ピクニック at ハンギング・ロックのレビュー・感想・評価
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神話かと思った。
神話と言われたって頷ける。
真っ白なワンピースでそろえた少女たちが、くすぐったそうに笑い合いながら、セリフらしいセリフも無くピクニックに出かける。野性味のある岩場でおもいおもいくつろぐ姿は、まるで天使のよう。そんな宗教画すらあった気がする。
その後の急転直下、失踪とその混乱も、ミステリアスな現象と描写ばかりで、もはや神秘的に思える。
そんな霞の中の話のようで、解釈はもとより、眼の前の事態をただ呆然と眺めること以外に何もできなく、一体全体これはなんだったんだろう、と。なにを見ていたんだろう、と茫然自失だった。
無理やり理解しようとするなら、天使が神の岩場で遊んで、人間をからかってました、みたいな事態で、だから神話かと思った。いまだにどうにも収められないモヤモヤが渦巻いている。。
すごく変だ おかしい 何かが間違ってる。 女性の解放をミステリアスな物語で仕立てあげた哀しくも美しい映像文学。
1900年のオーストラリアを舞台に、3人の少女と1人の女教師が突如として姿を消した謎の失踪事件に翻弄される人々の姿を描いたミステリー。
2022年にアカデミー名誉賞を、2024年にはヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞を受賞した、オーストラリアを代表する巨匠ピーター・ウィアーの初期の代表作。
主要人物ミランダの美貌はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に例えられていたが、本作の撮影は正に絵画的な美しさ。オーストラリアの雄大な自然と、その中に佇む英国的な美少女達の姿をゆったりとカメラは捉える。どこを切り取っても絵になる、情景に満ちた美的な映画である。
撮影監督のラッセル・ボイドは公開当時若干31歳。後にピーター・ウィアー監督作品『マスター・アンド・コマンダー』(2003)でアカデミー撮影賞を受賞する事になるが、本作を観れば彼の才気の凄まじさを実感出来るだろう。
原作は女流作家ジョーン・リンジーが1967年に発表した小説であり、これは豪文学の最高傑作とも称される名著である(残念ながら未読…)。
「女性の失踪」というのは文学作品にはありがち題材で、日本でも村上春樹なんかはほぼ毎作品これを扱っている。いつだったか、村上がインタビューで「人が消えるというのは特別な事ではない。会社を辞めた同僚と連絡がつかなくなるなんて日常茶飯事でしょ?」と答えていた様に記憶しているのだが、文学において「人が消える」という事は原因が超常現象であれオカルトであれ犯罪であれそれは何かのメタファーであり、明確な答えは導き出されないのが常。本作もその謎は有耶無耶に立ち消える。
スッキリするお話ではない為モヤモヤとした読後感を覚える人もいるだろうが、描かれている内容は明確。
女生徒たちは岩山の途中でヒールを、自らを厳しく律していたマクロウ先生はスカートを脱いでおり、帰還した女生徒アーマの衣服からは何故かコルセットが消えていたというのだから、これはもうこの「女達の消失」は女性解放のメタファーに他ならない。
その証拠に、作中では何度も女性がコルセットをギュウギュウに締め上げる場面が描かれている。ウェストを細く見せるためのコルセットは、優美な見た目に反してその実は拘束具さながらの矯正器具。圧迫により内臓を痛めたり呼吸困難で窒息する事もあったと聞く。
女性からしてみれば拷問でしかないこのコルセットを何の為にしていたのかと言えば、それはもう男性から魅力的に見られる為。更に言えば、彼女達が受ける学校教育も自分たちの能力を伸ばしたり社会的な地位を向上させる為ではなく、ただの花嫁修行として行われている。男性優位社会で生きざるを得ない少女たちの悲哀を、本作は華やかなルックで覆い隠しながら描いているのである。
優雅な見た目とは裏腹に水面下では必死で水を掻いている白鳥が映画内に度々登場しているのは偶然ではないだろう。
学校から追い出される事を苦にして自殺してしまったセーラ、彼女を追い詰めた事への良心の呵責から命を経った校長。優雅に見える女性社会も、その現実は地獄の様な苦界である。
岩山に登ったミランダ達は、ゴロゴロと寝そべる女生徒達を見下ろして「目的がない人がこんなにいるなんて驚きよ」と嘆く。彼女たちは明らかに現状に不満を抱いている。
だからこそ彼女たちは「消える」。いや、「消える」ではなく「抜ける」と言うのが適切か。彼女達の消失には悲壮感はなく、どこか祝祭的な雰囲気すら漂っているのだから。
そう考えると、本作とあのウィアー監督の代表作にして大傑作『トゥルーマン・ショー』(1998)はかなり似た映画であると言える。味付けが180°違うので一見しただけでは気が付かないが、どちらも「現状からの積極的な逃避」というテーマを描いた作品なのだ。
