劇場公開日 1950年3月7日

緑色の髪の少年のレビュー・感想・評価

全3件を表示

5.0よつばと!

2024年2月22日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:VOD
ネタバレ! クリックして本文を読む
コメントする (0件)
共感した! 1件)
When I am 75♥️

3.5戦災孤児に対する世間の差別と里親の情愛を寓話仕立てで描く、社会派ロージーのデビュー作

2022年3月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

予備知識ゼロでシネマヴェーラで鑑賞した、ジョセフ・ロージーの監督デビュー作。
赤狩りでロージーがハリウッドを脱出する前に撮った数本のうちの一本である。

まさか期せずして、このウクライナ侵攻のさなかに、「戦災孤児」を寓話的に扱った「反戦映画」を観ることになるとは。
しかも、このあと続けて観たのが、オーソン・ウェルズの『謎のストレンジャー』。こちらは戦争犯罪人の話である。
どちらの映画にも、シーンの端々、セリフのそこかしこに、「今」ウクライナで起きている恐ろしい事態と直接繋がる、どきっとするような瞬間があって、ちょっと驚いた。
タイトルだけで前者はSF、後者はノワールと勝手に決めつけていたので、ここまでストレートに「反戦」と「差別」を描いた映画の二本立てになっているとは思っていなかったのだ。

まあ、こういう「偶然」は、思いのほかよく起きるものだ。いわゆるシンクロニシティっていうか、コインシデンスっていうか。シネマヴェーラのプログラム担当者は、ウクライナ侵攻がウィスコンシン・スクール特集の時期とぶつかって、自らのある種「予見」的な感覚に驚いていると思うが、きっとそれは時代が「呼び込んだ」ものでもあるのだろう。

それにしても、不思議な映画だ。
SFというよりは、寓話。あるいは「たとえ話」というべきか。
「妻が卵を産んだ」とか「犬の言葉がわかるようになった」とか、そういうたぐいのファンタジーが現実要素の中にひとつだけ加味され、そこに様々な「寓意」がかぶせられてゆくタイプの物語である。

お話は、マルコメくんにした少年が駅で確保されるところから始まる。
警察の聴取には黙秘を貫くが、警官が連れて来た児童心理学者のロバート・ライアンには心を開き、「自分がなぜ丸坊主で家出したのか」を語って聞かせる。
「とにかく長い話なんだ。そもそも僕が生まれたのは……」
「そこからなのか? そいつはたしかに長いな」
ふたりのやりとりは実にほほえましい。まあ、タイトルが「緑色の髪の少年」なわけだから、当然剃髪しているのは髪が緑色だからだというのは想像がつくのだが、語られる内容はかなり素っ頓狂だ。
少年ピーターは言う。幼い頃から親がおらず、「親戚」にたらい回しにされてきたこと、血のつながらない「グランパ」に引き取られたこと、学校に通い出して友達もできたこと。
ある日、両親がすでに亡くなっていて、自分が「戦災孤児」であると知ったこと。翌朝、起きてシャワーを浴びたらなぜかいきなり「髪が緑色になっていたこと」。
突如髪色が変化してしまった少年は、村の大人からは白い目を向けられ、子供たちからは攻撃的な仕打ちを受けるようになる。最初は守ってくれていたグランパも、やがて「髪を切る」ことを提案してきて・・・・・・。

寓意は、一応のところ分かりやすい。
作中で、戦災孤児たちの幻影が森の中で登場し、ピーターに向かって「緑の髪は戦災孤児の証だ」「平和の語り部となれ」とはっきり問いかけるからだ。
ただ、なんで戦災孤児だと髪色が変わるのか。しかもなぜ緑なのか。
なぜ何千万人といるであろう戦災孤児のうち、ピーターだけが髪が緑になったのか。
このあたりがよくわからないために、寓意としては「そうだというのなら、そうなんだろうな」といった感じで、いまひとつしっくりこない。
むしろ、これが「肌色の違い」や「人種差別」の組み換え/言い換え表現だというのなら、話は分かりやすいのだ。同じ「差別」をテーマに寓話的映画を撮るにしても、「一夜にして黒人に」とするよりはネタとしてよほど生々しくないし、話を普遍化、客体化しやすいからだ。白眼視する周囲の町民や迫害に近い攻撃性を示す子供たちの反応も、たとえばこれが「ユダヤ人」だとか「黒人」のたとえだとして観れば、頭にすっと入ってくる。
だが戦災孤児の証が緑の髪って言われても、「戦災孤児だからいじめられる話」と「髪色が違うからいじめられる話」をパラレルに受け止めるのはちょっと難しいし、そもそも戦災孤児だからという理由でそこまで差別されるものなのかってのも、もうひとつピンとこない(少なくとも「戦災孤児」は「髪色」や「人種」とちがって、「伝染の恐怖」とはつながりが薄いだろう)。
このへん、原作短編を脚色するさい、自分の思い入れのある「反戦」の部分に話を寄せ過ぎて、逆にバランスを逸してしまっているのかもしれない。

それでも、「他と変わったところのある個人」を怖れ、怪しみ、迫害する人間の性と、無垢な子供たちの間でこそ暴走するマイノリティに対する暴力性は、作中で非常に端的に描かれているし、「変わっていることを自分から声高にアピールする」活動家に対して大衆が感じる生来的な嫌悪感も、目を背けることなく活写している。
愛情豊かで善良な人たちもまた、その「モブ」の心理に少なからず影響を受けるということ、それでも、相手のあまりに悲惨な境遇に直面したときには、より融和的な方向へと舵を切る勇気も人の中にまた備わっていることも、きちんと描かれている。
この「異物を排除しようとする民衆心理」と「迫害される弱者・少数者に対する悪意と善意のせめぎ合い」というテーマは、おそらく次作の『暴力の街』でも、そのまま引き継がれているのだろう。

