冬の旅のレビュー・感想・評価
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野垂れ死にする自由を肯定できるか…フランス発ポストモダンな生き方を描く実験的傑作
40年前の1985年のフランス映画。ベネチアで金獅子賞と高い評価を受け、フランスでは100万人動員と興行的にも成功したそうだが、日本では長いこと公開されていなかった作品とのことだ。
日本語公式サイトが立ち上げられていたので、事前に見てみた。紹介者が全員女性だ。「フェミニズム映画ということなのかな、僕のような叔父さんが見に行っていいのだろうか」と躊躇しつつ、映画館に行ってみた。
確かにエンタテイメントではなく、日本で受けないかもしれない。だが、ずしっと響く素晴らしい傑作だった。
自由を求めて放浪して生きる物語というのは、おそらくカウボーイ映画や「イージー・ライダー」など、長らく男性主人公に独占されてきたところで、女性が孤高に生きる姿を描ききったところにフェミニズム性はあると思う。同時に如何にして自由に生きるかは、男女関係なく現在でも困難なことであって、刺激的で考えさせられる作品だった。
本作の監督アニエス・ヴェルダは、女性監督という道を切り拓いた象徴的存在でもあって、初の女性監督のアカデミー名誉賞受賞者でもあるのだそうだ。同時に、ゴダールやトリフォーに先行した「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と言われる人でもあるとのこと。本作は85年とヌーヴェルバーグ以降の作品でもあるので、時代感覚がおかしくなってしまう。
本作を観て、まず連想したのは、ベストセラー小説で映画にもなった「荒野へ/イントゥ・ザ・ワイルド」だ。自由に生きる放浪生活と、その末の結末が重なる部分が多い。
「荒野へ」との印象的な違いもあった。「荒野へ」は、哲学書を愛読する主人公が、人生の意味を求める旅だった。それに対し、本作の主人公モナには、そうした人生の探究というような姿勢が一切感じれられない。何かを求めることを拒絶しているようでもあって、虚無主義者というか、とにかく乾いている。
モナは、人生の意味の探究を拒絶すると同時に、他人からの強制を徹底的に拒絶する。人間関係を深めることは、社会性というある種の強制を受け入れるものだからだろうか、相手から関係継続を求められても立ち去ってしまう。そもそも、人に感じよく受け入れられようと思ってないから、愛想はないし、不潔な体臭を放つ自分も気にならない。
モナは、どんなに苦しく見えても、自分流に生きている。だから、惨めでもかわいそうでもないのである。このモナの自我の強さは、空気の中で生きている、僕ら日本人には持ちにくいものだと思う。
モナの生き方から連想したのは、フランスの現代思想のポストモダン哲学だ。
本作公開当時、浅田彰を旗手に、日本ではポストモダン哲学ブームが起きていた。ドウルーズやガタリといったフランスの哲学者たちを引用しつつ、そこで提唱されたのは、スキゾキッズという生き方だった。
既存の価値観や組織や権力構造に絡め取られてはいけない。
人間関係もモノも金も溜め込むと不自由になる。
固定観念に囚われるな、過去も未来も考えるな、
とにかく逃げろ、逃げて逃げて逃げまくるのだ
…というような思想だったと理解している。
モナはスキゾキッズを体現しているように見える。努力して稼ぐこととか、人によく思われるとか、好意に感謝するとか、さまざまな社会的ルールから自由である。資産など一切なく、困ったら働くだけだ。
その日暮らしは、狩猟採集民のようでもあって、うまくやれれば幸せになれる。人間は、農業革命によって、溜め込み、計画的になり、子供がたくさん産まれ、豊かになった反面、仕事に追われ、不健康にもなり、幸せでもなくなってしまった。モナは、真に自由で狩猟採集民的な生き方を、実験しているようにも見えた。
モナの生き方を失敗と言ってしまうのは「違う」と思うのだけれど、それでも何かが欠けていたように見えた。
自由の発祥の国フランスで、モナが求めた自由は「〜からの自由」というものだったと思う。全ての束縛からの自由を彼女は求めた。そこに欠落があるとしたら、「〜への自由」と言われるような、自分が求めるものを見定めた自由な追求ではないだろうか。
