに、探偵稼業に入ってからの間延び感がひどい。ギャグも面白いんだか面白くないんだかよくわからないテイストで、本当に笑ったのは先輩探偵が思いがけないタイミングで頓死するくだりくらいか。ラストのストーカー男の宣言と退場も、正直僕には意味がよくわからなかった。
なんにせよ、これだけ無能な青年なのに、クリスティーヌの両親は彼に甘々だし(前作のコレットの両親もそうだった)、クリスティーヌも優しいし、探偵社の同僚もやたら寛大だし、アントワーヌはどこまでも「愛されキャラ」だ。これってやっぱり、トリュフォーの願望充足なのかな? しょうじき、ちょっと気持ちが悪い。
ただ、後半の潜入捜査でアントワーヌが恋に落ちる相手のおばさんが、デルフィーヌ・セリグだというのは見逃せない。僕にとって、デルフィーヌ・セリグは『去年マリエンバードで』のAではなくて、『赤い唇』のエリザベート伯爵夫人なのだ。年上なのにか弱く、でも賢く、男好きのする魔性の女。ほんと、いい女優さんをあてがったものだ。
あと、アントワーヌが夫人に手紙を書いて送る「気送便」。
おおおお、『未来世紀ブラジル』で出てきたあれって、「SF」じゃなくて、普通にパリで実際に実用化されてたシステムだったんだな! なんかサンダーバードかピタゴラスイッチみたいで超カッコいい。
『アントワーヌとコレット』のレコードプレス機といい、『逃げ去る恋』の印刷機といい、『家庭』のミニチュアラジコン船といい、トリュフォーって、唐突に「メカ」の描写を入れてくるの好きだよね。
最後に。
本作の冒頭には、なんだかとても曰くありげに、閉館したシャイヨ宮のシネマテークの入り口が出てくる。
その後、映画内では結局、この建物についてはふれられることなく話が終わってしまい、あれってなんだったんだろうなと思うわけだが、トリュフォーが本作を撮っていたとき、ちょうど起きていたのがシネマテーク・フランソワーズからのアンリ・ラングロワ追放事件だった。
トリュフォーにとってラングロワは、若い頃にただで浴びるほど映画を観させてくれた大恩人であり、彼はラングロワを復権させるために、闘士として八面六臂の大活躍を見せる。
結果として、ラングロワはシネマテークに復帰を果たし、再びシャイヨ宮の映写ホールは再び開館する運びとなった。そこでプレミア上映されたのが、この『夜霧の恋人たち』なのだ。
実際、本作は「アンリ・ラングロワとシネマテーク・フランソワーズ」に捧げられている。
上映に臨席したラングロワは挨拶に立って、「次はこの恋人たちを結婚させるべきだ」と言ったらしい。そして、それに応えるためにトリュフォーは、次の『家庭』を撮ることになる……。