苦界から「抜け」、どこか別の世界へその身を移す。これこそがウィアー監督の作家性なのかも知れない。今後彼の作品を鑑賞する事があれば、これを念頭に置いて読み解いていきたい。
この作品が持つ危うい美しさに、「ヴィーナスの誕生」ではなくミレーの絵画「オフィーリア」を想起したのは自分だけではないだろう。オフィーリアの死は悲劇だが、絵画に描かれた彼女の表情には、悲愴さよりもむしろ安らかさが表れている様に思える。ミレーの描いたオフィーリアもまた、死ではなく何処かへ「抜けた」のかも知れないと、本作とは関係ない考えが頭を過ぎるのであった。
※4Kレストア版を鑑賞。これはオリジナル版を再編集したディレクターズカット版でもあり、元の作品に比べ10分ほど尺が短くなっている。
ディレクターズカットって大抵冗長になるものだけど、逆に短くなるとはなかなか珍しい。他には『エイリアン』(1979)くらいしか思いつかないかも。
オリジナル版は未見だが、どこが変化しているのか比較する為にも鑑賞してみたいと思う。
いつまでも純粋無垢ではいられない、少女期の終わりというか。
少女の繊細さ
1900年、オーストリアの女学校で、ハンギングロックという岩山へのピクニックが行われる。しかしマリオンら三名の生徒と、マクロウ先生が行方不明となる。地元警察などの捜索でも発見されなかった。
妖しく聞こえる動物の声、何かにおびえ詳細を語ろうとしない当事者たち。ミステリーの雰囲気が満ちていきますが、釈然としない結末が物足りない。少女の繊細さが無いおっさんには、とっつきにくいです。架空の話だけど、まるで実話をもとにした物語のようです。
wowowの予告まんまの内容につきる
1900年、🇯🇵なら明治時代後半、オーストラリア。
女子寄宿学校から遠足みたいに皆で出かけ、
3人の生徒と一人の教師が帰って来ない、話。
何が謎があるのか?
結局謎の答えは何なんだ?が知りたくて
最後迄観ても、訳わからず。
何なんだ本作は?
警察が中心になって捜索するが収穫無し。
行方不明事件が町でも大きく取り沙汰され、
不安に思った親による退学者も増える。
苦悩する校長、
最初きっちりしていたヘアスタイルが乱れている。
映像は美しく、
いなくなった女の子たちも美少女ばかり。
それぞれの白ワンピが清らか。
一人だけ男の子が見つけ保護するが記憶が無い。
並行して学費滞納のセーラという生徒に
校長が退学を申告した後、
そのセーラが‥‥。
生還した生徒も退学していく。
そして、校長は?
まっしろなワンピースの説得力
期待が高すぎた!
失踪するまでの雰囲気が時代を超えて絶大なインパクトを持っているというのはわからなくもない。美学的な徹底は画面から伝わる。しかしながら、映画というのは美的なものだけでは成り立たないという症例のような作品。
そのあたりは当然、この後に一級監督に成長することになるピーターウィアーも理解しているので、美的なところは失踪するまでで終わり、残りは学校と街へのアフターエフェクトを描くことになる。
問題は後半のアフターエフェクトパートに出てくる人物たちが、一様に困惑というトーンで統一されてしまっているところではないか。
捜索する警官だったり失踪前を目撃している青年たちだったり、学校の先生だったり視点が色々切り替わるが、そのどれもがなんかよくわかんない…みたいなしかめっつら。視点が変わっても心理が同じなので、話が進まないと感じてしまう。
唯一能動的な行動を起こす人物として、再度友人を誘って捜索に赴く大尉の息子がいるが、前半の二番煎じのような緩いピークが訪れるに留まる。
事件後の彼らを切り取る映像は過不足なく、淡々と、ケレン味も少なく流していく。ただ無為な時間が過ぎていくだけに感じ、作品がどこに向かおうとしているのかわからない。あるいは、そんなじれったい時間自体を表現したかったのかもしれない。
いくつか超自然だったりショックと言えるような描写が出てくるのだが、そこがうまくいってないのが1番おおきいかも。
例えば唯一生還したアーマに不信感を抱いた女生徒達がアーマをどつき回すシーン。
ここは暴力的なシーンのだが、いかんせん演出が雑すぎて間抜けた感じになっている。
いきなり牙を剥く生徒達の心理が謎。むしろ滑稽にみえ、笑ってしまった。
結局は、1番の美として描かれるミランダ演ずるルイーズ・ランバートの顔で保っていると考えると身も蓋もない感じ。カルト映画化したのもミランダが出てくる前半があるからではないか。
失踪以降の後半はマジ退屈🥱
イグアナは出てくる。
個人的に爬虫類が出てくると間違いなく映画は面白くなると考えている。
しかしながらこの映画はダメだ。イグアナだけでなくコアラまで出てくるのに…
音楽は大仰なテーマの使い回しであんま。
シンセで精神がおかしくなります表現は2024年の今聞くと凡庸。
「ピクニックしてて狂気に入り込む」だったらロバート・ロッセンのリリスを見たほうがいいと思う。
不可思議なピクニック 女学院と女生徒
美しい文学的サスペンス
1900年、女子学校のピクニックで、数名が山にいったきり戻ってこな...
