魔女(1922)のレビュー・感想・評価
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魔女
もうどう説明して良いのか分かりません。この異様さ、不気味さ。歴史的事実に神話の世界が交錯し、科学映画を観ているようなシーンで始まるかと思えば、光と影の芸術、究極の怪奇ホラー映画でもある。これは文化映画なのか?ドキュメンタリーではない。大掛かりなセットを組んだ究極のフィクションであることは間違いない。グリフィスの「イントレランス」にも似た構造をしている。
しかしスウェーデン映画なのに、スタッフ、キャストは全てデンマーク人で、デンマークのスタジオで製作されている。当時のデンマーク映画の製作費の上限がドライヤーの「サタンの書の数ページ」で、40万クローネだったのに対して、この作品の製作費は、なんと巨額の200万クローネ。しかも作品完成後、1年間は母国でも公開出来ず、その後海外でも相次いで公開禁止。米国でも検閲に掛かり、一般上映はされなかった。しかしこの偉大な作品を知り、圧倒されたあのルイス・B・メイヤーが、ベンヤミン・クリステンセンを米国に呼び寄せ、MGMと契約。箒に跨って魔女達が空を舞うシーンが有るのだが、まさしくこれは「オズの魔法使('39米=MGM)」の前半部分で、竜巻で家ごと空に吹き飛ばされたドロシー(ジュディ・ガーランド)が見る悪い魔女(マーガレット・ハミルトン)のイメージに酷似しているではないか!
「悪魔の曲馬団(ノーマ・シアラー主演)」、「籠宮城(モーリス・トゥーヌールと共同監督、主演ライオネル・バリモア)」、「嘲笑(ロン・チェニー主演)」を製作。その後もファースト・ナショナル、ワーナーでも活躍・・・
全然整理出来ておりません・・・
魔女狩りは本当に終わったのか?
最初は神秘主義的な映画なのかなと思って観たのですが、実際にはまったく違いました。
ベンヤミン・クリステンセン監督の『魔女(Häxan)』は、魔女という存在をオカルトや恐怖の対象として描くのではなく、「人間が何を信じ、どう恐れてきたのか」という問いを正面から見つめた作品です。
単に物語を進める映画ではなく、ドキュメンタリー的に“魔女とは何か”を解説しながら、再現映像を通して観客に信仰の構造そのものを体感させていきます。
特に印象的なのは、監督自身が演じる悪魔の造形や、部屋・祭壇・小道具などの緻密なミザンセーヌです。
1922年の作品とは思えないほど細部まで作り込まれており、後のリドリー・スコット『レジェンド』などにも通じるような“形の美しい悪魔”が登場します。
また、魔女が空を飛ぶシーンなどでは多重露光を巧みに使い、まるで現実と幻想が一枚のフィルムの中で重なり合うような不思議な感覚を生み出しています。
技術的には古いのに、なぜか本当に起きているように感じる――その“幻視のリアリティ”こそ、この映画の恐ろしさだと思います。
物語の後半では、魔女狩りの悲劇を経て、現代(当時)の精神医学に話が移ります。
監督は、かつて魔女と呼ばれた人々が、実際にはストレスや社会的抑圧によって心を病んだ女性たちだったのではないかと語ります。
つまり、悪魔が「存在するかどうか」という問題を、「見えるか、見えないか」「信じるとは何か」という問いに置き換えているのです。
そこには宗教やオカルトを否定する姿勢ではなく、むしろ信仰の消えた時代に人間が何を拠りどころに生きるのかという、非常に現代的な視点があります。
第一次世界大戦後、神への信頼を失い、代わりに科学や精神分析が“新しい信仰”のようになっていった時代。
『魔女(Häxan)』はその転換期に生まれた映画であり、宗教と理性、迷信と科学のあいだで揺れる人間の姿を、映像そのものを使って問いかけています。
しかしここで描かれる「理性の勝利」は、決して単純な進歩ではありません。
科学はやがて新しい宗教となり、白衣をまとった異端審問官が現れる。
つまり、形を変えた救済の名のもとに、再び人間は支配されるのではないかという不安が、この映画には強く流れています。
それは過去の迷信を描いていながら、実は未来の全体主義や監視社会の原型を予感していた作品でもあるのです。
古いのに新しい、怖くないのに怖い。
『魔女(Häxan)』は、観る者の“信じる力”そのものに干渉してくるような、稀有な映画です。
そして100年後の今もなお、「私たちは本当に“理性の時代”を生きているのか?」と問いかけてきます。
鑑賞方法: Youtube
評価: 88点
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