劇場公開日 2024年3月22日

「西部劇の「けれん」を抽出し純化してみせた、映画史上もっとも「かっこいい」ウエスタン。」夕陽のガンマン じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5西部劇の「けれん」を抽出し純化してみせた、映画史上もっとも「かっこいい」ウエスタン。

2024年11月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

あれだけ、セルジオ・レオーネが好きだと公言し、
「ベスト1」に『続・夕陽のガンマン』を挙げ、
ヴィデオでは何度も観直してきたドル三部作だが、
映画館では残念ながら、観たことがなかった。
そりゃそうだ、やらなかったんだから。

これだけ面白い映画をなんで小屋でやらないんだと、
30年間ぼやきつづけていたら、
春ごろにまさかのロードショー公開。
行く気満々で備えていたものの、
あの時期はちょうど、仕事が地獄の忙しさ。
結局、足を運ぶことができなかった。
どうせ名画座でかかるだろうとたかをくくっていたら、
意外にふっつり上映館が途絶え、行きそびれてしまった。

と思っていたら、早稲田松竹で三連休に三本立てをやるというではないか。
これは行かずばなるまい、と張り切ってみたものの、
2日は休日なのに一日中仕事をせざるを得ず、
3日は石川県七尾で海門寺千手の御開帳があって、日帰りで行ってくるしかなかった。
4日も朝から仕事が終わらず、結局『夕陽のガンマン』と『続・夕陽のガンマン』だけ観ることが出来た次第。

いやあ、大画面で観るセルジオ・レオーネは、やっぱりこたえられんね!!!
ほんっと、最高でした!!!

― ― ―

僕がレオーネ映画と出会ったのは、大学生のときだった。
あの頃はホラー、サスペンス、文芸映画を中心に、中身もわからないまま手あたり次第に借りてみては、感想をつける毎日だった。
ホラーとサスペンスはそれぞれ、1920年代から2000年まで200作くらいのベスト作品年表を先に作って、体系立てて観ていたが(本格ミステリの読書でも同じことをしていた)、それ以外の映画については、ぴあの全ヴィデオカタログの最後のページに、監督毎のリストがついていて、それを手帖にメモって順繰りに観ていたのを覚えている。

そんななか、あまり期待もせずに予備知識なしに出逢ったレオーネのドル三部作は、まさに衝撃的な面白さだった。
『荒野の用心棒』で度肝を抜かれ、
『夕陽のガンマン』で余りの面白さに驚倒し、
『続・夕陽のガンマン』で完全にノックアウトされた。
その後、僕は人生を通じて4000本だか5000本だかくらいの映画は観てきたはずだが、『続・夕陽のガンマン』を超える映画に出逢ったことは未だない。

もちろん、面白い面白くないだけでいえば、最近の映画のほうが情報量もアクションの派手さも上かもしれないし、純粋な娯楽作品としては、今の若者には古く感じられる部分もあるかもしれない。
それでもやはり、「画格の高さ」「娯楽としての面白さ」「キャラクターの強度」「音楽のキャッチーさ」の4点セットで考えたとき、いまでもセルジオ・レオーネのドル三部作はダントツで図抜けた映画群だと思うし、誰に薦めても恥じるところのない圧倒的な傑作だと信じてやまない。

― ― ― ―

『夕陽のガンマン』は、『続・夕陽のガンマン』と比べて「劣る」映画かというと、断じてそんなことはない。
ただ、レオーネのドル三部作というのは、「発展していく」三部作である。
『荒野の用心棒』の時点からゆるぎない完成度を示しつつも、
「1対1」 →「1対2」 → 「1対1対1」
と、共闘関係が複雑化し、ストーリーラインも複層化してゆく。

最もシンプルな作りで、アイディアも黒澤から頂きの『荒野の用心棒』。
敵をめぐる2人の賞金稼ぎの裏の読み合いが楽しい『夕陽のガンマン』。
20万ドルの金貨をめぐって3人がしのぎ合う『続・夕陽のガンマン』。
どの作品も抜群に面白いは面白いけど、「構造」「スケール」「長さ」「予算規模」すべての面で「後にいくほどアップグレード」していくので、どれか一本を選べということになると、どうしても『続・夕陽のガンマン』を挙げざるを得ない。