タイトルなし(ネタバレ)
今回のリバイバルはディレクターズカット版107分で、初公開時116分よりも短くなっています。
どこがカットされたのかは残念ながら憶えていません。
19世紀末の1900年、バレンタインデーの2月24日。
オーストラリアの女子寄宿学校では馬車でピクニックに出かけることになっていた。
出かけた先はハンギング・ロックと呼ばれる岩山で、100万年ほど前に隆起してできた場所だ。
十人ほどの生徒たちはおそろいの白いドレス。
付き添いの先生はふたり、それに御者がひとり。
食事を終えた昼下がり、生徒4人がさらに上への散策を申し出て・・・
ピクニックを終えて夕方には学校へ戻るはずがなかなか戻らず、夜十時近くになって戻ってくる。
が、散策に出かけた4人は姿を消し、さらに彼女らを探しに行った年配の女教師も戻ってこなかった・・・
といったところからはじまる物語。
捜索隊も組織されるが、だれも発見されず。
途中、4人の生徒を見たというふたりの青年の証言はあったものの手がかりにすらならない。
その後、数日して女性と一人が発見されるが、彼女の証言では、年配の女教師は下着姿で上へ登っていくのとすれ違ったが、どちらの方向へ行ったかは憶えていない、と。
と、実際に起こった事件なのだが、未解決。
まるで神隠しにあったかのようなのだ。
この女生徒消失事件と並行して描かれるのが、教育費未納によりピクニック行きを禁じられた女生徒と校長のやり取りが描かれるが、学校の経営がかなり厳しい。
残された女生徒は孤児院の出身。
目撃者の青年のひとりとは兄弟・・・
と、2時間サスペンスだと、事件解決の足掛かりとなりそうな状況なのだが、それも足掛かりとならない。
この未解決事件を、美しい映像と美しい音楽で淡々と描いていくピーター・ウィアー監督の演出手腕は素晴らしい。
遠景のショットと、動物たちの近影の絶妙なバランス。
編集のリズムと相まって、美しいが不穏でストレスフルに感じられます。
初見時には、それほどとは思わなかったのは、こちらが若かったせいか。
名作と呼ぶにふさわしい作品でした。
カルトと美女はよく似合う💕
一瞬のかぎろいのような「少女性」を「永遠の12時00分」に封じ込めたカルト作。
品位と気品のある、デイヴィッド・ハミルトン。
あるいは、年齢層高めの『エコール』『ミネハハ』。
そういっちゃうと、身もふたもないけど。
ロリータと呼ぶには若干とうの立った、ハイティーンの少女たちの一瞬の美と崇高さ。
それを、1900年というヴィクトリア朝最末期の時代設定と、白ワンピに黒ブーツのフェティッシュな清楚系お嬢様ファッションと、オーストラリアの大自然と、幻想的なカメラワークと、オープンエンドの後味の悪い脚本によって、永遠の12:00に封じ込めたカルト作。
少女たちの集団失踪事件を扱った映画ではあるが、原作ともども「オチがつかない」こと自体に意義を見出すべき作品であって、いわゆる論理的なミステリーとしては全く機能していない。むしろ「ロジカルにオープンエンド(解決のつかないエンディング)を設定する」ことで、巧みに観客を置いてけぼりにして五里霧中の状態に放置することを、緻密な計算でどまんなかから「狙った」作品である。
よって、事件の真相についてあれこれ考えても、もとより答えは出ないように出来ている。
一方で、全編にはりめぐらされた象徴性(シンボリズム)と暗喩(メタファー)の積み重ねは、本作が「少女性」を取り巻く危険と束縛、そこからの解放と自由の獲得を描いた象徴主義的作品であることを如実に示している。
「コルセット」と「革靴」と「教条的な校長先生」に象徴される、英国的で19世紀的で白人的でキリスト教的なヴィクトリア朝時代の「女性を縛る枷」。
彼女たちは、常に規律と教訓によってがんじがらめにされ、お仕着せの制服とコルセットと革靴によってきつく縛り上げられ、「善き淑女たれ」という周囲の要請する価値観にさらされている。
本作は、オーストラリアの原初的な大自然の力を借りて、それを少女たちが脱ぎ捨て、「まだ見ぬ自由」へと逃亡をはかる物語である。
純白の装束を身にまとったけがれなき少女たちは、
飼育される白い七面鳥の群れにたとえられると同時に、