モナは「楽したい」と何度か言っていたと思う。それで何が悪いの…と。悪くないのである。現代資本主義の中で、努力と貢献を内面化した僕らは、「あとでしっぺ返しがあるよ」みたいに思うけれど、それこそ自己奴隷化と言うものだ。
他人に大きな迷惑をかけない限り、困ったら働き、多少の好意を受けつつ、でもその相手には多大なインスピレーションを与えるモナの生き方は肯定したい(臭いくらいは全然問題ない。火事はまずかったかな…)。
自由な生き方の一番の困難は、社会からの逸脱による安全安心の喪失。そして自分自身を律することが難しくなることだ。その自己統制みたいなことをモナはかなりうまくやっていることに感動するとともに、それでも不安定でリスクが多い生き方であることにヒヤヒヤしながら見ることになった。
モナはポストモダン哲学の影響も、浅田彰の影響も受けていないだろうけれど、あまりに時期が重なるのでちょっと気になっている。
浅田彰は、あんなに「逃げろ逃げろ」と言ったくせに、自分は大学に留まり、教授として安泰な人生を現在に生きるまで送っている。
「逃げろ」と言うのを間に受けて、仕事を辞めたり、家族と断絶したりしてはいけないよ。セーフティネットは確保した上で、知的、精神的に「逃げろ」ということだよーーということなのだろうけれど……。所詮、バブルという経済的繁栄に乗っかった、高等遊民の知的遊びだったのではないかと思ってしまう。
ちょっと映画から離れてしまった。
本作公開の1985年当時、日本はバブルに向かう好景気の時代だったけれど、フランスはかなり経済的に厳しく、若者の失業者が路上に溢れた時代でもあった。
そこで産まれたのが「ゾナール(zonards)」という放浪する若者。今でいうノマド的なスタイルの無職の放浪する若者が当時のフランスにいたようだ。
アニエス・ヴェルダは彼らへの取材から、モナというキャラクターを構築したようだ。本作のリアリティは、そうした現実がバックボーンとなっている。モナと出会った人々の証言でモナの旅路を明らかにするというフェイクドキュメンタリー的手法でさらにリアリティは増していると思う。モナの人生がありありと見えてくる感じがする。
当時の時代を反映したリアリティが、フランスでの100万人の動員に繋がったのではないだろうか。
あともう一点、驚いたのは、ヴェルダがジャック・ドウミ監督の奥さんだったということだ。ドゥミの作品は、今年「ロシュフォールの恋人」「シェルブールの雨傘」を特集上映で見て、大感激した。大好きな映画「ラ・ラ・ランド」のデミアン・チャゼル監督が、自分の原点と言った作品の監督だ。
「ラ・ラ・ランド」や「シェルブールの雨傘」と本作は全く作品の方向性が違う。ドゥミとヴェルダはどんな夫婦だったのだろうか。相当刺激的な夫婦関係だった気がして、とても気になる。
ドゥミの最後の時期にカメラを回して、ヴェルダは「ジャック・ドウミの少年期」という映画をとっていることを知った。こちらも劇場でぜひ見たい。
今年は、存在を知らなかったような傑作が、東京の映画館では結構かかっていることを知って、定年を機に名画座に通うようになった。正直、新作を見るより全然刺激的で楽しい。人生の振り返りにもなっている。
それに今見ることで、自分がどんな社会的圧力に気づかず翻弄されて生きてきたのかを教えてくれる。本作はそうした貴重な傑作の中の1本だ。
自由…。
冬の旅――自由の果てにあるもの
1985年、アニエス・ヴァルダの『冬の旅』はベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、フランス国内で100万人を超える観客を動員した。
なぜこの作品は、当時のフランスでこれほど強い共鳴を呼んだのだろうか?
物語は、モナの死体発見から始まる。
彼女を記憶する人々は多く、証言を重ねながら、私たちは一人の若い女性の軌跡を辿る。
しかし、その証言には奇妙な共通点がある。
誰もがモナに「孤独」を見ているのだ。
だが、果たして彼女は本当に孤独だったのだろうか?
モナは大学を出て秘書官となったが、人に使われることを嫌い、社会を捨てた。
ヒッチハイクとキャンプ、ほとんど野宿に近い生活。
タバコ、大麻、水とパン、時には売春。
移動しながら求めるのは食料と寝所だけ。
目的も目標もない。そんな生き方は、自由の象徴なのか、それとも愚かさの証明なのか?
