巴里の女性のレビュー・感想・評価
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心の内面を解き明かす演出に挑戦したチャップリンのエドナ・パーヴァイアンス讃のシリアス・メロドラマ
喜劇王チャールズ・チャップリン(1889年~1977年)が、1913年24歳の時にキーストン社と契約して舞台から映画界で本格的に活動を始め、それから10年の節目に制作された最初のシリアス・メロドラマの長編映画。放浪紳士の独特なスタイルは忽ちコメディスターとして不動の人気を獲得して、エッサネイ社、ミューチュアル社、ファースト・ナショナル社と移りながら契約金をつり上げ、より良い制作条件を要求していた時代です。ファースト・ナショナル社時代のユーモアとペーソスの傑作「キッド」(1921年)で長編映画に自信を持ったとき、自分が作りたい映画を制作会社の干渉に左右されないために、既にダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、D・W・グリフィスと共にユナイテッド・アーティス社を1919年に設立して準備していました。ここに独立最初の作品に対する、チャップリンの作家としての挑戦と意気込みが感じられます。
一つは短編コメディ映画の相手役として最良の相性で共演してきたエドナ・パーヴァイアンス(1895年~1958年)の本格的な女優の映画を作りたかったこと。二人が出会ったチャップリン26歳とパーヴァイアンス20歳から8年目の彼女への感謝を込めたプレゼントだったのです。結婚しても不自然でない間柄は、パーヴァイアンスが亡くなるまで深い信頼関係で結ばれていました。反面、天才チャップリンの私生活唯一の欠点が、純粋無垢で無邪気な美少女を愛して、結局裏切られることです。「キッド」制作中には、妻ミルドレッド・ハリス19歳との離婚裁判でフィルムを没収されそうになる危機に瀕しています。美しくも幼い女性の怖さを身に染みて経験していたチャップリンは、その後も「キッド」に出演したリタ・グレイで再び同じ目に遭っています。このお金に執着する美女に苦労したチャップリンの女性観も、この女性映画の脚本に反映されていると思われます。そして、もう一つはヒットが見込めるコメディではなく、シリアスドラマ演出の才能で映画監督チャップリンを世に問いたかったことです。コメディ同様に観客に歓迎されるチャップリン芸術映画への新たな挑戦の試み。その為にチャップリン自身は荷運び人のカメオ出演のみで、パーヴァイアンス一人主演の演出に専念することでした。
制作当時の1920年代の巴里を舞台にした現代劇のメロドラマ。第一次世界大戦後の解放と経済の発展が(狂乱の時代)といわれる活気と享楽の世相です。ウディ・アレンが「ミッドナイト・イン・パリ」(2011年)で華やかに再現した巴里は、芸術文化の中心地であり、ムーラン・ルージュなどのキャバレーやダンスホールのナイトライフに、カフェ、ジャズ、社交からの性の開放、そして女性のファッションではウエストを締め付けるコルセットを取り払い曲線美を見せない女性の変革。ココ・シャネルのデザインは自由で快適なスタイルを提案し、伝統的な規範に囚われないフラッパーと称する女性の生き方を支える。日本でいえば着物から洋装に変わったことに当て嵌まるかも知れません。映画のプロローグで主人公マリーは、ジャンとの結婚を父から反対され家から閉め出されて、ジャンの両親からも快く思われず、勘違いとは言え、ひとりパリ行きの夜行列車にのって婚約者を棄ててしまいます。ジャンの母が予感していたとまで言い切れないものの、マリーはパリで娼婦となり富豪ピエールの愛人になっている。サイレント期のこの時代は、妖艶で魅力的な女性が男を手玉に取り、翻弄して破滅に至らせる悪女映画の男性の為の教訓ものが多かった。しかし、貴族出身であろうピエールは、マリーに無我夢中でもないし、と言って別の女性と結婚しても贅沢な生活を支える余裕を見せます。お金さえあれば男の甲斐性も許され愛と性をバランスよく享受できる。私生活で躓いたチャップリンの理想の男性像が、ピエールの寛容さに透けて見えます。マリーが友人のパーティ会場を探して、偶然にもジャンのアパルトマンで再会したことが悲劇の起点です。彼に会わなかったら、何不自由ない愛人生活を満喫したであろうマリーの運命劇でした。映画タイトルを『チャップリンの運命』と最初考えて、「巴里の女性」の副題に、運命のドラマと付けています。
