劇場公開日 1995年10月28日

「「黙秘権」が保障される理由」黙秘 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0「黙秘権」が保障される理由

2024年6月4日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

「黙秘」というのは、ある意味、被疑者にとっては有力なの武器なのだろうと思いました。本作を観終わって。評論子は。

刑事手続では、被疑者は「推定無罪」であるはずです。
法律としては、捜査機関には、その推定を覆すだけの捜査能力(人員、組織、権限)が与えられている訳ですから、被疑者の供述が得られなくても(被疑者が黙秘していても)、被疑者の有罪を立証できるだけの証拠を集めてくることができるはずだ、という組み立てです。

検察官によるダブルチェック(の建前)を経て起訴されて、初めて被疑者は「被告人」となり、裁判所(裁判官)による審理というトリプルチェックを経て、ようやく有罪とされる。

被疑者自身の供述=自白も証拠の一つにはなるけれども、それだけで有罪としてはいけないということは、後記のとおり、憲法にもはっきりと書かれている。被疑者が真犯人であれ、冤罪被害者であれ、そのどちらであっても(以下に引用している憲法の条文も、その両者を区別していない)。

信賞必罰という言い回しがあるように、「機会(手続)の適正」よりも(日本のように)「結果の適正」がより強く求められる国に住んでいると、上記のような考え方には違和感があるかも知れませんけれども。
しかし、神ならぬ人間は、必ずしも「結果の適正」に立ち至ることができないことを素直に受け止めて、「機会(手続)の適正」で、より「結果の適正」を確保しようとしていた人権の歴史を忘れるべきでもないと、評論子は思います。

翻って、実際の刑事手続の現場では、どうなのでしょうか。
捜査機関から嫌疑をかけられると(捜査機関は、当然、自分が欲しい証拠=被疑者の有罪に結びつく証拠しか集めてこないでしょうから)、その捜査機関による「作文」を覆すのが容易でないことは、たやすく想像がつきそうです。

捜査機関の、その「予断」、「思い込み」に対抗する手段として、法が被疑者に許したのが、本作の邦題にもなっている「黙秘」(黙秘権)なのだろう、というのが、本作を観終わっての、評論子の率直な印象であり、おそらくは、それが本作の「メインテーマ」でもあったのだろうとも思います。

DV夫の不慮の死について、ドロレスが、仮に限りなく「クロ」であったとしても、「黙秘」で乗り切った彼女を、警察は、けっきょくは「嫌疑不十分」としなければならなかった訳ですから。

事件として捜査機関から検察官に送致されてしまえば、あとは「流れ作業」ということで、世上、ダブルチェック・トリプルチェックは充分には機能していないとも言われていますが、本作の邦題にもなっている「黙秘」には、そのダブルチェック・トリプルチェックを少しでも働かせようとする被疑者・被告人の側でのささやかな…しかし、被疑者・被告人の精いっぱいの「レジスタンス」という意味合いがあり、そこに被疑者・刑事被告人に黙秘する権利を保障する「真価」があることを、本作は静かに、しかし明確に訴えているといえると思います。

日本国憲法38条1項・3項
何人(なんぴと)も、自己に不利益な供述を強要されない。
何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

本作を観終わると、憲法が、なぜ当該の条文を置いて、このような権利を国民に保障したのか、その「こころ」が見えてくると思います。
「cinema de 憲法」・「cinema de 刑事訴訟法」といった視点からも秀逸というべきでしょう。

秀作であったと思います。
評論子は。

(追記)
本作は、別作品『ザリガニの鳴くところ』で、タダ者でない弁護士を演じていたデビッド・ストラザーンの出演作品ということで、観賞することにした一本でした。

本作中の彼も、真犯人の訴追という、自分の警察官としての社会的な役割を真に理解して、その職責を忠実に果たそうとする老警察官を、見事に演じていたと思います。
その点でも、好印象の一本でした。

(追記)
滅多には起こらない自然現象に、多くの観光客を受け入れた小さな島は、異様な熱気に包まれるのですけれども。
その熱気の陰で、お屋敷の女主人ヴェラの暗黙の了解の下、着々と計画を進めるドロレス。その緊迫感が半端なく、どんどん画面に吸い寄せられました。サスペンスもの(娯楽作)としても、一流の出来栄えというべきでしょう。

加えて、本作では、ドロレスを演じた、キャシー・ベイツの演技も圧巻でした。真剣に思いつめたときの彼女の目つきが、評論子には忘れられません。
その点も、評論子としては、本作への加点要素のひとつであると思います。

talkie