「夫婦の絆。子供、使用人。」プレイス・イン・ザ・ハート Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
夫婦の絆。子供、使用人。
冒頭の食事の前の神様への祈りを主人が家族の前で唱えるというのを見て、1935年。日本で言えば昭和10年。戦争へと向かう時期のテキサス。2018年という現在に比べて、きっと家族や夫婦は真面目であり、アメリカはキリスト教などに忠実で、日本は神仏に忠実で、慎ましく暮らせたのだろう。だが、現在の性倫理や倫理の崩壊状態をみると、自由というトリックを使って崩壊させたが、
それは日米で言えば太平洋戦争、第二次世界大戦のトラウマからのニヒリズムから、倫理を信じられなくなり、崩壊していったのだろう。ベトナム戦争とかバブルとかその後も崩壊が進んだが、現在の崩壊過程の基本は、第二次世界大戦からのニヒリズムの陰なのではないか。立派な保安官の主人が黒人の酔っぱらった子供に映画の初頭に発砲され死んでしまう。残された主婦と小さな子供2人。夫を突然亡くしてしまった女性が、その時代性も相まって、どうやって立ち直って生活していかねばならないかという物語らしい。現在の世界の情勢はやたら犯罪者に優しくなってしまったが、この映画の1935年。犯罪をした少年は、街の人達がトラックで引き回して殺した。日本の江戸時代のようだがこのほうがよほど人間らしい罪への向かい方ではないかと思った。そうした厳しさを失ったために性的には乱交し、わかりづらい犯罪が現れる。黒人蔑視の映画ではないのだろうが、未亡人宅に手伝いに来たと思われた黒人男性が、こっそりナイフやフォームをわしづかみにしてまた手伝うというようなシーンが出てきた。次に銀行員が来て、主人を亡くした家のお金の話になる。現在は逆に職業が女性にも開かれ、乱交も増えたが、1935年頃はアメリカでさえも、主夫は貞操的な生き方をしていて、その反面、働く場所は少なかっただろう。昔の良い面もあったのだが、現在の人達は劣化さえわからなくなった。汚れた空気がわからないのと同様である。だが盗人の黒人男性は知り合いで、彼を警官からかばい、一緒に綿花栽培をして乗り切ろうと未亡人は考えた。黒人男性の役をしたダニー・グローヴァーは、『刑事ジョン・ブック目撃者』にも出ていたらしく、観た映画のはずだが、どの役の人かまるでわからない。未亡人役のサリー・フィールドはアカデミー賞を2度もとったそうだが、知らなかった。この映画をみてもやがてどちらも忘れてしまうかも知れない。未亡人の姉の夫役のエド・ハリスはどこかで観たと思ったが、『めぐりあう時間たち』を観たはずだが、まるで覚えていない。一体私は何のために映画を観ているか。忘れてしまっていくのではどこに意味があったか。その時々では考えるが。だからこそ、こうして記録して公表していかねば意味がないと思う。もっと達人ならその時楽しめたり考えたりできればそれで良いのかも知れないのだが。しかし未亡人が頑張る話なのに、どうしてその姉の夫は女教師と不倫する話が挟まれているのだろうか。ただ、実際は、その不倫の役柄同士が結婚しているのだという。離婚もしていない。物語では、未亡人に一緒に綿花栽培する黒人と、盲目の住み込みの男が関わるのだが、思えば、その男二人は独身で、性関係に未亡人と陥ることもなく、悲しいが立派な脇役な気もする。そういう男女もいる。綿花栽培も嵐など辛い場面もある。、綿花畑のシーンは広大だが、手で綿を収穫していた。手袋もしていなかった。子供たちも手伝っていた。人手が足りず、10人雇う。一番早く収穫した所に賞金が出て、雇ったとしても、それを得て黒字になるという賭けに未亡人は出た。
指を血だらけにして泣きながら未亡人は収穫した。子供は収穫した綿花のトラックの荷台で眠っていた。ぎりぎりで収穫が間に合い、その頃には、盲人は見えないのに料理を担当し、黒人は頼りになるビジネスパートナーになっていた。未亡人も思い切りのよい経営感覚で強気でいけた。一番早く収穫し、高い値段で交渉出来た。ところが、嫉妬から黒人が5人の覆面の男たちに乱暴される。盲人が拳銃を撃ったり、相手の声を聴き分けて暴漢たちは、これで済むと思うなよと脅して帰る。泣き続ける黒人。その肩にそっと手をあてる盲人。未亡人が帰宅すると、黒人はまたあいつらが襲ってくると、子供たちのために作った人形を未亡人に渡し、黒人の母の形見のハンカチを未亡人に渡し、握手して、忘れませんと言い、扉を開ける。未亡人は肌の色なんか関係ない。あなたが収穫一番乗りだという。黒人は私はやり遂げたと微笑んで去った。不倫に陥った女教師は主人と共に遠くの街に去った。教会で不倫相手に去られた男と、怒っている妻が並んで牧師の話を聴く。妻は夫の手を握る。なぜか黒人も教会にいたのか、別人なのか私の無知でわからなかったが、その隣は盲人で隣に子供たちと未亡人がいて、賛美歌と言うのだろうか、それが流れながら、ぶどう酒なのだろうか、小さな一口がたくさん盆に置いてあり、一口ずつまわして飲んでいきながら終える。この映画はキリスト教を背景にしながら、夫婦と子供たちを含む家族、使用人などの関係性を見せたかったのだろうか。苦しい中でも現在よりも絆で保っていた。