とはいえ、『夕陽のガンマン』だって捨てたものではない。
捨てたものではないどころか、世にゴマンとあふれる娯楽映画のなかで、『夕陽のガンマン』を超える作品がいったい何本あるというのか。

タイトルロールの主題曲と踊るタイポグラフィー。
モーティマー大佐のケレン味あふれる登場シーン。
モーティマー大佐とモンコのしびれる賞金首狩り。
両雄の帽子トバシ合いと共闘決定までの探り合い。
クソ悪そうなインディオの脱獄と残虐な振る舞い。
潜入工作のスリルと裏をかかれる銀行強盗大作戦。
時計をめぐるモーティマーとインディオの因縁話。
リンチから最終決戦まで続く息つく間もない展開。

改めて劇場の大画面と大音響で観てると、ほんっと上がるよね。

― ― ― ―

『夕陽のガンマン』で重要なのは、「けれん」だ。

たとえば、モーティマー大佐の組み立て銃。
敵が目の前にいるのに、そこでおもむろに組み立て出すのは、間違いなくそのほうが「かっこいい」からだ。独特のホルスターの位置もそう。
徹底した、帽子撃ちやノールック撃ちといった「曲撃ち」もそう。

リアリティより、「けれん」「かっこよさ」「あざとさ」を優先し、それを「完成された型」として磨き上げる。西部劇という枠組みのなかで、「ストーリー」以上に、「キャラ立て」と「けれんのギミック」のほうに全力を注ぎ、その「かっこよさ」を極めようとする。

この姿勢は、もちろんアメリカに従来からある西部劇に由来するものではあるが、レオーネほどにそれを突き詰めて追求した監督は過去にいなかった。それは確かだ。
セルジオ・レオーネは、西部劇という娯楽ジャンルが持つ「かっこよさ」の本質を抽出し、煮詰めて、とことんまで純化させようとした。「何をやるからガンマンはかっこいいのか」を徹底的に研究し尽くした。

要するに、レオーネはアメリカ土着の西部劇の構造を「分析」し、その「かっこよさ」に全振りする形で「様式化」してみせた。
それはちょうど、西部劇の定型的な演出のなかから、歌舞伎における「型」や「見栄」や「にらみ」、オペラの「見せ場」に相当するような「キメの極意」を抽出する作業ともいえる。
ちょうど日本の戦後期のミステリ作家たち(横溝正史・高木彬光・鮎川哲也)が、欧米の本格ミステリを模倣する過程で、その要素を純化させて「どぶろくを蒸留酒へと精製」してみせたように、イタリアのレオーネは、アメリカの西部劇を模倣するなかで、その娯楽的な本質を純化させてみせた。

その結果生み出されたのが、キャラクターごとに際立つ漫画チックな個性と、人間離れしたガン・テクニックおよび曲芸撃ち、極端なズームと引き延ばされた間を用いたガン・ファイトのモンタージュ、とことんあざとくてキャッチーなモリコーネ・ミュージック……といった、レオーネ特有の「脳をゆすぶるようなかっこよさの演出」の数々である。

レオーネの西部劇が、なぜにこんなにもかっこいいのか。
それは、西部劇の「けれん」を、「型」として抽出することに成功しているからだ。

― ― ― ―

『夕陽のガンマン』は、気楽な娯楽作品に見せかけて、いろいろと考え抜かれた作りをしている。

たとえば、モンコとモーティマー大佐の対比。
銃が違う。ホルスターの位置が違う。
恰好が違う(ポンチョとネクタイ)。
帽子が違う。毛量が違う。
肩書きが違う(「名無し」と大佐。綽名と本名)。
垂れ目と吊り目。あごひげと口ひげ。
そして、アイコンとしてのシガーとパイプ。
すべてが極端なまでに対比的であり、
だからこそ観客は二人を
「相並び立つ両雄」として認識できる。

語り口(あるいは語らない度合い)も絶妙だ。
たとえば、なぜクリント・イーストウッドは「モンコ」なのか。実はこれって「片腕」という意味合いの綽名なのだが、それは彼が「撃つ時」以外かたくなに利き腕の右手を使おうとしないからだ。だが、そのことについて映画内で殊更の言及はない。やたらクセのあるマッチの付け方やカードの配り方にひっかかった勘の良い観客だけが気づけるくらいの「ギミック」として機能している。
あるいは、なぜ賞金首を倒したモンコは、保安官に対して「勇気よりも正直さが大切だ」と説くのか。それは、保安官に誘導された酒場で敵の仲間に「待ち伏せ」されていたからだ。でも、それを台詞ではいわせずに、ちゃんと客に考えさせるように作ってある。
その他、本作には「客が自分で考えないと理由のわからない行動や結果」があちこちに潜ませてある。単なる娯楽映画のように見えて、実のところ「ちゃんとしたまっとうな映画」を志向した映画でもあるのだ。