優雅に湖上を泳ぐ、美しき白鳥にもたとえられる。
あるいは虫にたかられる柔らかそうな白パンに。
アップルヤードという学園名には、エデンの園と「原罪」の香りがつきまとう。
そこで、無垢なる少女たちは、蛇(トカゲや虫)による挑発と試練を受ける。
時の止まった12:00。現実と非現実のあわいで、知恵の実に手を伸ばしてしまう三人の乙女。
彼女たちは、神の束縛と知的制限からの自由を手に入れるが、一方で、楽園からは追放されざるを得ない……。
彼女たちの逃走劇の「触媒」となったのは、「霊山」であり「奇岩」だ。
オーストラリアでは、エアーズロックに代表されるように、「岩」がアニミズム的信仰の対象として原住民によって崇敬されてきた。
それは、キリスト教的なる人工の信仰体系とは対極にある、なにかしら土着的で、自然神的で、呪術的な、古代につらなる「モノリス」だ。
――そう、ちょうどイングランドにおけるストーンヘンジのように。
彼女たちは、「ピクニック」という非日常の「自由な空気」のなかで、この「霊山」の神秘の力を媒介に、一瞬のスキをついて、取りつかれたようにまだ見ぬ高みへと登ろうとする。
同時に、屹立する「山」が、男性的象徴としての機能を有している点も見逃せない。
山で失踪した少女の「コルセット」だけが喪われていたというのは、束縛からの解放を表わすとともに、性的な経験を通過儀礼として経たことの隠喩でもあるだろう。
これは、山で男たちに犯されて、かどわかされて、殺されて、埋められた、ということを直接的に示しているわけではない(校長先生は実際にそういうことが起きたと確信している様子だったが)。あくまで「概念的」な現象として「そそり立つ突起に自ら挑んだ少女たちがコルセットを外す」という事象が、少女性からの脱皮を示唆しているということだ。
そのなかで、小太りの少女(山においては体重によって大地に引き戻される存在)は、何かしらの危険(=キリスト教的な世界観からの逸脱)の気配を感じ取って、警告の悲鳴をあげながら隊列から脱落する。
それから、令嬢として富と名声を身にまとったダークヘアの少女も、一週間後に「異界」から「返される」。
結局、「あちら」の世界へと旅立って帰ってこなかったのは、才色兼備のマドンナとして学園で君臨していたミランダと、知的好奇心旺盛なメガネのアスペっ子と、男性的(マスカリン)な内面を備えた女性教師の三人だった。
彼女たちは、何かに「巻き込まれて」失踪したのではない。
彼女たちは、「高みへと登る」ことを目指し、
自らの意志で至高の地へと旅立ったのだ。俗世を捨てて。
そう考えれば、必ずしも本作は「悲劇」とは言えなくなってくる。
もちろんラストに待ち受けるのは、二つの悲劇だ。
「お姉さま」と「お兄さま」だけを慕う孤独な少女と、
「男性的な女教師」に心から頼り切っていたと述懐する老女。
俗世に取り残され、絆を断ち切られた二つの魂が辿った悲劇。
でも、女性があらゆる約束事に束縛されて自由に生きられない現世からの逃避、離脱を「前向きに」とらえることがもし許されるのなら、二人の決断もまた、必ずしも100%の悲劇とは言えないのではないだろうか。
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●『PaH』と「24年組」
森のなかの寄宿学校。同性愛的志向。
突出して優秀な、誰からも敬愛されるエトワール。
その死と不在が学園を呪いのように覆い、
静かな波紋が新たな事件を引き起こしてゆく……。
日本人なら誰しも、本作(1975)の持つ世界観と『24年組』――萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子、大島弓子ら――の挑んだ世界観との同時性(彼らの最盛期も70年代半ばだ)を感じざるを得ないだろう。
だが、日本の漫画家たちは、この映画を少なくとも1986年まで観ることは出来なかった(本作はピーター・ウィアー監督の『刑事ジョン・ブック 目撃者』がヒットしたのを受けて後追いで公開された)。要するに、両者はお互いを知らないまま、このような作品を作り合っていたというわけだ。
