劇場公開日 1988年3月26日

芙蓉鎮のレビュー・感想・評価

全1件を表示

3.5権力に奪われえぬもの

2018年12月5日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

悲しい

怖い

幸せ

 ソフトが廃盤となっているために、長らくお預けを食っていたが、とある場所において観ることがかなった。
 映画は、政治運動によって孤立していく人々が、過酷な状況をいかに生き抜いたかを描いている。そして、人々はそのような時代でも恋をしたり、子供を成したりするものだという性愛の問題について、控えめでありながらも何度も繰り返し言及している。
 主人公の胡玉音が、最初の夫と夜なべをして米豆腐をつくるシークエンスは、額に汗して働く若い夫婦の勤労意欲を描く一方で、石臼からほとばしり出るものは性的なエネルギーすらも想起させる。
 また、胡玉音を目の敵としている李国香という人物は、仕事に、恋に常に全力投球する女性だ。映画製作とまさに同じころ、バブル期の日本のテレビドラマが繰り返し描いた若い女性像と重なり合う。
 この上昇志向の強い李国香が、もっとも侮蔑しているはずの男と関係を持ってしまう。玄関のドアにピンクのハートマークを記した彼女の部屋で、真新しいゴム長靴の男を「こざっぱりして」いると、色目を使って褒めあげるのだ。このときの尻の軽さと、胡玉音いじめに対する彼女の執念との対比はシニカルな笑いを生み出し、観客はこの個人の中のアンバランスを見て取ることになる。
 そして、婚期を逃したオールドミスとして描かれる、最後の李国香のなんと現代的な姿か。もはや彼女は被害者でも加害者でもない。女性の社会進出が著しい国では、どこにでもいる一人のさみしい女に過ぎない。
 胡玉音にしても、終盤での出産シーンに際しては、陣痛の苦しみの中、「30歳を超えてからの初産は大変」と叫ばされている。このような場面には不自然で理屈っぽい言葉をわざわざ口にさせているのは、そこに高齢出産への強いメッセージが込められているのであろう。
 映画では、二人の女性が未婚・晩婚の象徴として描かれる。これは、この時代に全世界ですすむジェンダーの変化が中国でも進行していたという、プロレタリアート文化大革命の普遍的で社会史的な側面への言及である。
 一方で、反右派闘争や文革という社会運動が、いかに人々のウィークポイントを衝いて拡大していったかという問題も映画は丁寧に描いている。それは、人間の虚栄、嫉妬といった、些末でも手におえない性質のものに始まり、愛する家族の生活を守らなければならないという、人として実に当たり前の切実な心情にまでつけ込んでくる。
 ここでは、社会思想に規定された諸階層の人々が、革命に振り回され、浮き沈みを繰り返す。そこには毛沢東という仕掛け人の姿はほとんど見えてこない。独裁者の意図というのは、歴史を知る我々の視点からしか見えてはこないものなのだ。政治運動の黒幕は毛沢東なのだという認識は、当時の市井の人々の見ていた光景とは重ならないということを映画は言外に語る。
 大きなうねりに人々が押し流される様を描く前半から、後半は文革を生き抜こうとする者たちのドラマが展開する。
姜文の演じる秦書田という人物の、人々の心が荒みゆく社会での軽やかな生き方が心に残る。
 彼は、ともに反革命分子とされている胡玉音との結婚を町の幹部に願い出る。しかし、彼らを蔑むことが自らの使命だと思い込んでいる幹部には、自宅の玄関に屈辱的なレッテルを貼るように命じられる。
 悲嘆にくれる胡玉音とは対照的に、晴れやかな顔をして丁寧に糊付けをする秦書田。そこに書かれた自分たちの名前に、革命思想上の屈辱的な文言が付いていようとも、その価値観を自分が共有していない以上は、本当の意味での屈辱にはならない。そこに「夫婦」の二文字があり、結果として二人が夫婦であるということを党や町の革命組織が認めたということのほうが重要なのだ。
 名を捨て実を取ることで、大切な人生の一歩を踏み出すことが出来た瞬間である。
 信念や良心を保つことが困難な時代。その流れに棹を挿さずとも、自己の内面に自由を持っている秦書田という人物の、これこそが強さである。
 文革という絶望的な社会の混乱を描いたのち、映画はそうした人間の本来持っている希望について語る。狡猾な権力者は人々の弱い部分を巧みに突き刺してくるが、人が持っている心の中の自由を奪い尽くすことは出来なかった。
 このことは、毛沢東の時代の中国や、独裁者の圧政に苦しむ国だけにあてはまるものではない。戦争や革命のない平和な社会にも、人々の弱さにつけ込み、心の自由を奪うものは数限りなく存在する。
 ナショナリズムしかり、学校や職場のいじめしかり、コマーシャリズムしかりである。
 巷にあふれる広告、広告、広告の嵐。日々の生活や将来の不安に関するキャッチコピーは人々の虚栄や嫉妬を煽る。その量は文革中のスローガンの比ではあるまい。
 そして、それらを一瞬だけ無効にするかのような錯覚を巻き起こすイベントが、渋谷の交差点を埋め尽くす。
 文革の中にあるシステム化への強烈な欲望は、我々の社会にも存在する。
 我々の社会に潜む無秩序への陶酔もまた、文革の中にあふれていたのだ。

コメントする (0件)
共感した! 0件)
佐分 利信