フランス人は本来、労働を嫌う――そんな言葉がある。
だが、1985年のフランス社会は経済成長の陰で若者の失業率が高く、「働くこと=生きること」への疑問が広がっていた。
モナの姿は、その疑問を極端な形で体現している。
中産階級的な安定への違和感、社会の冷淡さ、そして「自由への憧れとその代償」彼女の旅は、時代の不安を映す鏡だった。
しかし、モナの自由は純粋なものではない。
社会を捨てながら、社会に依存する稚拙さがある。
働く場所を与えられてもすぐに辞め、世話になった家から物を盗み、罪悪感もない。
身分証を持たないのは過去を捨てた証だろう。
だが、その選択は、太平洋を一人で渡るような無謀さに似ている。
頑固なのか、プライドなのか、考え方を変えないというのであれば、放浪に意味はない。
やがて、ワイン祭りの村で体中にワインを染み込まされたモナは、凍死する。
楽な生き方、楽しい方を選ぶ生き方は、人間社会では生きていけない――その事実を、彼女の死は突きつける。
モナは人生のディスカバリーの旅に出たのではない。
世を捨て、人を捨て、そして世間に捨てられるために旅に出たのだ。
2025年の私たちは、彼女に何を見たのだろう?
自由か、孤独か、それとも愚かさか?
モナには、憐れみを手向けることしかできないと感じた。
夢も希望も捨ててしまった
ついつい見入ってしまいました
人にはいろいろな欲求があります
多くの人が思うのは「自由」
自由って掴みどころがなく全てが自由なんてことはなかなかない、もしかしたらそれは不自由な事なのかもしれない
ある程度束縛されている方が自由への関心や欲求が強くなるものなのでしょうね
若い頃、あんなに自由だったのに日曜日に家から一歩も出ずにダラダラしていた事が今になってもったいなくて仕方がないです
モナは楽をして生きたいとも言っていたな
若さが言わせているのでしょうね
いい歳になると楽よりもやりたい事が出来てその為の時間が欲しくなるんです
放浪の旅ではなく羊飼いの彼が言っていたような旅だったのかも
だとしたらもうそれは「旅」ですらないような気がします
『イントゥ・ザ・ワイルド』の彼とは雲泥の差だ
しかしモナは何から逃げていたのだろう
そして最後には諦めてしまったのだ 全てを
【”漂泊”自由である事は孤独である事。孤独である事は自由である事。一人の少女の漂泊の果ての死への歩みをドキュメンタリータッチで描いた作品。】
■冬の朝。フランスの田舎の葡萄畑の横の側溝で、モナという若い女の凍死体が発見される。
警察はヒッチハイクで流浪していたモナのことを誤って転落した自然死として葬る。
モナが路上で出会った人々の証言から、彼女が死に至るまでの数週間の足取りをたどる。
◆感想
・アニエス・ヴァルダ監督の作品は、数作であるが鑑賞して来たが、今作はナカナカに難解である。
・世間的には高い評価を受けた作品だそうであるが、エンタメ性は少なく、サンドリーヌ・ボネールが演じたモナも、可愛い顔をしているが、性格は可愛げが無い。
・”楽をして生きたい。”と平然と口にするし、モノは平気で盗み、金がないのに巻き煙草をスパスパ吸う。
・移動は、ヒッチハイクである。自分に色目を使う男には罵声を浴びせる。
■今作内で、モナを知る女性が頻繁に口にする言葉がある。”孤独”である。
モナは、自由と引き換えに、孤独を抱えている。
無軌道と言っても良い生き方をしている。
<今作は、自由と孤独の関係を考えさせられる作品だと思う。エンタメ性は少ないが、記憶に残る作品である。
つまりは、秀作という事なのだろう、と思う。>
見事な自業自得映画
とても面白い
よくこのような映画を作ろうと決めたものだ、すごい、と思った。普遍性が強く生じるような仕掛けになっており、彼女の過酷な道行きを映像表現として描く価値があると、作家として確信しているということなんだなあ、と。リアルに寒々しい風景と横移動撮影が目に焼きつく。
サンドリーヌ・ボネールはこの時まだ17、18歳くらいとのことだが、かなりアップでないと少女とわかリにくい感じ。ものすごく辛い目に合うが、真に迫っており胸が痛くなる。感電する教授は監督の心情を仮託しているのかと思う。
そして、肉食のヨーロッパ人の体臭は我々より遥かにキツイとよく聞くが、どの程度なのか非常に気になった。とはいえ「ポリエステル」みたいなオドラマ方式だったらと考えると恐ろしいが。
タイトルなし
妖精業も楽じゃないというか、妖精も人間であれば臭うし死ぬのである。/感電のシーンはちょっと笑った。/『WANDA ワンダ』ぽくもある。あと、有吉佐和子『悪女について』も思い出した。
その日食うのも困っているのに、食い物にありつけるとわかった否やお金...