おそらくなら、僕の気づかない共通の始祖があるということなのだろうが、英米のメインストリームからは遠く離れた極東の地で、赤道を挟んでこれまた遠く離れた日本とオーストラリアのアーティストが、英国的な寄宿学校カルチャーを題材にとって、これだけ幻想的で耽美的な心に刺さる作品を競作していたというのは、とても興味深い現象だ。
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●『PaH』の東洋性
比較的なだらかで、素人でもハイキング感覚で登れる立地ながら、頂上付近には剥き出しの岩壁が土柱状に立ち並ぶという奇観は、関東近郊でいうとちょうど山梨の瑞牆山や群馬の妙義山を思わせるところがある(奇岩の洞を抜けていく感じは愛知県の乳岩っぽくもある)。中国でも、武陵源や桂林など、こういった岩峰を抱える奇峰は仙境として崇敬の対象とされ、格好の山水画の画題とされてきた。
その意味で、ハンギングロックの全貌を正面から映す冒頭のショットは、実に「中国」的で印象深い。
そそり立つ奇岩の絶壁と、低山の広がり、そして上部を広範囲に覆う湿潤な霞。
この風景はまさに、中国宋代山水の「郭熙の三遠――高遠・深遠・平遠」を想起させる画面構成だ。アボリジニ的というよりは、構図感が実に東洋的なのだ。
そういえば、東洋には「桃源郷」「隠れ里」の伝承が広く存在する。
要するに、深山幽谷まで分け入っていくと、この世の理から離れて隠棲できる理想郷があるとする考え方であり、「仙境」の思想が山岳信仰と深く結びついている一例である。
そして、そういう里に姿を消して帰ってこないことを「神隠し」という。
まさに東洋的な桃源郷幻想は、山の頂を目指すことで俗世からの転生をはかった少女たちを受け入れるには、ドンピシャの民俗学的背景だといえる。
だから、本作における岩壁のショットの、范寛『谿山行旅図』のような「高遠」を示す仰角アングルや、斧劈皴 (ふへきしゅん) ・披麻皴 (ひましゅん)を思わせる 岩肌の描写は、決して偶然ではなく、寄宿学校のキリスト教的な閉じた世界に、東洋的な「脱俗」の感覚を取り入れるための意識的な「寄せ」と考えたほうがよいのではないか。
桃源郷に入っている間は時間が止まるというのもいかにも東洋的な感覚だし、「足を縛っている拘束からの解放」が「自由」へとつながるというのも「纏足」を思わせるし。
あと、きわめて重要な言葉として、ミランダが「夢のなかの夢」というフレーズを口にするのだが、これって中国故事における「胡蝶の夢」だよね。
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●『PaH』と西洋美術
当然ながら、本作は西洋的な絵画史的伝統も深く受け継いでいる。
まず、森を描写する柔らかな陽光と、淡く茶色がかった色調は、僕にカミーユ・コローの風景画のそれを思い出させる。
それから、ピクニックと称して大自然のなかに配された美少女たちの姿は、マネやルノワール、スーラの印象派絵画、ブグローやカバネルのアカデミズム絵画、あるいはイギリスのラファエル前派の絵画(『オフィーリア』など)を容易に想起させる。
そのほか、「ハートの形をしたヴァレンタイン・ケーキをナイフで真ん中から切る」といった象徴的な表現や、鏡、写真立て、肖像画、グリーティングカード、ドライフラワー(「押し花」もまた抑圧と囚われの象徴だろう)などの印象的な使用など、絵画表現に由来する要素は随所で見ることが出来る。作中では女教師がミランダを「ボッティチェリの天使」にたとえるシーンも登場する。また終盤には、校長室の壁にラファエル前派と交流のあったフレデリック・レイトンによる『燃え上がる6月』の複製画が掛かっているのも一瞬目にすることが出来る。
何より、岩塊のふもとで少女たちが三々五々休憩しているシーンは、まごうことなき「活人画」(タブロー・ヴィヴァン=実際の人間を使って舞台上で絵画の一シーンを再現する見世物)の技法で作られており、パゾリーニやグリーナウェイとの相似性を感じさせる。
その他、備忘録。
●上記の白い七面鳥やコブハクチョウ、トカゲ、蟻以外にも、本作にはオーストラリアの動物たちが登場する。
