野性の少年のレビュー・感想・評価
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俳優トリュフォーがもたらす慈愛の深さ
ヌーヴェルバーグを代表する映画監督トリュフォーが遺したこの秀作は、とある森で見つかった野性の少年と医師との関係性の物語である。生まれて間もなくなんらかの事情で捨てられ、言葉はおろか愛すら知らぬまま成長してきたこの少年。彼と対峙して忍耐強く教育を施そうとする医師をトリュフォー自身が演じているのだが、冷静でありながら慈愛に満ちた存在がなんとも胸をうつ。この演技に感銘を受けたスピルバーグが「未知との遭遇」にぜひ出演してほしいとオファーを出したのは有名な話。トリュフォーも「演技をするのではなく、私このままの状態でいいのであれば」という条件付きで承諾したという。どちらもコミュニケーションに関する物語であり、いかにして両者が関係性を築き上げるかにおいて、俳優トリュフォーは鍵であり、核であり、作品の精神ともいうべき存在感をなしている。52歳の若さで亡くなったトリュフォー。今年の10月で没後37年となる。
野生児は判ってくれない
人間社会から隔絶され、自然の中で育った少年を人間として教育するトリュフォーの人間味溢れるドラマです。人語を解すどころか五感の発達状態からして野生動物に近い少年が、言語だけでなく感情や正誤の概念まで理解していくのは感動的で、そこには動物では持ち得ない人間の魂の根源があるように感じます。トリュフォー演じる学者は、慈愛溢れる教師である反面、研究熱心な余り行き過ぎな点もあるのは、ちょっと残念。野生児役のジャン=ピエール・カルゴルは、異様なほどのはまりっぷりで、役者としてのトリュフォーもいい感じでした。
ロマの少年とトリュフォー自身のW主演で贈る、「アンドレ・バザン」継承のためのイニシエーション
なんか、思っていた以上に面白かったな。
てか、今まで観たトリュフォーのなかでも、間違いなく上位に位置する満足度だったかも。
題材だけからいえば、僕が自分から観に行くことなど、ほぼないような話だ。
トリュフォーが撮っていて、かつ今回の特集上映にのったから、ようやく観てみる気になった次第。
でも実際に観ると、ふつうに充実した、いい映画だった。
難しい題材をうまくまとめていて、感心する。
「アヴェロンの野生児」をテーマにした映画といえば、昨年くらいにジャック・ケッチャム原案の『ダーリン』をヒューマントラストシネマで観たのが、記憶に新しい。
あれは一応ホラーだったのでオチがわかりやすかったけど、一般に「野生児の養育」を主題にとるとなると、ちょっと「奇跡の人」みたいなベタっとした人間ドラマを志向しがちだし、野生の馴化と文明化を是とする素朴な進歩主義にどうしても陥りがちだ。
だが、本作は違った。
ここで描かれているのは確かに、「森でひとり育ったせいで動物のようになってしまった少年が、医師の教育を受けて文明化し、人間性を取り戻す」話ではあるのだが、かといって、決して「特異」で「奇跡的」な事例を扱った物語というわけではない。
ケレンのきいた物語性やスキャンダリズムからは、むしろ遠いところにある。
これは、もっと「普遍的な」映画だ。
イタール医師自身が、どこまでヴィクトール少年の問題を後天的な環境要因が引き起こしていると考えていたかは定かではないが、今の感覚でいうと、「もともと重度の自閉スペクトラム障害で、中度の遅滞があって、軽度のADHDを併せ持つ」発達児童で、「きわめて劣悪な環境下で育ったゆえに社会化が全くなされていない」少年を、誠実な研究者が預かったうえで、不撓不屈の精神で自宅加療していく過程を、誇張を抑えて淡々と描いているといった感じか。
作中でも示唆されているとおり、おそらく少年はもともとある程度、生得的に遅れがあったから、首を斬られた状態で森に遺棄された可能性が高いと、僕も思う。
だから、専門家が療育したからといって、少年が「劇的に」文明化するわけではない。
この映画のカタルシスはそこにはない。
でも、十分に感動的だ。
どんなに遅滞や障害のある子供でも、愛情と忍耐をもって全身全霊で養育すれば、ずいぶんなところまでQOL(生活の質)を上げていけることが、実例としてしっかり伝わってくるから。
抱えている問題が生まれつきか後発的かという次元を超えて、彼らだって、生来の可能性と豊かさと気高さを併せもった「人間」なのだということを、体感的に教えてくれるから。