なぜ一人でさまよっているのか
モナが亡くなる前、寒さに震えながら「お母さん…」とつぶやいてたこともあり、彼女がどうして「キャンプ」に出たのか、想像させてくれる描写でいいからほしかった。
こんな生き方をしたからあんな風に死ぬハメになりました、ではかなしい。
教授や畑仕事を世話してくれたモロッコ人など、臭くて我を通すとっつきにくいモナになぜか好意的な人も少数ながらいるのに対し、
教授の助手など徹底的に嫌う人、
羊飼いのように関わった結果軽蔑する人、
ヨランダのように嫌いになりきれず距離を置く人、がいて、
人間は2割に好かれ2割に嫌われ6割には何とも思われないという話を思い出した。
主人公の状況の類似からinto the wildを挙げる人もいるが、
あちらは目指すものが明確でそのために努力もしているのに対し、
モナは「楽したい」というのは一貫しているし、他人に媚びもしないものの、何を目指しているのか全く見えず、表現されたものだけから読み取ることもできず、
消化不良がある。
モナを語る人の中に「自由」で羨ましいと語る人もいたが、カチカチのパンをかじり、行きずりで関係を持ったり襲われたり、寒さに震えたり、
モナはひとつの場所にいないだけで、どこに行ってもいい反面、居場所がないということでもあるし、
モナは自由だ、とは描かれていなかったと思う。
不思議な映画だった
不思議な映画だった
主人公に同情させるでもなく、
どちらかというと、教訓的に進んでいく
自由を得るには、
引き換えに失うものが多いのだ
「WANDA」と鑑賞後感が似ていて、
どうにもならない人がどうにもならずに生きている
どうにかしたい、もなくて
ただ、どうにもならないことが続いていく
結局、社会なのかな
社会に混じれなかった人、
社会が混じることを許さなかった人、
そういう人を描く映画があることで
救われる人はいるんだと思う
実際、クリスマスイヴに観てる私とて
少しは救いになっている訳だし
とはいえ、ファーストシーンから衝撃的だし
ラストシーンだって悲劇でしかないですよ
個人的には、
教授と仲良くなっていく過程が見たかったりして。
それじゃ、ダメなんですよね
凍死体となって見つかった少女モネ。 彼女はなぜ死んだのか、彼女と交...
キリギリスが、正しく野垂れ死ぬ。
監督・脚本のアニエス・バルダは1929年生まれ。1970年代の退廃した若者文化を、壮年期に横目で眺めた世代。
フランスの片田舎の農業地帯で凍死した女性の日常を、彼女と関係した人々、目撃した人々の証言で綴っていくと言う記録映画的な建付け。狙いは、この年代の生き方に対する、一般世間の評価に客観性を持たせること。
証言や関係性は多様を極めます。自由であることへの羨ましさを口にするもの。興味から始まり、一定の共感を抱いたり、惹かれたりするものもいます。自らの価値観を押し付けて施しをしようとするもの。働くことを教えようとするもの。一緒に自堕落の限りを尽くす同類。利用しようとするクズの中のクズ。
もうね。多様です。一般世間の評価の多様性を反映しています。
でですよ。
もうね。当の本人と来たら、ボロボロのクズっぷりです。
楽して生きようとして、実際の享楽的な生活を送った女の子が、キリギリスの如く冬の農地で野垂れ死ぬ。全く同情の念が湧きません。哀れだと思いますし、少しは助けたくなるけれど。これは、どーもならん。
要するに、冷ややかな視線以外に感じるものが無い。
自由さや率直さと言う魅力はあっても、現実世界で生きて行くために必要な事は、他にあるし、それをおざなりにしたり他人任せにするってのは、明確に間違いだよ。って言う映画。
にしても、1985年製作でこの音楽はナシ。って、ずーっと思ってましたが、70年代に流行りながら完全に廃れた非音楽的な和声と旋律を、敢えて使ったのだと考えたりした。
冒頭はつまらなかったんですけど、途中、作者の意図が伝わって来てからは面白かったです。
今も、こんな若者、一定数は日本にもいますけどね。と言うか、古代から、いたんでしょうねぇ。様態は違えども。って思った次第です。
興味深かった。
とっても。
内臓に寒さが染み渡る
とある若い女性の最期の二週間を振り返り、時に彼女と出会った人のインタビューも交えるなどして描かれたドラマ。彼女のフィクショナルなドキュメンタリー。
