バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリストのレビュー・感想・評価
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贖罪
ニコラス・ケイジverはだめ。
やっぱりフェラーラ&ハーヴェイverでしょ!!つか、こちらが本家ですもん、格が違う!
フェラーラ怒って当たり前٩( ᐛ )و
今回のリバイバル上映の情報を教えて頂き、スケジュールにねじ込み滑り込んだ!
この作品は、全体的に不快感全開なのだが、、
人間の罪と罰、贖罪がテーマなんですよね。
そこに宗教も絡めて、タブーに踏み込んだ、フェラーラの挑戦的な作品とも言える。
今回のリバイバル上映用?のポスターが、、おう!!!
「すべてを晒せ」のキャッチコピーと全裸のハーヴェイ様。
苦悶?恍惚?後悔?悟り?
如何様にも解釈出来そうな彼の表情含め、正に本作を表現しているものだった。
キリストの様でもありインパクトがあります。
しかし、ハーヴェイ演じる警部補LTは薬物に溺れ、アルコール依存。
買春を繰り返し、野球賭博で借金まみれ。。と、自らの職業とは真逆を行く、どうしようもない男。
はい、クズです。
そんなLTだが、罪の意識に苦しみもがき、人格崩壊寸前ながらも、刑事として、父親として、人間としての正義感を、僅かながらに残している。
その僅かな正義感がへばりついているが故に、悪事も信仰心もどれも中途半端で小物なのだ。
シスターの信仰深さに、自分の弱さと罪を自覚した時。。。
やはり
無宗教で、信仰心とはどういう事なのか、想像では補いきれない私では、本作の全てを捉える事は不可能だと痛感する。
しかし、どんな人間でも、あちら側に行ってしまう可能性がある事。
紙一重なんだという事はわかる気がするのです。
死の恐怖が近づいた時。
今までの己の行動への後悔、懺悔の気持ちが湧き上がり、あの(語り継がれる)狂気的な程の"泣き"に繋がる。
完全悪になっていればあの慟哭はなかったのだろうな。
罪を犯す事で神の存在を確かめているかのよう。
だから神の意思に背く。
本当は魂の救済を求めている人物だったのだと思う。
LTの虚しくて哀しい人生に意味はあったのか?
ラストは救いだったのか?
赦しを請う事は出来たのか?
私はなぜこんなに胸が痛むのか。
何回見ても整理がつかない異形の傑作。
このクズで惨めな男・LTの痛みをわかりたいと思うのです。
まともになろうとしたが、俺は弱かった
こないだ鑑賞してきました🎬
ハーヴェイ・カイテル演じる薬物中毒・ギャンブル依存のLTという警官が、自分を襲った男二人を許そうとしているシスターの信心深さに触れて⋯。
かなり重たい内容でしたが、ハーヴェイ・カイテルの演技が光ってましたね🤔
教会で心情を吐露する場面は、魂がこもってます。
シスターの「彼らは私を愛していない。でも私は愛さねば」という台詞は信仰心がなければとても言えません。
最後のLTの選択、その後のラストシーン⋯因果は巡るということでしょうか。
ある意味リアルでした。
JESUS
正直、かなり判断に迷う作品でした。
主人公は絵に描いたような悪徳刑事なのだが、しかし何というか、思ったほど悪くない。
勿論法に触れることも教義に反することもやる。
でも例えば、無免許の女性2人に対して直接的な性加害にまで及ぶことはなかった。
賭博で負け込んだ際の立ち振る舞いも含め、“悪”として非常に矮小でみっともないのだ。
それ故か、ほぼずっと悪事を働いているのにどこか滑稽。
シスターと対話を重ねるのかと思ってたら、直接会うのは一度きり。
だがこの数往復の会話で主人公は耐え難い衝撃を受ける。
それにより彼は、幻のイエスに向かって怒りと懺悔をぶち撒ける。
過去が明かされることこそないが、彼自身が堕落から抜け出せない自分を一番憎んでいた。
この一点のみに関しては、誰しもが共感しうる要素を孕んでいたように思う。
作中で説明的な描写は一切ないし、文化にも宗教にも疎い自分に本質は捉えきれない。
描かれた出来事すら正確に拾えてないと思う。
個人的には、「神はただそこに在るのみで、自身も他人も赦しを与えられるのは己のみだ」と受け取った。
主人公が犯人らに与えたそれは、彼自身が語ったように別の悲劇を生む可能性がある。
あれは自己を救うために他者を赦した独善にすぎない。
観る人や時によって、受け止め方の変わる作品だと思う。
顔も隠さず知人を襲い、特徴的な盗品をそのへんの質屋に売り捌く犯人は阿呆過ぎるが。
子役含めドキュメンタリーのように実在感のある演技と、ラストカットの秀逸さが光っていた。
公開時から
二度目の鑑賞。あれからメジャーリーグとか色々知識を得たので、ちょっと違った観方が出来た。一番笑えたのも、敗戦に激怒してカーラジオにぶっ放す所。カイテルかいてる?と下品な冗談が公開時一番の興味でしたが、少ない音楽の使い方とか良かった。カトリックなんで中絶しないんでしょうね、ジーザス自身を出したのが最大の問題点ではなかったか? 仏心?を出しちゃってどうなのってエンディングでしたが。
この後「ピアノレッスン(未見)」、「レザボアドッグス」とまるでハーヴェイカイテル祭。
繊細・真面目なご婦人にはオススメ出来ない
裏通りのスコセッシとも言うべきか、この作品の罪と贖罪のテーマは決して不真面目なものではないどころか大変真摯なものではあるのだ。
