「聞きしに勝る大傑作。グロテスクではあっても、これは正統なる「南部の悲劇」だ」マンディンゴ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
聞きしに勝る大傑作。グロテスクではあっても、これは正統なる「南部の悲劇」だ
想像以上に凄まじい映画だった。
僕は圧倒的な傑作だと思ったが、僕が観た回で、10分ごろと30分ごろに二人、途中退席者がいたのもまた事実だ。
どうやら「良識的」な方のなかには、これを「正視に堪えない」「吐き気がする」と捉える向きもあるようだ。
あるいは、抗議の退出、という可能性もあるかもしれない。
この映画にはたしかに、残虐な黒人差別を「糾弾」するというお題目のもと、それを「ダシ」にして、奴隷虐待のショッキングな映像やシチュエイションを見せつけようとの、露悪趣味、見世物趣味、ブラックスプロイテーション的な要素があるからだ。
奴隷農場(奴隷が使役される農場ではなく、奴隷を家畜として育成・販売する農場)が舞台の原作を、あのラウレンティスがプロデュースしたというだけで、見世物趣味で儲けようとの下心は見え見えだし、徹底的に冒頭からジェイムズ・メイスン演じる農場主をろくでなしに描くことで、製作者の「反差別」のスタンスをしらじらしく強調してくる様子も実にいやらしい。
すなわち本作には、黒人差別は間違っている、という内容を2時間みっちり観させて、黒人が獣のように扱われる残虐描写を「映画としてとことん享受」させることで、われわれ観客をも差別の共犯者へと引き落としてしまう、という宿命的な構造的陥穽がある。
それでも。
僕は、これがオールタイムベスト級の傑作だと心底から思う。
黒人差別の非道を容赦なく暴き出す、という部分の凄さについては、いろいろな方が書かれるだろうから、あえてここではふれない。
当時の女性差別、ジェンダー上の抑圧についてきっちり描かれていることについても、きっと語りたい人がいるだろうからお任せする。
僕が心底この映画に驚嘆したのは、これが「北部」のスタンスから、すなわち「人種差別&女性差別反対」の立場から、当時の南部を「悪」として描いた映画であるにもかかわらず、きわめてまっとうな「白人たちの悲劇」としても成立している点だ。
通例、この手の映画というのは、弱者への「同情」や、強者に対する「嫌悪・憎悪」で、作品が「ブレる」ものだ。思想性や告発性の強い映画は、その「想い」が作品の「質」を食いつぶし、劣化させる。大半のリベラルな社会派映画が、傲慢な「正義」の腐臭を放っているのはそのためだし、同様に近年のポリコレまみれの映画もまた、それこそ「吐き気がする」。
しかし、『マンディンゴ』は違う。
黒人を家畜として扱う非道な振る舞いをこれでもかと告発しながら、なお監督は、それを「日常」として映画にきちんと還元している。
黒人=家畜という異常な状況下で、白人たちは生き、黒人たちも生きている。
そのなかで、いやおうなく悲劇が起きる。その原因が「社会」にあったとしても、起きている悲劇それ自体は、きわめて個人的で、生々しく、人間くさい、オーセンティックな嫉妬と裏切りのドラマだ。
むしろ、北部からの影響で、安定状態にあった南部の秩序とルールにさざ波が立ったがゆえに起きた「白人(と黒人)の悲劇」を真正面から描いている、といってもいい。
すなわち、この映画は「キワモノ」で「見世物」で「反差別」で「社会派」でありながら、同時に、ギリシャ悲劇やシェイクスピアの正統につらなる人間の「悲劇」として、きちんと踏みとどまっているのだ。そこが本当に凄い。なにしろフライシャーは、19世紀のくるったアリゾナを舞台に、二重構造の『オセロ』を撮ろうとしているのだから。
たとえば、この映画は表面上、牧歌的な陽光と、のどかな南部の風景、陽気なカントリー・ミュージックを基調とする音楽で彩られている。もちろん、そこには「酔いどれ天使」的な「ギャップ」のおそろしさを演出する意図もあるのだろう。だが、それ以上に重要なのは、奴隷差別がこの時代の南部の住人にとって、「当たり前」の「日常」であり、善悪を超えた単なる「環境」だったということを、この「古き良き南部映画」のような映像と音楽は表現しているということだ。