冒頭からガツンとやられるのだが、進むにつれやるせなさがどんどん募ってきて、鑑賞後もずっと、静かに自分の中で色んな感情が重くのしかかる。出てくるキャラクターはいちいちリアル。思い出すにも気が重いが本当に見て良かった。良い映画。
アニエスの矜持たるや素晴らしい
自由ということの不自由さ
自由でありたいと突き詰めれは突き詰めるほど、自由のようなものに心は捉えられてる手を伸ばしたその先で自由は雲を掴むように遠のく。
そして,もともと住んでいたところからどのくらい離れていたのかわからないけど、自由を求めて彷徨うにはその行動範囲があまりに狭くて堂々巡りにハマり,最初から見ていた農地の溝にて事切れてしまった。あまりにも痛々しくあまりにも鮮明な若さ、自由への渇望、やがてくる絶望。
農具や、農耕機や、固く乾いた土やモロッコ人移民労働者とら剪定する灌木。オブジェとしてアップで捉えられるものはあまりにも冷たく硬質で、自由を求める魂も肉体もあまりにも脆く弱々しい。
樹木の名前忘れてしまったが,毒素に侵された木を伐採する、立ち枯れる木もまた弱い肉体である。
木のお医者さんである学者さん(女性の教授)との出会いがモナと社会,世間をつなぐ心地よいひとときをもたらした,その後学者さんにおこる衝撃の出来事も,驚いたけど無機的ではない有機的な帰結。
お屋敷の持ち主の老女との楽しいコニャックのひとときも刹那的で老女もなに不自由ない富裕の暮らしをしながらこのコニャックとモナとのひとときを最後に老人ホームという不自由に追いやられるからモナと意気投合してのだろう。お屋敷の家政婦をしてボーイフレンドともなんとなく不安定な女性も,自由に生きるモナに惹かれてしまう。
羊飼いの家族の哲学者の男もやがて楽して生きたいモナに苛つき無口だが妻の方が需要していたように見える,他の家でも、学者さんほどではなくても女性たちはそんなに厳しい態度ではないように思えてそこも大事な目線かなと思う。
最初は威勢が良かったモナ。肌身離さず食料や大事なものを入れているバッグにはMのイニシャルが、社会とのつながりかってあったなんらかの家族とか自分の名前とか断ち切り難い関係性を見ているものに常に意識させる。
自由とは孤独なものだが,孤独は自由なのか。不自由な自由を頑なに強情に追い求める強いモナ。
自由がどんどん不自由になり、貧困の束縛となる。
深くにも男に襲われるところから,ローリングストーンのように転がりはじめる、このシーンで、若い男子がやはり究極の自由を追い求め挫折し絶望と死に至るInto the wildでヘラジカをしとめるが処理に時間がかかりうじが湧いて食べることもできず体力だけが無駄に消耗し絶望するシーンが想起されそれから頭を離れなかった。
この映画が公開された当初は見ていなかった。もっとちっさくて不甲斐ない感じだけど若さゆえ同じことを考え同じような行動もしたし、妄想もした。あのころこれを見ていたら行動は妄想となり妄想は活力となり、逆説的に不自由を選択して自由を部分的に享受しただろう。これをみなくてもそのような疑似体験や現実と非現実日常と非常の境界を自由に行き来できるものはさがせばたくさんあった。
今も不自由の自由を甘んじて生きる。自由の不自由ほど苛烈ではないから、、、
そんなかっこいいもんじゃない。
1985年金獅子賞受賞作のリバイバル上映。この時代のフランスとは一体どんな社会だったのだろうかとやや不安になる内容。
畑の側溝で発見された若い女性の凍死体。彼女は何故ここで命を落としたのか。彼女と関わった人々の言葉と共にここまでの道程を追ってゆく。
楽して生きたいと言う割に誰よりも困難な生き方をしているように見える。そもそも何故この若さで放浪しているのかが謎過ぎる。わがままで性格も悪い。共感も同情もできずにモヤモヤするばかりだった。この時代はこんな女性像がある種英雄視されたのだろうか。原題は「屋根も法もなく」らしいけど、法に逆らうことが必ずしも信念を持っていることとイコールではないと思う。少なくとも彼女のはただの堕落でしょう。死に方は可哀想だったけどね。
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