二度、大群の群れでインコが登場するほか、青年の腕にセミが止まったり、青年たちが山狩りに出かけるときに、樹上でクモとカミカザリバトと別種のインコとコアラが順番に映し出されたりする。コアラってマジで野生でいるんだ! あと、探索の途中には、アゴヒゲトカゲが! それと動物ではないが、オジギソウ(笑)。
●音楽は、パンフルートの名手ザンフィルによる主題曲が大変印象的。パンフルートというのは、好色な牧神パンが自分から逃げだした処女のニンフが姿を変えた葦を使って作ったとされる笛で、本作の主題(処女性の永遠性、逃亡と変容)および田園画(パストラル)の伝統と深く関わっており、メイン楽器として実にふさわしい。
それと、少しマイケル・ナイマンとフランシス・レイを混ぜたみたいな感じの、緊張感のあるピアノメインのオリジナル曲も何度も出て来る。
クラシック曲もあちこちで援用される。一番かかるのがベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第二楽章。ほぼ第三の主題曲といった扱いだ。
それから、山への出発の際にはバッハの平均律クラヴィーア曲集のピアノ版が流れ、園遊会ではモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番第二楽章が、屋外のカルテットによって演奏される。あとは少女たちが歌う童謡とか。山に少女たちが登っているときは、ずっと得体の知れない謎の「ゴゴゴゴ」という響きが鳴っているが、パンフの監督インタビューによると、地震の音を効果音として入れているらしい。
●何はともあれ、ミランダ役のアン=ルイーズ・ランバートが可愛い!!! 以上。
追記:ネットで「The Lost Ending」なるものを発見!! 現在のラストシーンのあとの校長の様子を描いたファウンド・フッテージで、大変示唆的な内容だった。これは創元から出ている原作も読んで観ないとなあ。
アンランバート の神々しく儚げな美しさは大画面での一見の価値あり
ファンタジー
騙してるつもりはないだろうけど、 勝手に騙された 実話だと思って見...
騙してるつもりはないだろうけど、
勝手に騙された
実話だと思って見ちゃった
でも楽しめた
全編通して不思議な空気感があって、
異様な感じがしてそのせいで集中させられた
『え?これで終わり?』と思ったのは、
そこそこはまったからだと思う
コルセット
ミランダが美しい
ポッチャリとアルマは見つかった
失踪したミランダたちとは何が違ったか
彼女たちはきっと変化を恐れず、いろんな柵から解放されたいと強く願ったのではないだろうか
校長も解放されたかったんだと思う
10代特有の狭い世界の中で夢だけを見ているセイラは
せめて魂が解放され広い世界が見られますように
美しい良い映画だった
1900年 女生徒女教師失踪事件に揺れ動く周囲の人々 少女達の危うさ・儚さ・美しさを映す映像が素晴らしい
◇未開のオーストラリアと少女たち
1900年2月14日ヴァレンタインデイ、寄宿女学校のピクニックで起こった女生徒たちの失踪事件に纏わる物語です。時代背景は英国ヴィクトリア朝末期、翌1901年オーストラリア🇦🇺は、イギリスからの独立しています。
子供から大人へと変わっていく少女たちの持つ不可思議な生態、不安定ゆえに妖しい魅力を放つ一瞬。それは昆虫などに見られるメタモルフォーゼ<変態>に例えられます。栄養摂取に特化して生き残りと成長に最適化された幼生と、生殖機能を備えた成体の間で、形態が大きく変わることです。
オーストラリア🇦🇺🐨🦘が孕んでいる未開の自然の不可解さや謎めいた懐の深さと、少女たちが大人へと成長していく過程の美しく魅惑的なモーメントとが、綴織のように物語を構成しています。そして、ミステリーについては収束されず不明瞭なまま幕を閉じます。結末に投げ出されたような浮遊感と物語からもたらされる曖昧さがシンクロして、夢と現実が混ざり合っていくような余韻が長く響き続けているようです。
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