巴里の空の下セーヌは流れるのレビュー・感想・評価
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パリの空の下、人々は生きている
物語は ー
家の壁には銃痕が残る、戦後すぐのパリに住む人々の1日のお話。そこには金持ちも貧乏人も若者も老人も居る。それぞれが懸命に生き、運命こそは、残酷であり奇跡でもある、と語られる。
気になったのは、殺人鬼の見た一瞬の光。貧しい老婆の見た悪魔の黒い光と別の光だ。老婆は猫の餌代を貰うため、朝から街を歩く、夜になって諦めかけた時の、その黒と別の光を感じる顔は印象に残った。個人の予想だが「戦争で大切な人を失った老婆の生きる全ては猫にある」とすると猫への愛が勝るのは不思議では無い。ふたりへの光に関わった少女の存在も忘れられなくなる。そしてラスト15分を切った辺りからの急展開は思いも寄らぬ方向へと進み、胸の痛む気持ちと同時に、それでもパリは動き出す、と希望も感じる。
東京と違い、今も残る撮影当時のパリの街角には、実際、後に有名になるファッションデザイナーや写真家、そして画家達が居た。そんな彼らの持っていた夢を重ね合わせて鑑賞するのも趣の良い方法だと思う。映画の芯を見間違うと、埃っぽいツマラナイ映画になる。因みに挿入歌「パリの空の下」は、エディト・ピアフの歌で世界に広く知らしめ、この曲の持つイメージは音楽家や日本のテレビ制作者にも影響を与えた。また映画の公開された数年後、若い映画作家たちは、キャメラを手にパリの街角に飛び出して行った。
大切な映画のテーマは、この「パリの空の下」の歌詞の中に全て入っている。
※
巴里の空の下 全員救済は流れる
デュヴィヴィエ監督の映画の中では
「舞踏会の手帳」の次に好きな作品。
苦難に陥た登場人物が最後にどのように
救われるのかとワクワクして観た。
それだけに上京してきた若い娘と
殺人を繰り返す芸術家に
救いの手が届かなかったのは残念だった。
御都合主義を避け
リアリティ感を出するためか
最後まで救われなかった人物を
配置した狙いは分からなくはないが、
“花の都パリ”賛歌
の映画でもあるだろうから、
殺されてしまう若い娘には宝くじ当選に
加えて幼なじみの画家との恋の成就とか、
殺人者の芸術家はせっかく少女との出会いで
一度は心が洗われたのだから何か再生の
切っ掛けを与えて終えて欲しかった。
その他の登場人物が夫々関わり合いながら
救済されていく結末は期待どおりだった
ので、二人にも幸せになって欲しかったと
少しばかり心残りを感じる結末ではあった。
巴里は病んでいる・・
シャンソンの名曲、タイトルから古き良きパリ、ロマンティックな映画を想像したが真逆の露悪趣味、失望を禁じ得なかった。
いみじくも劇中に登場するタブロイド紙の三面記事をそのまま映画にしたような話。
上京した恋を夢見る田舎娘の非劇、猫の多頭飼いで餌代に苦しむ老婦人、商いに忙殺された八百屋一家、工場ストの労働者とその家族、孤独さのあまり切り裂きジャックとなった彫刻家、気の小ささ故に医師試験に落第し続ける医師見習いとファッションモデルの恋人などの脈略の無い話を神の声のようなナレーションで繋げてゆく。
まだ戦争の痛手が癒えていなかった時代なのだろうか、花の都とか芸術とファッションの街と言われるパリとは程遠い残念な下町が描かれる。パリに住む貧しい市民の本音なのだろうか金持ちを心無い人達、ファッションを商業主義と小馬鹿にし芸術家なんて糞くらえと言わんばかり。
陳腐なナレーション、浅薄な人物描写、殺人鬼が自ら精神を病んでいるとカミングアウトするものだろうか・・。パッチワークのような技法とメッセージ性の強さばかりが際立つ作家性の強い映画、巴里のイメージを覆して誰が喜ぶのだろうか・・。
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