劇場公開日 2022年11月5日

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「野垂れ死にする自由を肯定できるか…フランス発ポストモダンな生き方を描く実験的傑作」冬の旅 nontaさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 野垂れ死にする自由を肯定できるか…フランス発ポストモダンな生き方を描く実験的傑作

2025年12月17日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

40年前の1985年のフランス映画。ベネチアで金獅子賞と高い評価を受け、フランスでは100万人動員と興行的にも成功したそうだが、日本では長いこと公開されていなかった作品とのことだ。
日本語公式サイトが立ち上げられていたので、事前に見てみた。紹介者が全員女性だ。「フェミニズム映画ということなのかな、僕のような叔父さんが見に行っていいのだろうか」と躊躇しつつ、映画館に行ってみた。
確かにエンタテイメントではなく、日本で受けないかもしれない。だが、ずしっと響く素晴らしい傑作だった。
自由を求めて放浪して生きる物語というのは、おそらくカウボーイ映画や「イージー・ライダー」など、長らく男性主人公に独占されてきたところで、女性が孤高に生きる姿を描ききったところにフェミニズム性はあると思う。同時に如何にして自由に生きるかは、男女関係なく現在でも困難なことであって、刺激的で考えさせられる作品だった。

本作の監督アニエス・ヴェルダは、女性監督という道を切り拓いた象徴的存在でもあって、初の女性監督のアカデミー名誉賞受賞者でもあるのだそうだ。同時に、ゴダールやトリフォーに先行した「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と言われる人でもあるとのこと。本作は85年とヌーヴェルバーグ以降の作品でもあるので、時代感覚がおかしくなってしまう。

本作を観て、まず連想したのは、ベストセラー小説で映画にもなった「荒野へ/イントゥ・ザ・ワイルド」だ。自由に生きる放浪生活と、その末の結末が重なる部分が多い。
「荒野へ」との印象的な違いもあった。「荒野へ」は、哲学書を愛読する主人公が、人生の意味を求める旅だった。それに対し、本作の主人公モナには、そうした人生の探究というような姿勢が一切感じれられない。何かを求めることを拒絶しているようでもあって、虚無主義者というか、とにかく乾いている。

モナは、人生の意味の探究を拒絶すると同時に、他人からの強制を徹底的に拒絶する。人間関係を深めることは、社会性というある種の強制を受け入れるものだからだろうか、相手から関係継続を求められても立ち去ってしまう。そもそも、人に感じよく受け入れられようと思ってないから、愛想はないし、不潔な体臭を放つ自分も気にならない。
モナは、どんなに苦しく見えても、自分流に生きている。だから、惨めでもかわいそうでもないのである。このモナの自我の強さは、空気の中で生きている、僕ら日本人には持ちにくいものだと思う。

モナの生き方から連想したのは、フランスの現代思想のポストモダン哲学だ。
本作公開当時、浅田彰を旗手に、日本ではポストモダン哲学ブームが起きていた。ドウルーズやガタリといったフランスの哲学者たちを引用しつつ、そこで提唱されたのは、スキゾキッズという生き方だった。

既存の価値観や組織や権力構造に絡め取られてはいけない。
人間関係もモノも金も溜め込むと不自由になる。
固定観念に囚われるな、過去も未来も考えるな、
とにかく逃げろ、逃げて逃げて逃げまくるのだ
…というような思想だったと理解している。

モナはスキゾキッズを体現しているように見える。努力して稼ぐこととか、人によく思われるとか、好意に感謝するとか、さまざまな社会的ルールから自由である。資産など一切なく、困ったら働くだけだ。
その日暮らしは、狩猟採集民のようでもあって、うまくやれれば幸せになれる。人間は、農業革命によって、溜め込み、計画的になり、子供がたくさん産まれ、豊かになった反面、仕事に追われ、不健康にもなり、幸せでもなくなってしまった。モナは、真に自由で狩猟採集民的な生き方を、実験しているようにも見えた。