パンフのトリュフォー自身による解説によれば、ヴィクトールは結局しゃべれるようにはならなかったらしい。それでも、この物語の後、イタール医師の手を離れてからも、彼は作中に登場するゲラン夫人の手でずっと育てられ、40歳くらいで没するまで静かな生活を送ったという。
おお、良い話じゃないか。
今の感覚で振り返ると、課されている訓練の中にはちょっとそれはないだろうみたいなのも多々あるし、課題成功のご褒美が「水」ってのもちょっと安上がりすぎだろうって気がするし、読まない子音があるフランス語の綴り(牛乳の「レ」で「Lait」の4文字もある)をいきなり教え込ませようとするのもさすがに無理ゲーなんじゃないかと思う。
とはいえ、「アヴェロンの野生児」が捕らえられた1798年時点での、ろうあ者や障害児に対する療育を、今の基準で裁いても無意味であり、むしろ、こういう親身になって療育にあたってくれた先生が19世紀初頭の時点で存在したからこそ、いまの福祉制度への道が開けたと感謝すべきだろう(日本でいえば、寛政の改革とかやってるころの話ですからね)。
同様に、野生児役の子役を探してたら、路上で見かけたジプシー(ロマ)にちょうど良い子がいましたってスカウトの経緯も、今のポリコレ感覚からするとおいおい大丈夫かいなって話だが、これとていまさら事後法で裁くようなことではない。
出演者に関していえば、ロマの少年を抜擢した話以上に、療育するイタール医師役をトリュフォー自身が嬉々として演じているほうが衝撃的かも。
カメオ出演を除けばこれが実質的な本格的俳優デビュー作であるにもかかわらず、ふつうに巧いし、ふつうに雰囲気がある。さすがは何時間も、俳優と差しで演技指導をやっているだけのことはある。「甲高くて早口」と言われる自らの口調をそのまま生かし、少年を愛しながらも研究対象として自らを律して理屈と分析に生きる医師をリアルに演じている(この先生自身も、今の視点で見るとだいぶアスペっぽいよね……)。これで味をしめたのか、このあとトリュフォーは自らの監督作『アメリカの夜』や『緑色の部屋』でも、メインキャストとして出演することになる。
トリュフォー自身は、この映画について、「『大人は判ってくれない』に対する10年後の回答とも言える作品」と述べ、「どちらも人間として成長するために最も大事な何かを奪われた少年の物語ですが、『野性の少年』では愛と教育によってそれを充たしてやろうとする試みです」「この医師の役は、結局は映画監督と同じであって、俳優の演じる役ではないと確信するに至ったのです」と語っている。
トリュフォー作品の中核を成すのはあくまで「女性礼賛」映画だと僕は思うが、その一方で、彼は「子供が主役を張る」秀作も何本か撮っている。
彼が少年を映画で描くのは、何度も感化院送りを食らった「悪童」だった自分を投影し、回顧し、分析し、何某かの解答を得たいという思いがあるからだろうが、一連の「子供映画」のなかでも、わざわざ自分で出演してみせたのは、この『野性の少年』だけである。
彼は「奪われた少年」である野生児ヴィクトールに自分の過去を投影しながらも、同時にイタール医師のなかに、親代わりになって自分を救ってくれた「カイエ・デュ・シネマ」編集長アンドレ・バザンの姿を見出していたにちがいない。
トリュフォーは、自分がバザンに救ってもらい、愛情を惜しみなく与えてもらったように、「奪われた少年」の擬似的な父親として、彼にもまた同様に限りない愛情と養育を「自分で」与えたかったのだ。
自分がやってもらった恩義を、フィクションのなかであっても、次の世代に向けて「自分でお返し」する。
それがおそらく、この映画の本義だ。
僕は、トリュフォーが監督権限を発動してでも自分でこの役をやろうとしたのは、まさに本作が、「父性継承の通過儀礼(イニシエーション)」として「彼にとっても必要な」作品だったからだと思っている。
トリュフォーの告白映画
「トリュフォーの思春期」を観れば、子供たちに注ぐ作家の視点がいかに愛情深く無垢であるか分かるだろう。デビュー作「大人は判ってくれない」でも、人形劇に夢中な子供たちのシーンが素晴らしかった。そんなトリュフォー監督の自作自演の「野性の少年」は地味な存在で、あまり話題にならない。自身の恵まれなかった子供時代への回顧と後悔、また幼少期に捧げる大人の責任など、”アヴェロンの野生児”を題材にその葛藤を自己表現している。トリュフォー監督の物静かな願いが込められ、18世紀末の時代色を出したモノクロ映像が普遍的なテーマとして浮かび上がる。アーサー・ペンの「奇跡の人」と併せて鑑賞したい映画。
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