チャップリンと交友関係にあった女優ペギー・ホプキンス・ジョイス(6度の結婚と50の婚約?)の巴里の逸話から発想を得たチャップリンのオリジナル脚本が、緻密で流動的に展開する。しかし、ピエールを演じたアドルフ・マンジュー(1890年~1963年)によれば、撮影時に脚本は無く、全てはチャップリンの頭の中にあって演技指導したそうです。完成後“ごくありふれた物語を一変させた”と感嘆した感想を述べています。この約90分の人間ドラマの撮影に7か月かけたチャップリンの執念とこだわりは、偏に独立プロダクションだから遂行できたことでした。その俳優たちの演技は、サイレント特有の大袈裟なパントマイムで喜怒哀楽を表現するものでなく、可能な限りリアルを追求しています。波乱の私生活から得たチャップリンの男女の観察は、“男も女も感情を表現するよりも、むしろ隠そうとする”と悟り、心の内面を解き明かすことに、この作品の真価があります。100年後の現代から見れば、ごく当たり前のことですが、この20世紀初頭のトーキー映画出現前の映画表現では、画期的な事でした。だから批評家から絶賛されても、当時のチャップリンコメディを愛し期待した観客には、全く受けなかった。派手で劇的な演出と感情に訴える演技を求めていたのは仕方ないことでした。
母を亡くし厳格な父と二人だけのマリーの家庭、父を失い母子共に喪に服すジャンの母を説得できない未熟さ。悲劇の萌芽は家庭環境から、人との偶然の出逢いで翻弄される人間の運命を実に丁寧に構築していて、地味ながら深みがあります。演出で興味深かったのは、ジャンから再び求婚されて悩み、心が満たされていなかったことに気付いてピエールに怒りをぶつけるマリーが、高価な真珠のネックレスを引き裂き、路上に投げ捨てるシーンです。本当にジャンが好きならピエールの厚い庇護から逃げ出せばいいだけです。しかし、一度贅沢を知ってしまったこその悩み。見知らぬ男がネックレスを拾い逃げ去ろうとするのを見て、マリーが追い掛けます。それを見たピエールの笑いが止まらない。マリーは男からネックレスを奪い返し、代わりに幾らかのお金を渡す。帰って来たマリーのヒールのかかとがもげている細かさ。マリーの物欲と転んでもただでは起きない逞しさ、それを面白がるピエールの余裕は、ある面女性蔑視とも取れるも、そんな自分に素直なマリーが好きな男の少年のような感情も感じられて、流石男女の修羅場を経験した34歳のチャップリンと感心してしまいます。ここの演出はコメディタッチで培ってきたチャップリンの人間描写としても優れ、唯一ユーモアのある名場面でした。しかし、ジャンとの結婚に傾きかけて訪れるも、運命の悪戯で母親に嘘を言ってなだめるジャンに出くわすマリーの不運。言葉一つで状況が激変する男と女の姿。その後、ピエールとマリーが同時に電話をかけて翌日のデナーを約束するシーンが巧い。門前払いのジャンが寂しくアパルトマンに帰る描写との対比が見事です。翌朝、マリーがエステを受けているところに友人フィフィが現れ、続いて前日ピエールと食事をした友人ポーレットが加わるシーンの面白さ。ピエールの浮気現場を目にしたフィフィが一方的に話します。ただカメラは寝たままのマリーを撮らず、仕事をしながら聴き入るエステティシャンの何処か呆れた表情を執拗に捉えています。これがいい。マリーとポーレットの駆け引きは、ピエールに電話でデナーの時間を確認するマリーの勝利で決着。エルンスト・ルビッチは、この作品に影響を受けて翌年に艶笑喜劇の傑作「結婚哲学」を発表しますが、このシーンにも感心したのではないかと想像します。そして、悲劇の決着はジャンが拳銃を準備するショットで大方予想が付きます。事件後ジャンの母親が復讐心から拳銃を持ってマリー宅を訪ねる展開の驚き。留守で自宅に戻ると、ジャンの遺体にすがりつき泣き悲しむマリーを見て、ジャンを愛していた自分と同じと気付く母親の心理描写は、いかにもサイレント映画の模範のようでした。母親が手を差し伸べて握り絞めるマリー。愛を成就出来なかった女性二人がこじんまりとした孤児院で細々と田舎生活を送るシーンに、ピエールを乗せた車がすれ違うエピローグのさり気無いエンディングも味わい深く、悲劇でも明日の光が感じられて観終えることが出来ました。
エドナ・パーヴァイアンスは美しくも派手さは無く、贅沢を取るか愛を取るかに悩む女性の心理を丁寧に演じています。愛人の立場だと悪女になりがちですが、チャップリンの演出にあった好演でした。特に出色の存在感は、「結婚哲学」「モロッコ」「オーケストラの少女」のアドルフ・マンジューの貫禄もある飄々とした演技でした。実業家の貪欲さのない、資産が有っても無くても理想の男性像に見えます。この時、33歳の俳優にはとても思えません。ジャンのカール・ミラーと母親のリディア・ノットはサイレント期の俳優さんらしく、良いキャスティングです。この時66歳のリディア・ノットは、サイレント期の名花リリアン・ギッシュの雰囲気をもった女優さんでした。ウェイター役のヘンリー・バーグマンは、チャップリン作品に20年間携わった映画人で、時に演出助手も務めた盟友で短編映画ではなじみの俳優さん。撮影は、殆どのチャップリン作品を担当したローランド・トザローと、ジャック・ウィルソンという人。田舎の駅で夜行列車を待つマリーに列車の窓の光が射す印象的なショットは、トザローのアイデアのようです。