モナの生き方を失敗と言ってしまうのは「違う」と思うのだけれど、それでも何かが欠けていたように見えた。
自由の発祥の国フランスで、モナが求めた自由は「〜からの自由」というものだったと思う。全ての束縛からの自由を彼女は求めた。そこに欠落があるとしたら、「〜への自由」と言われるような、自分が求めるものを見定めた自由な追求ではないだろうか。
モナは「楽したい」と何度か言っていたと思う。それで何が悪いの…と。悪くないのである。現代資本主義の中で、努力と貢献を内面化した僕らは、「あとでしっぺ返しがあるよ」みたいに思うけれど、それこそ自己奴隷化と言うものだ。
他人に大きな迷惑をかけない限り、困ったら働き、多少の好意を受けつつ、でもその相手には多大なインスピレーションを与えるモナの生き方は肯定したい(臭いくらいは全然問題ない。火事はまずかったかな…)。
自由な生き方の一番の困難は、社会からの逸脱による安全安心の喪失。そして自分自身を律することが難しくなることだ。その自己統制みたいなことをモナはかなりうまくやっていることに感動するとともに、それでも不安定でリスクが多い生き方であることにヒヤヒヤしながら見ることになった。

モナはポストモダン哲学の影響も、浅田彰の影響も受けていないだろうけれど、あまりに時期が重なるのでちょっと気になっている。
浅田彰は、あんなに「逃げろ逃げろ」と言ったくせに、自分は大学に留まり、教授として安泰な人生を現在に生きるまで送っている。
「逃げろ」と言うのを間に受けて、仕事を辞めたり、家族と断絶したりしてはいけないよ。セーフティネットは確保した上で、知的、精神的に「逃げろ」ということだよーーということなのだろうけれど……。所詮、バブルという経済的繁栄に乗っかった、高等遊民の知的遊びだったのではないかと思ってしまう。

ちょっと映画から離れてしまった。
本作公開の1985年当時、日本はバブルに向かう好景気の時代だったけれど、フランスはかなり経済的に厳しく、若者の失業者が路上に溢れた時代でもあった。
そこで産まれたのが「ゾナール(zonards)」という放浪する若者。今でいうノマド的なスタイルの無職の放浪する若者が当時のフランスにいたようだ。
アニエス・ヴェルダは彼らへの取材から、モナというキャラクターを構築したようだ。本作のリアリティは、そうした現実がバックボーンとなっている。モナと出会った人々の証言でモナの旅路を明らかにするというフェイクドキュメンタリー的手法でさらにリアリティは増していると思う。モナの人生がありありと見えてくる感じがする。
当時の時代を反映したリアリティが、フランスでの100万人の動員に繋がったのではないだろうか。

あともう一点、驚いたのは、ヴェルダがジャック・ドウミ監督の奥さんだったということだ。ドゥミの作品は、今年「ロシュフォールの恋人」「シェルブールの雨傘」を特集上映で見て、大感激した。大好きな映画「ラ・ラ・ランド」のデミアン・チャゼル監督が、自分の原点と言った作品の監督だ。
「ラ・ラ・ランド」や「シェルブールの雨傘」と本作は全く作品の方向性が違う。ドゥミとヴェルダはどんな夫婦だったのだろうか。相当刺激的な夫婦関係だった気がして、とても気になる。
ドゥミの最後の時期にカメラを回して、ヴェルダは「ジャック・ドウミの少年期」という映画をとっていることを知った。こちらも劇場でぜひ見たい。

今年は、存在を知らなかったような傑作が、東京の映画館では結構かかっていることを知って、定年を機に名画座に通うようになった。正直、新作を見るより全然刺激的で楽しい。人生の振り返りにもなっている。
それに今見ることで、自分がどんな社会的圧力に気づかず翻弄されて生きてきたのかを教えてくれる。本作はそうした貴重な傑作の中の1本だ。

nonta
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