「檻の中の自由は、真の自由ではない」まぼろしの市街戦 しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
檻の中の自由は、真の自由ではない
この映画のことは、昔から何かとランキングに上がっていて題名だけ知っていた。そして僕は、この題名に惹かれていた。ところが何かで「この映画は市街戦の映画ではない」と知り、興味が減退。以後、観る機会がなく、ここまできた。
今回、4Kでリマスタリングされたので観てきた。
舞台は第一次大戦中のフランスの小さな田舎町。町を占領しているドイツ軍は劣勢で、すぐそこまでイギリス軍が迫っている。町から退却するドイツ軍は、町に爆弾を仕掛ける。
爆弾の存在はすぐに町中に知られ、町の人々は逃げ出す。閑散とした町には、精神病院の患者たちと、サーカスの動物だけが取り残された。
そこに、イギリス軍から爆弾の除去を使命に、主人公プランピックがやってくる。
患者たちと戦争と、どちらが狂気か。
端的に言えば、そういうメッセージだと思う。
だが、僕は本作から自由へのメッセージを感じ取った。
ドイツ軍が去った町で、患者たちは病院を脱走する。
いや、そうではない。
ドイツ軍が去ったからではなく、町の人々が去ったから、なのだ。
なぜならラスト、軍隊が去り、町に平和が戻ったにも関わらず、彼らは病院に戻っていく。
ならば、やはりラストに患者を「装い」自ら病院に入る主人公の行動をどう理解するか。
病院を抜け出した患者たちは、まず(病院で着ていた)白衣を脱ぎ捨て、無人の町から思いおもいの服を選び取り、着飾っていく。王侯貴族を気取る者、将軍になる者、娼婦になる者など。
人気(ひとけ)が去り、また戦争で破壊され廃墟となったグレーの町に、彼らの色とりどりの衣装が映える光景は美しい。ここには、最大限の自由への賛歌が感じられる。
彼らは自由だ。どんな服を着ようが、どんな職であろうが、誰にも文句は言われない。言い換えれば何にも規定されることはない。
その頂点に立つ(立ってしまう)のが主人公プランピックだ。彼は行きがかり上、自分は王様だと名乗ってしまう。
この衣装の美しさと、彼らの自由さは、絶えず画面に祝祭ムードを与えている。
戦争で破壊された町で繰り広げられる、さまざまな“ごっこ”。床屋ごっこ、娼館ごっこ、王の戴冠式ごっこ…
これらはすべて、言い換えれば“冗談”である。
後半、町中でドイツ軍とイギリス軍が鉢合わせ、戦闘が始まる。銃撃戦の末、両軍は全滅するが、患者の1人の公爵がこれを見て、こう言い放つ。
「冗談が過ぎる」、と。
そう、本当は誰も死にたくなんかないはずだ。
そして、思いのままに生きたい。
だから彼らは言う。この世の真実は、思いのままにおこなう“ごっこ”のほうが正しく、戦争のほうが冗談なのだ、と。
これこそが、ラスト、プランピックが自ら精神病院の檻の中に入った理由だろう。
自由への賞賛だ。
しかし、本作はこれでは終わらない。
ラスト、主人公が患者たちに、もう外には出ないのか、と問う。すると、鉄柵の付いた病院の窓から外を眺め、公爵が言う。
「この窓から景色を眺めるのが一番だよ」
ここに込められた、外の世界の不自由さに対する批判。と、共に、病院に閉じ込められるしかない悲哀。
手に入れた自由は檻の中でしかない、という苦い現実を突きつけて、本作は終わるのだ。
このラストは、自ら病院に入ったプランピックを無条件には肯定しないだろう。
本作は自由を称え、この世界の不自由に対して痛烈な批判を浴びせながらも、「檻の中の自由は、真の自由ではない」というメッセージを発している。
そう。本作は無人の町での一種ユートピアのような「自由の祝祭」を描きながらも、現実には自由とは、狭い世界から外に出て行き、その不自由さと対峙することでしか得られないことを伝えているのだ(このメッセージは劇中、爆弾から逃れるためにプランピックが患者たちを町の外に連れ出そうとするが失敗するシーンとも呼応している)。