タイトルなし(ネタバレ)
途中寝てしまった。
音を消して二倍速でもう一度見た。
ものすごく、複雑な映画。
コメディーではないと最初にことわるが、そもそもそれがコメディーの始まりの様な気がした。
描かれるは
・恐慌前のバカ騒ぎ。
・厳格なまでの父権社会。
・信用のおけぬ人間関係。
・付和雷同な料理人。
・子離れ出来ぬ母親
そして
・人生の選択を間違え続けて、たどり着く幸せ。
ナチスが台頭しつつあるヨーロッパの行く末を笑い飛ばしているように感じるが。
2回見てよかった。
傑作だと僕は思う。
チャップリンの発展途上的作品ながらも、最終的に「ライムライト」という感動作を…
未鑑賞のサイレント時代の
チャップリン作品だったが、
日本映画が対象となっていなかった
1924年第1回のキネマ旬報ベストテンでは、
“芸術的に最も優れた映画”部門で
堂々の第1位だった作品。
しかし、専門家には賞賛されたものの、
チャップリンらしからぬ作品として、
興行的には失敗したシリアス劇であると
ネットの解説にあった。
この作品、贅沢な愛人生活よりも、
人の想いを知っての
“巴里郊外の女性”
となった主人公には
流石にジーンと来るものがあった。
しかし、全体的には不満が残る。
レストランのバックヤードでのエピソードや
上流社会の乱痴気パーティ等に
時間を割く割には、
主人公が富豪の愛人になる経緯や、
画家の男性の
交際に反対していた母親を連れてのパリ登場
などが唐突過ぎてはいないだろうか?
また、レストランのシーンで
意味ありげに登場する富豪の女性やその息子
はそれっきりだったが、あの意味は?
そして、間違いにしては
あからさまに偶然過ぎる2人の再会、
更には、画家の男性が
いきなり拳銃を持ち出すという
これも唐突過ぎる設定、
等々のまとまりに欠けた作品と
言わざるを得ない印象を受ける。
敬愛するチャップリンの
初期サイレント作品ではあるが、
まだまだ発展途上的作品には感じた。
しかし、
その後のチャップリン映画は名作揃いで、
最終的に彼は、
我が生涯におけるベスト10映画の一つ
「ライムライト」という感動作をも
私に届けてくれたのだった。
芸術的勝利‼️
チャップリンが主演しない唯一の監督作品で、シリアスなんですが、かなり完成度は高い作品です‼️ヒロインのマリーは恋人と駆け落ちするはずが、運命のいたずらで一人でパリへ。富豪紳士の愛人となって社交界の花形になる。恋人もパリへ出て画家となるが。またも運命のいたずらから恋人は自殺。最愛の息子を失った母親と、最愛の恋人を失ったマリーは理解し合い、故郷で孤児院をはじめる・・・‼️駆け落ちを約束した駅で、マリーの体に列車の窓から漏れる明かりが右から左へ当たるシーンは名場面‼️さらに馬車と自動車がすれ違うラストシーンも超名場面‼️微妙な女ごころと愛の哀しさを、コメディ・キングのチャップリンが描いた点が、この作品の価値をさらに高めてますよね‼️
【”幸福の秘訣は、他人に尽くす事”愚かしくも愛らしい女性の、波乱の半生をチャールズ・チャップリンが監督に徹して描いた作品】
■恋人で、絵描きのジャンと駆け落ちをする約束をしたマリー(エドナ・パーヴァイアンス)。
しかし、駆け落ちの夜、父親が急逝したジャンは駅に行くことができず、何も知らないマリーは失意のなか1人汽車に乗り、巴里に行く。
巴里で富豪の紳士ピエールの愛人となっていたマリーは、彼女と別れた事を悔いて巴里に来たジャンと偶然再会する。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・軽やかな音楽が流れるサイレント映画だが、内容は可なりシリアスである。
・特に、ジャンが又会いたいとマリー宛のメモを、レストランでピエールに呼ばれ同卓に座ったジャンが見た時に、激昂し自ら拳銃自殺するシーンからの、ジャンの母親が銃を持ちマリーを殺しに行く形相や、マリーに会えずに自宅に戻った母親が、ジャンの遺骸を抱きかかえ、涙する姿を見て銃を静に置くシーンなどは、観ている方もしんみりする。
<特に、マリーがジャンの母親と孤児院を営むようになり、オンボロな馬車に乗って出かけるが、その脇を猛スピードで逆に車を飛ばすピエールと共に、お互いに相手に気付かずにすれ違うシーンなどは秀逸である。>
幸せとは何か
チャップリン
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