ただ、主人公が「子供」だというのは、本作の重要なポイントだと思う。
寓話としての枠組みを用意することで、本作は「子供を主人公とする気づきと成長の物語」でありつつも、同時に「子供に接することで成長する大人たちの物語」としても成立しているからだ。
作中では、大人と子供が横並びで座る構図が多用され、常に両者は対比され、お互いの行為に対する反応を示し合う。
面白いのは、たとえば冒頭でピーターがロバート・ライアン演じる児童心理学者に心を開き始めると、少年の動きは学者の動きとシンクロし、相手の姿勢やしぐさを模倣するようになるのだ。
これはまさに、後年デズモンド・モリスが『マン・ウォッチング』などで巷間に知らしめた現象であり、ロージーがこの共感による同調現象に自ら「気づいて」演出に取り入れていたということだ。
(ちなみに、この映画では、小道具で相手の職業をそれとなく示したり、ロウソクの本数で少年の年齢をさりげなく示したりと、セリフ以外で状況を説明する粋な演出が多数見受けられる。)

こうやって、子供を主人公に設定しておくと、身に降りかかった苦難にイノセントに立ち向かう様が共感を呼ぶし、子役次第でいくらでも観客を味方につけられる。声高に主張したり、こだわりの強い行動に固執しても、「でもまあ子供だから」で受け流せる。
同時に、回りの大人たちも、「子供だから」こそ少年の純粋な涙に真剣に打たれ、改心する余地が生ずるわけだ。
ある意味、「髪が緑になる」という、正直実害もなにもない「どうでもいい事象」と、「子供」という要素を組み合わせることで、本来なら「悲劇」で終わるしかない「異物」と「差別」の物語を、なんとかハッピーエンドへと導いているともいえるだろう。

「髪を切る」という行為は、相手の思想や信念を根こそぎ「刈り取る」行為であると同時に、相手の尊厳を踏みにじり、へし折り、奪い取る代替行為でもある。
僕は、理髪店で断髪式に及んで、さめざめと涙を流すピーターを観ながら、昨年観て真の衝撃を受けたカール・Th・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を想起していた。
40年代にはすでに幻のフィルムであったろうから、ジョセフ・ロージーはあの映画を観ていないだろうと思われるが、「髪切り」のもつ含意は両作に通底しているのではないか。

とにかく、子役のディーン・ストックウェルが達者だ。
当時、他の映画にも複数主演していた子役スターだったらしい。
基本ふてくされたような表情の多い映画だが、一瞬こぼれる笑顔もとても良い。
この子のおかげで、多少行ったり来たりしてとりとめのない感じの映画を、全幅の共感をもって観ることができた気がする。
グランパ役のパット・オブライエンの慈愛と明るさも、ともすれば陰気になりかねない映画を救っている。ちなみにどういう経緯で里親になったのかとか、その辺の経緯の説明はいっさい出てこないのだが、現役の有名な芸人(ピーターは「有名な役者」と言ってたけど、マジック&歌のボードビリアンだろうね)で、血のつながらない子供を全幅の愛情で育てているという老人の不思議なキャラクターは、この映画の寓話的な味わいをいや増しに高めている。

コメントする (0件)
共感した! 1件)
じゃい

4.0緑色の髪の意味

2018年10月2日
Androidアプリから投稿

緑色とは平和思想のメタファだ
自らが戦争孤児であることを認めた時、少年は髪が緑色に変わってしまう
本作製作は1949年、旧ソ連が初の核実験に成功した年なのだ
つまり人類は核兵器を応酬する戦争に初めて直面して恐怖した年
その前年は第一次中東戦争が勃発し、翌年の1950年には朝鮮戦争が起こる、いつ核戦争にエスカレートするかもしれない、そんな時代背景なのだ
森の中で出合う戦争孤児達の幻が列挙する五か国は国連安保理の常任理事国だ
商店で井戸端会議をする3人の婦人の意見は、当時の世間一般の戦争に備えるべきとの風潮を現している
少年の平和思想を大人達は否定し子供達まで、病気ではないのか?そんな考え方が拡大するのではないのか?と恐れ、緑色の髪を切ろうとするのだ
牛乳屋の親父は経済界、水道局員は政府の寓意だ
そして結局、彼の保護者たる老年の叔父も理解をしつつも髪を切らせる
髪を切ることは反思想を捨てろと言う意味だ
味方は、進歩的であるシンボルとしての若く美しい女性教師だけなのだ

結論として、切った髪はまた緑色で生えると少年に言わせている
つまり、それはなんらおかしい思想でもない
恥じることなく平和思想、反戦運動を広めていくべきだと高らかに歌い終わる
90マイルあるけれど、すぐ行けると楽しく歌うのだ

いい話だ、良くまとまって、寓意と少年の良い演技、監督の演出の上手さで政治の生臭さを感じさせず最後まで楽しく観せてくれる
当時の世の中に一石を投じた意義は高く評価すべきだ

しかし21世紀の今日から見ればどうか
なんと単純な、おとぎ話だと皮肉な視線を向けてしまうのだ
なぜなら、平和運動、反戦思想は当時の東側の国に乗っ取られ逆手に取って操られ、自国の軍拡に対抗する動きを潰す道具に使われてしまったのだ
その汚い手口を我々は散々見てしらけてしまっているからだ

現代から見れば、緑色の髪の少年もその犠牲者だったのかも知れない

コメントする (0件)
共感した! 1件)
あき240