劇場公開日 1954年6月22日

「つまるところ暴力しかない絶望」波止場(1954) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0つまるところ暴力しかない絶望

2022年3月12日
iPhoneアプリから投稿

『欲望という名の電車(1947)』に続き、ホモソーシャルの残酷さと愚かしさを映画の表現語彙で巧みに描き出した怪作。

主人公テリーは「元プロボクサー」という暴力表象と「ハト飼い」という反暴力表象の間を彷徨する迷い人。しかしイディという女性やバリー神父との交感を通じて少しずつマッチョイズムの空虚さを自覚していく。

テリーは波止場仕事の不法占拠者でありホモソーシャルの牙城でもあるギャング集団に反旗を翻す。もちろん暴力を振るうのではなく、正式な法廷でギャングたちに不利になるような証言を行った。

しかしこのことによって彼は波止場の仕事仲間の男たちからハブられてしまう。「法廷で証言なんてお前女々しくてダセーな」といった感じ。人員点呼でテリーだけが名前を呼んでもらえないシーンはいかにもホモソーシャル特有の湿っぽい悪意が感じられた。

このあとテリーはギャングに最終決戦を挑むことになるのだが、彼はギャングからの攻撃に応戦する形で結局暴力を振るってしまう。思えば反暴力の表象であるハトをギャングたちに皆殺しにされてしまった時点で、彼は否応なく暴力の側に引き下がらざるを得なかったのだろう。拳を振るいながらも苦虫を噛み潰したような表情のテリーが不憫でならなかった。

ギャングとの決闘の末、テリーはノックアウトさせられてしまう。しかしそれを見ていた仕事仲間たちはテリーの勇気に鼓舞され、ギャングへの反感を強めていく。ホモソーシャルの暴力性を知らしめるためには結局のところ暴力に頼らざるを得ない、という皮肉なジレンマだ。

物語はテリーとその仕事仲間たちがギャングの制止を振り切って波止場のガレージの中に消えていくところで幕を閉じるが、神父が言うように「本当の戦いはこれから」なのだと思うと手放しには喜べない。『欲望という名の電車』よりはいくぶんか希望のある終わり方だったが…

因果