しかしいかんせん都会の悪徳という舞台と人物と描写が、俗物を極限まで追求したものとなって不快極まる舌触りへと仕上がっている。
それもまた取り上げたテーマである、罪を贖うべき現実への真摯な取り組み故だ。
作り手が定めた、その聖なる題目を真面目に追究する為の手つきであるゆえ、不快さは逃れられないものであるのだから、こちらもしかとまなこを開いて目撃する覚悟が必要である。
それが叶わぬ鑑賞者なら回れ右だ。
さてもそれは男の私でも思わず眉を顰めてスクリーンから顔を逸らす有様であった。
私が当時この映画を観劇した有楽町マリオン横の今はない小屋はいつになく活況を示していた。
直前に話題作となって御婦人方が多く駆けつけた『ピアノレッスン』。
そこにおける、かつてのC.ブロンソンを継ぐような「心優しき野獣」の優れた演技によって奇跡的に(失礼!)ファンが増えた我等が兄貴ハーヴェイ・カイテル。
彼を目当てに本作をよくわからず観に来たと思われるマダム方が劇場の狭い客席を多く占めていた。
本作上映早々に次々と繰り出される、カイテル演じる刑事の想定以上の不快極まる無様な自堕落無軌道描写。
その確信的毒針が放たれる度に、ご婦人方はシートから頭がのけぞるほど拒否反応を示した。
そののち、こんなモノを観る為に来た訳じゃないわとばかりに次々と退場する始末。
それはある意味この作品のあるべき姿としての監督の企みは大成功したわけだ。
しかしながら哀しくも麗しいものを観にきたつもりの御婦人方には大変気の毒ではある。
映画後半の刑事の戸惑いと葛藤と慟哭は、彼の俗物を極めた成れの果てだ。
それは図々しく高みから見届ける我々観客の人生態度を示唆し懺悔を促すようでもある。
これは優れた映画に度々みられる原型である。
終幕は巧妙に無慈悲に、観客の唯物自我廃液で肥大した右脇腹の肝臓をゆっくりと槍で突き刺す。
イエスからの戒めによったそのスティグマをして、観客自身を自己救済の懺悔の入り口へ誘なう事に成功している。
我等黄昏れに至って「彼」は現すのみにて「我」はすでに彼の示しを予め得ていた事を漸く思い出すのだ。
~良い刑事、悪い刑事~
監督はアベル・フェラーラ、主演のL.Tは『レザボア・ドッグス』や『ナショナル・トレジャーシリーズ』に出演したハーヴェイ・カイテル。脚本を担当したゾーイ・ルンドは皮肉にも公開された7年後に薬物中毒で亡くなってしまう。
L.Tは息子たちに対して厳格な父親像を見せているが、徐々に本当の姿を現してくる。実は刑事でありながらも薬物中毒で、刑事仲間と野球賭博をしている。喧嘩の仲裁では銃を撃ち、若い女に卑猥な行為をする。町は裕福な所もあるが主人公は闇の部分で暗躍する。友人の刑事も善意は欠けている。まさしく「悪い刑事」を体現しているのがL.Tだろう。野球ネタはハリウッド映画では定番だ。副題に野球をつけてもおかしくないぐらいくどく出てくる。あまり興味がない人からすると注意深く見聞きしないとストーリーから置いていかれそうだ。
この作品の副題に「刑事」「ドラッグ」「キリスト」の三つの言葉が付く。敬虔なキリスト教徒でありながらも神にたてつく行為でしか自分の存在を証明できない悲しき信者でもある。家族写真の上でドラッグを吸うシーンなどは胸が締め付けられる。修道女がレイプされた事件が起きると、L.Tとキリストとの対峙を予兆が始まる。L.Tは友人にも止められるほど危険な賭けを挑む。売人から薬の売り上げを回収して帰るシーン、薬物の影響と危機感からかL.Tは恐怖と孤独におぼれていく。L.Tは修道女に犯人を自分だけ見つけたら抹殺をすると語るも修道女は慈悲深くそれを断る。これはL.Tにとっては予想外の答えだった。彼は自分の弱さ暗に償いたかったのだ。しかし相手は神に仕える一人の女性でしかない。修道女が去りL.Tが振り返るとイエス・キリストが姿を現す。L.Tは懺悔と救済を求める。後ろに神、前にキリスト、もう逃げ場などない、すべてを洗いざらい吐き出す。L.Tは犯人を見つけるとこれまでにないぐらい落ち着いて野球を見ながらドラッグを吸う。しかし、犯人を捕まえずに犯人を町から追い出す。罪人の救済はキリスト教の教えにあるがもちろん事件の解決や犯罪に対する処置とは違う。しかし、最後に刑事として罰を科して、同じ罪人として許した。これは修道女が望む最善の結果でもあったのかもしれない。そんなL.Tの最後は死であるのは納得する。もはや、死は不可避だったろう。最後、少しながらもいい刑事になれたのではないだろうか。良い刑事、悪い刑事という定番のシチュエーションはあるが、自らが表裏一体のように二役するストーリーは珍しい。しかし、この程度の償いでは悪から抜け出せない。だが必要悪としての役割は果たそうとしたのではないだろうか。他人の罪を被る、まさしく、キリストの伝道と同じシチュエーションと言えるだろう。本人としては一人の人間としての救済を求めていたように見えるが、むなしいことに他人からは刑事としての側面しかL.Tを知らない。
しかし、普段は無関心な信者がここぞという時にすがる姿は正直自分にも思い当たる節がある。日本人は宗教に対してよく言えばミーハーだが、やや宗教を都合よくとらえているところがある。無宗教だが無神論ではないのは国が違えば侮辱に値するだろう。主旨と違うが、自分には宗教を見直す機会となってしまった。
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