『マンディンゴ』の世界は『風と共に去りぬ』の世界のアンチテーゼなのではない。
地続きなのだ。
登場する白人たちのやっていることは、現代的視点からすればたしかにめちゃくちゃだが、作り手は必ずしも彼らを高みから「断罪」しない。生まれ落ちたときから黒人が「家畜」として存在し、それを是として教えられて育った「普通の人々」として描いている。ただ生活している場所と手段が「奴隷農場」というだけだ。
なにせ、白人たちには悪の自覚すらない。
自分たちがこの映画で悪の側に立つ人間だとの認識がまるでないのだ。
一方、撮る側は、そのことにきわめて自覚的である。だから彼らを断罪しない。最終的に断罪されるべきは、彼らをそうふるまわせた社会のシステムそのものだからだ。
農場主のウォーレン・マクスウェルは極悪非道かもしれないが、子供想いの「一般的な牧場主」でもある。扱っている対象が「黒人」ではなく「馬」や「牛」の話に置き換えたなら、言ってもやってもおかしくないことしか彼がやっていないことに留意したい。「黒人奴隷=家畜」がルールの世界において、この男は殊更くるった悪漢では決してない。
息子ハモンドのキャラクターはさらに複雑だ。
現代的視点から観れば、彼は少しだけ「正義」寄りのキャラクターだ。父親や、輪をかけて頭のおかしい親戚のボンボンと比べれば、それなりに情もあるし、人間的な存在に見える(だからこそ壮絶なラストに震撼させられるのだが)。
だが、当時の観点から見れば、彼もある種の「南部によくいた白人の一典型」に過ぎない。
これが単なる「黒人なんかに優しくする変わり者」だというなら話はもっと簡単なのだが、当時であっても「黒人に融和的な南部白人」はいっぱいいたはずで、彼が殊更特別なわけではない。
父親ほど黒人に苛烈にはなれないものの、それは彼の優しさというより、弱さの発露というべきものだ。鶏や牛がヒトの言葉を話せば、情が湧いて厳しくはなかなかできないというのと、あまり変わらない。父親ほど「世間のルールに順応できていない」だけだ(その理由を周囲が「足の不具」に求めているらしい描写も出てくる)。
彼が黒人奴隷エレンを愛するのは、エレンが美しいからだ。ルッキズムといったらおしまいだが、僕だって美しい性奴がいればちやほやするだろう。それが人間の性だ。優しさではない。
彼が黒人奴隷ミードを厚遇するのも、ミードが強いからだ。その扱いはしょせん「犬」とそう変わりない。自慢の犬が相手の犬をかみ殺しても別段良心に痛痒は感じないが、犬が人間の奥さんを犯したとなれば、それはもう殺処分にするしかない。
実際、彼は黒人に対しては他の登場人物より融和的だが、一方で奥さんであるブランチの不倫に対しては、誰よりも頑なで容赦がなく非寛容だ。要するに、黒人は最初から下に見ているから優しくできる。奥さんはそうではないから許せない。舐められるわけにはいかないのだ。なぜなら彼は「ちゃんと歩けない」からだ(というのもまたひどい差別なんで、撤回します)。
まあ、彼らが処女・非処女にこだわるのは、19世紀であればむしろ当たり前で、イギリスが舞台のヒストリカル・ロマンスなど読んでいても「結婚前に処女を喪う→一生社交界からはつまはじき」で「成金の妾になるくらいしか生きる道がない」というくらい厳格な掟である(だからこそ救済手段としての駆け落ちの聖地グレトナ・グリーンが存在した)。まして、その相手が兄ともなれば、ピューリタンの末裔であるアメリカ人に許せるはずがない。
なんにせよ、ハモンドもまた「悪」の一部でしかない。彼の「優しさ」は、構造的な差別の一側面にすぎない。「いや、南部にだって黒人に優しい白人はいたんだよ」といって差別構造を温存しようとすることほどに質の悪い差別もない。
