「想像させるための省略」民衆の敵(1931) ゼリグさんの映画レビュー(感想・評価)
想像させるための省略
1931年のバイオレンス映画である。
同年代にも同じような映画は作られていたが、ほぼほぼ今日まで続く「ギャング映画」の元祖といっていいだろう。
ストーリーは単純そのもの。
生まれついてのワルだった男が成り上がり、やがて自滅するだけの話である。
主人公が悪人である以上、最後は死ぬしかない。
お決まりのパターンだ。
だが、僕が本作で気に入っている部分は、その撮り方にある。
まず、盗みに失敗し警官を撃つシーンだ。
主人公たちが影から銃だけを出して撃つショット、そして逃げ出すショット、最後に、暗闇の中で倒れている警官の手に持たれた銃のショットという、省略する事による、あっけなくも印象に残るショットで構成されている。
この演出により、警官殺しという「取り返しのつかない事をしてしまった」シーンであることを強調している。
成長し、ギャングのボスに雇われた主人公。
だが、ボスは乗馬をしていた際、誤って落馬してしまい、運悪く馬に頭を蹴られ、あっけなく死んでしまう。
なぜ「あっけない」かというと、撮られてすらいないからである。ただ口で説明されるだけだ。
主人公は怒りに任せ乗馬クラブへ乗り込むのだが、このシーンが凄い。
クラブの経営者へ「ボスを殺した馬はどれだ」と問いただし、その馬をその場で高額で買い取り、画面奥の馬がいる場所に向かう(画面から消える)。
やがて銃声が響き、銃を持って戻ってくる。
これをカメラを固定したまま、ワンカットで撮っている。
並みの映画なら、馬と主人公のカットバックぐらいはありそうなものだが、そんなシーンは一切撮られておらず、無駄なカメラの動きなど一切ない。
自分を裏切った昔の雇い主と再会し、報復をするシーン。
雇い主は狼狽し助けを求め、場を和まそうと自分の部屋のピアノを弾く。
その背後で銃を抜く主人公。
そしてカメラはそのまま部屋の出口にいる主人公の相棒を映す。
すると、カメラの外から銃声と呻き声と不協和音のピアノの音色が響き、主人公が部屋の出口に戻ってきて帰っていく。
これをワンカットで撮っている。事件は常に持続した時間の中で起きている。
またしても無駄なカットは一切撮られていない。
殺害される瞬間は、馬の時と同様、見る側の想像に委ねている。
これは当時の映像倫理の問題では無いだろう。
実際、街中で撃たれて倒れる人物のショットはあるのだから。
僕がいちばん度肝を抜かれたのは、相棒を殺された主人公が、敵対するギャングのアジトに殴り込みをかけるシーンだ。
雨の中、敵のアジトである建物の外に立つ主人公を、カメラは捉えている。
そして、主人公は建物に入っていき、しばらくして無数の銃声が、外に鳴り響く。
やがて、腹を押さえながら主人公が外に出てきて、苦しそうに逃げ出す。
これをワンカットで撮っている。
これは驚いた。クライマックスすら省略している。
決して、予算が無いわけではないだろう。
街角のセットを盛大に爆破しているシーンもある。
普通は、大立ち回りをさせるような派手なシーンではないのか。
あえて、観る側に建物の中の凄惨な様子を想像させるための、大胆な省略をしている。
これはまるで、北野武監督の「ソナチネ」ではないか。
そんな撮り方を、1931年の時点でやっている事が凄い。
主人公の最期にしてもそうである。
病院で家族と和解する主人公。
だが次のシークエンスでは、主人公はすでに殺され、家の前に捨てられている。
この「重要人物の死」における省略の仕方、適当に近年の作品で例えるなら「ノーカントリー」におけるジョシュ・ブローリンの扱いに似ている。
誘拐されるシーンもなければ、拷問されるシーンもなく、もちろん運ばれてくるシーンもない。
ここでも、それら全てを省略する事により、唐突に訪れる死のあっけなさを描いている。
そして、そこに至るまでの凄惨な仕打ちを、観る側の想像に委ねることで、ギャングの世界に対する恐怖心を抱かせるのである。
省略されているのは、当時の倫理的な問題も、もしかしたらあったのかもしれない。
予算的な問題かもわからない。
だが、どちらにしろ、この「ズレた」撮り方。
結果として、それがこの作品の恐ろしさへと繋がっている事には変わりがない。
1930年代という時代。映画が産まれて30年余り。
この時点で、すでにギャング映画は「完成」されている。
恐ろしいほどの傑作である。