「必要とされる幸せ。必要とするものを手に入れる幸せ。」日の名残り bloodtrailさんの映画レビュー(感想・評価)
必要とされる幸せ。必要とするものを手に入れる幸せ。
午前十時の映画祭で。初見です。
アンソニー・ホプキンス主演。「羊たちの沈黙」が'91。翌'92はコッポラの「ドラキュラ」。これが'93。陳腐な表現だが「乗りに乗った時期」に撮られた佳作。この映画には関係ないけど、コッポラの歴史的駄作「ドラキュラ」はゲイリー・オールドマン、ウィノア・ライダーとの共演だったんですね。今思えば豪華。
ストリー的には、当時の英国の政治状況が、ある程度わかっていた方が理解が進むと思う。ヒトラー内閣の成立が1933、ヴェルサイユ条約の軍事条項が、事実上無効化されたのが1935の英独海軍協定と考えると、この物語が展開された1937時点で、ドイツの再軍備容認や水面下での接触は明らかに間違っているし、ドイツからやって来たというメイド(ホロコースト前だがユダヤ人の迫害は始まっていた頃)二人を追い出すってのは人道的にも許し難い。ダーリントン卿は、ほぼ「脳内お花畑」な貴族議員として描かれているが、日本の首相にも、こんな人居たよな、って思ってしまった。ルイスの指摘通り、政治に関わってはいけないアマチュアです。
スティーブンスは屋敷の中から出ない。当時の英国内は、国政的にはごった返しの争乱の時期なのだろうが、そんな世相は映画の中では表現されておらず。執事としての日々は淡々と進みます。ミス・ケントンが密かに寄せる恋心も、知ってか知らずか。人間としての、一人の男としての幸せを求めることなど、毛頭考えずに主人に仕える人生。
仕える主人が変わり、新たな人手が必要になったスティーブンの脳裏にミス・ケントンの名前が浮かび、迎えに行くわけですが、「日の名残り」の中で、彼は「一人の男としての幸せ」を掴み損ねます。ミス・ケントンの口から出て来た、旦那とやり直すことを決めた一言が、スティーブンの心に鉛の様に沈んで行く。「私を一番必要としているのが彼だから」。執事としての喜びもまた、仕える主人に「必要とされること」。彼と彼女の違いは、一人の人間としての幸せを求めたか否かであり、行動したか否か。最後の別れの場面、哀しかった。
現在の映画は、デジタルによる画像処理が施されていないものは無いと言っても過言じゃない。'93当時は、そんなもん無いでしょうね。逆に、だからこそ、画へのこだわりが伝わって来ます。とにかく美しい。どんなカットも、どんな場面も、なんでこんなに惹かれてしまうのかというくらいに好き。
米独仏英の政治家を集めた会議の最後の晩餐会。ドイツからのゲストがオペラを披露しますが、あの構図の中に、誰がどこに立ち、どちらを向き、どんな姿勢を取っているのか。絶対に、緻密に指示してる。絵画を見てる様な気分。スティーブンの興味を引けず、絶望しながら自室に姿を消すミス・ケントンの顔が、少しづつ少しづつ暗がりに消える。なんなの、この芸術品の様な心象表現!スティーブンとミス・ケントンが再会したレストランで移動するカメラと移り込む客と風景。戦後、華やかさを取り戻しつつある英国の情勢の中で、「あか抜けたケントンと年を重ねたスティーブン」を画だけで浮彫にしてしまう表現力。埠頭で「日の名残り」を眺める二人の横顔と背景の奥行の陰影のすばらしさ。なんといっても、バスに乗って去って行くケントンとの別れと、ダイムラーの運転席に戻り、男としての幸せを諦め執事に戻る気持ちの切り替えを表現するヘッドライト点灯までの流れ。昔のイタリア映画みたい、いや黒澤や小津みたい。映画って、こうであって欲しい。と、思いつつ。今の日本映画、画にこだわりなく、雑に撮られた作品が多すぎるよなぁ、ってのも強く感じてしまいました。
ストーリー的には「普通の文芸作品もの」ですが、画像表現と言う点では、これほど素晴らしい映画は無いと思います。
Kentonの顔が暗がりに少しずつ消えていくシーン、私も素晴らしいと思いました。
何を見せて何を映さないか、という計算が凄いなぁと思った映画でした。