こうした「差別者のなかの善良さ」に加えて、フライシャーは、「善良そうな人物による黒人/女性差別」をもちゃんと描きこむ。
可愛い実娘ブランチの生んだ初子を、「黒いから」という理由で窒息死させる、優しそうな父親と母親の振る舞いには、本当に震撼させられる。
さらには、「同じ黒人のなかで、白人側にたって差別を助長する」存在にも目配せを怠らない。環境は白人同様、黒人をも蝕み、彼らは差別を支える大きな柱となっている。
「善の中の悪」を描き、「悪の中の善」を描く。
それは、良いピカレスクに共通する絶対条件だ。
同じことを、「殺し屋」が主役の映画や、「詐欺師」や「不良」や「悪党ども」が主役の映画、「戦争」が主題の映画でやるのは、そう難しいことではないだろう。でも、人種差別主義者やペドフィリアやトロフィーハンターを主役にして、それをやり切るのは、ずいぶんと難しいミッションのはずだ。
それを、フライシャー監督は腰を据え、やり抜いてみせた。
だから、この映画は凄い。
(いくつかのホロコースト映画で、ナチス側の「人間」を描き切った名作があるが、本作はそれに匹敵する。)
結果的にこの映画は、出てくる登場人物ではなく、時代と社会に存在した恐るべきシステムそれ自体が「悪」であったことを、真正面から告発する映画たりえている。
要するに本作では、なかで悪逆非道の限りを尽くす白人たちもまた、ある種の時代とシステムの「被害者」として規定されているのだ。
これに気づけば、冒頭から繰り返し「この時代に生まれてしまった」と悲しみと諦念を歌う主題歌の「主語」として、「黒人」だけではなく、「黒人と白人」双方が含まれることが理解できるだろう。
最後に、本作に特徴的なモチーフの「対比」のテクニックについて触れておきたい。
この映画には「黒人と白人の悲劇」を描くために、徹底して「たすき掛けの対比」ともいうべき「あべこべ」が仕掛けられている。
たとえば、お金を貸すほど成功しているマクスウェルの屋敷がぼろぼろで、中は薄暗い。
一方、お金を借りる側のブランチの実家の屋敷は、新築同然の美しさで、明るくきらびやかだ。
ハモンドは白人で支配者の側にいるが、足に障害を抱えている。
マンディンゴのミードは奴隷の立場だが、頑健で壮健だ。
黒人のビッグ・パールやエレンは処女でハモンドに抱かれた。
白人のブランチは新婚旅行先で初夜を迎えるが処女ではなかった。
ブランチは兄に襲われて過去にインセストのタブーを犯し、それをハモンドは断じて許さない。
いったん交わったらもう、人ではなく動物になってしまうからだ。
一方、ミードとビック・パールが兄妹だとわかっても、マクスウェル家は「交配」を決行する。
はなから、白人から見てマンディンゴは「人ではないから」だ。
ハモンドはブランチと結婚しながらも、エレンに性的欲求を覚え、子供をつくる。
ブランチはハモンドに抱いてほしいと願いつつ、ミードと子供をつくる。
ブランチは幼いころに兄に誘惑、もしくはレイプされた。
長じて彼女はミードを誘惑し、なかばレイプする形で間男にした。
エレンはせっかく身ごもったものの、ブランチによって流産させられる。
ブランチはせっかく子供を産んだものの、両親によって殺害される。
映画の前半でハモンドはミードを酸の風呂に入れる。それは彼を戦士として強くするためだが、痛がるミードを見て、ハモンドは良心の呵責を感じる。
映画のラストでハモンドはミードを熱湯風呂に入れる。それは妻を寝取った彼を殺すためであり、苦しむミードを見て、ハモンドは法悦めいた表情を浮かべる。
この幾多の「あべこべ」が、最終的には悪夢のような「悲劇」へと収斂してゆく。
その対比と伏線回収の妙はきわめて的確で、決してB級映画呼ばわりするような出来ではない。
そして、この映画の基本構造が「あべこべの対比」であるという本質を過たず射抜いているのが、……そう、今回の復活上映でも用いられているメインのポスターアートだろう。
この色違いに組まれた2×2の対比こそが、本作の悲劇の根幹なのだから。