「巻頭から演出が破綻している問題作」ポゼッション(1980) りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
巻頭から演出が破綻している問題作
外務省の(たぶん諜報活動の)長期単身赴任を終えて、妻アンナ(イザベラ・アジャーニ)が暮らすベルリンに戻ったマーク(サム・ニール)。
ふたりの間には小学校に通い始めたばかりのボブという男児がいる。
熱愛の末に結ばれたふたりだったが、妻アンナの態度は冷ややか。
詰問の結果、アンナは不倫していることがわかる。
息子ボブの言葉から、相手はハインリッヒ(ハインツ・ベネント)という年上の男性だと判明したが、彼のもとにはアンナはひと月ばかり訪れていない。
相手は誰か・・・
といったところから始まる物語で、1981年製作のアンジェイ・ズラウスキー監督作品。
たしかズラウスキー監督作品は1984年製作の『私生活のない女』が日本初公開作品で、本作品は製作から遅れること7年、1988年に日本公開されており、その翌年に名画座2本立てで鑑賞した記憶がある。
といっても、細部はかなり忘れており、冒頭とエンディングの音楽、アンナの衝撃の不倫相手ぐらいし記憶にはありませんでした。
さて、その後、探偵を雇ったりして、アンナの不倫相手を突き止めると、果たして、相手はタコの化け物のような形状。
こんなモノに耽溺してしまうアンナという女性は、まるでわからない・・・
というのが、初見時の印象だが、再鑑賞すると、観念的には説明されている。
アンナは、絶えず、自分の中で善と悪が葛藤しており、神の前で祈ったときに、善なる自分の脆弱さに気づき、悪なる自分を内で飼いならしてきた。
マークと結婚した後も、その悪なる自分は肥大化し、どうにもならなくなった。
とはえいえ、マークを愛していないわけではない。
自分が愛しているマークも、彼のうちには悪なるマークを抱えている。
それを自分は愛しているのだ。
そんな、彼の中にいる悪なるマークがいて、自分のことを溺愛してくれるならば・・・
という物語のようである。
ま、「ようである」としか書けないぐらいに映画物語は破綻してる。
単身赴任から戻った直後から、アンナとマークは口汚く罵りあい、その様子は性格破綻しているようにしか見えない。
さらに、何度も何度も同じようなシーンが続き、観ているこちらとしてはグロッキーである(うわ、古い言い回しだぁ)。
途中で、思考停止してしまう。
そして同じようなシーンの後には、アンナの常軌を逸したような行動が描かれる・・・
まるで、苦行を強いるような映画です。
で、最終的には、アンナが耽溺していた異形の生物は、マークの姿形となって現れ、アンナが愛していたものが内なる悪を抱えたマーク本人だった・・・
とわかる段は興味深い。
だが、その後、マークに姿を変えた悪は自死したように見せて、アンナそっくりなボブの女性担任教師ヘレン(アジャーニ二役)に近づくことを暗示し、悪が世を支配した(のかどうかはわからないが)ために、巷では戦争を現わす爆撃音が鳴り響く・・・というのは、悪に対する過剰評価のような気がしました。
(最後の方のサム・ニール、ほとんど『オーメン 最後の闘争』のダミアンになってました)
全体的は、ワンシーンワンシーンがエキセントリックなのに説明不足、ショットの繋ぎもぎこちなく、オーバーアクトをみせることで怖さを表現しようと、いってみれば、頓珍漢なところのある映画ではありますまいか。
だからこそ、カルト映画なのかもしれませんが。
ポランスキーが巧みな演出で撮れば、面白くなるような題材なんですがねぇ。