さらに、イタリア映画らしい複層的な「含意」がこめられている可能性もある。
たとえば、脱獄したインディオがアジトにしているのが屋根の抜けた教会であることには、一定の宗教的な意味合いも見いだせそうな気がする。部下は14人で「12使徒」よりは少し多いが、密告者との決闘がまさにここ(教会内)で行われるのは、宗教裁判のようなものだ。
さらには、「使徒」にひとり「裏切者=ユダ=モンコ」が交じる展開や、最初から「教祖=インディオ」が「ユダが裏切ることは知っていた」と主張する点なども、聖書をなぞっている可能性がある。思い出してほしい。映画のしょっぱなにモーティマーは何を読んでいたか?(聖書だ) 向かいの乗客に何と間違われたか?(牧師だ) 潜入作戦を考えたのは誰だったか?(モーティマーだ)
リンチを受けるモンコとモーティマーを、インディオと仲間たちが笑って笑って笑いまくる印象的なシーン。あれも、「嘲笑されるキリスト」の主題が色濃く影を落としている可能性は十分あるだろう。なんならヒエロニムス・ボスの同主題絵画と見比べてみるといい。レオーネが画づくりと主題の多くを泰西名画からインスパイアされていることを物語る好例だ。

他にも『夕陽のガンマン』には、注目すべき点がいくつもある。

●モーティマー大佐がインディオの賞金首ポスターを見つけたときの、目の表情とモンタージュ。ほぼこの作品のテーマのすべてが、ここに込められているといっても過言ではない。

●撃ち合いやせめぎ合いのシーンでは毎回、第三者の「見物人」がいて、彼等の目線や表情で状況を雄弁に「解説」している点も見逃せない。
モーティマーvs最初の賞金首での酒場のオヤジ。
モンコvs最初の賞金首でのカードプレイヤー。
インディオが密告者を処刑するシーンの部下たち。
モンコvsモーティマーの帽子の撃ち合いでの三人の子どもたち。
クラウス・キンスキーをモーティマーが挑発するシーンでの、背後のモンコ。
金庫強奪シーンにおける、目撃者としてのモンコとモーティマー。
そして、ラストの対決における、介添え人としてのモンコ。
ね、必ず「決闘」に「観客」がいて、きょろきょろしてるでしょ?(笑)

●あれだけ騙し合っていたモーティマーとモンコが、最終決戦の前に交わす言葉。
「インディオは俺にまかせろ」「わかった」
あれだけ金に執着してやり合っていたはずのモーティマーが放つ最後の台詞。
うううん、いいねえ。かっこよすぎる。
金と欲まみれの物語を、家族と復讐の物語へと一変させる、憎い演出だ。

その他、クラウス・キンスキーの怪演や、その他の仲間たちの異様な面相、ジャン・マリア・ヴォロンテのマリファナ中毒を念頭に置いた名演技なども見逃せない。
敵一派に関しては文句がないこともなくて、特に最後の「ふたりを逃がす」というインディオの選択は余りにリスキーすぎる上に、ふたりに有利すぎるし(若干作り手の都合でそうさせている感がある)、「俺とお前とでなら戦える」と言って残した部下が弱すぎるのもひっかかる(笑)。
まあ、「結局あのお金はどうなった??」「ふたり残ったうちのもう一人はどうした??」という観客側の疑問を、上手く最後のサスペンスにつなげてはいるんだけどね。

あとはなんといっても、エンニオ・モリコーネの音楽。
これについては昔、ジュゼッペ・トルナトーレのドキュメンタリー映画『モリコーネ』の感想で詳細に記したので繰り返さないが、やっぱりモリコーネあってのレオーネってのは、映画館で観るとさらに痛感せざるをえない。

未見の方にはぜひ観てほしい、世紀の傑作です。

じゃい
Mr.C.B.2さんのコメント
2024年11月6日

レオーネファンとして見事な素晴らしいレビューでした。

Mr.C.B.2