バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリストのレビュー・感想・評価
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ストロベリーは助けてくれない
スコセッシの初期作品『ドアをノックするのは誰?』と『ミーン・ストリート』でハーヴェイ・カイテルが演じた役柄を彷彿とさせられる、まるでその二作の後日譚みたいな本作での熟した危険な香りが破廉恥に呻めき泣く破滅一直線で救われない男、赦されることはなく救われるために赦したようでにしても最後まで自分が中心でもがき苦しむ、ニューヨークとキリストをハーヴェイ・カイテルで描いたスコセッシとアベル・フェラーラを分けるのはインディーズとハリウッドの違いくらいか、いつでも過ぎる神の存在??
衝撃的な暴力シーンや主人公が全編を通して過剰に振るう訳でもないのに全体に醸し出される暴力の臭いが雰囲気的に薄まることはなく、何かしら全ての場面が痛々しくて負のオーラが全開に登場人物誰に置き換えたとしても何か危ういままで。。。
公開時から
二度目の鑑賞。あれからメジャーリーグとか色々知識を得たので、ちょっと違った観方が出来た。一番笑えたのも、敗戦に激怒してカーラジオにぶっ放す所。カイテルかいてる?と下品な冗談が公開時一番の興味でしたが、少ない音楽の使い方とか良かった。カトリックなんで中絶しないんでしょうね、ジーザス自身を出したのが最大の問題点ではなかったか? 仏心?を出しちゃってどうなのってエンディングでしたが。
この後「ピアノレッスン(未見)」、「レザボアドッグス」とまるでハーヴェイカイテル祭。
It ' s Happiness Here
最悪な刑事が、莫大に膨らんだ野球賭博資金を返済できなくなり、
賭博の元締から殺されることを意識した時、
全身が恐怖で震え出し、教会に思わず逃げ込み、
強姦された尼僧に自身の性加害者を何故許せるのかを問い詰める。
尼僧の答えに納得いかないが、
死の恐怖と今までの卑劣な凶悪な行為が甦りザンギザンゲによる慟哭がむくむくと突き上がり、
何度も哭き叫び狂気の熱演が続く…
それにしても、
何故、この警部補はこんなに悪質な刑事になったのかがわからない。
分かることは、そんな刑事を産み出すブロンクスと言う環境にいることなんだと思えた。
それは、ラストに彼の車の止まった場所のビル看板に、
確か、
It ' s Happiness Here と言うように書いていたなぁ
( ̄∇ ̄)
バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト
「キング・オブ・ニューヨーク」「フューネラル」などで知られるアメリカ・インディーズ映画界の鬼才アベル・フェラーラの代表作のひとつで、
ニューヨークを舞台に、暴力と弱さのあいだで葛藤する人間と都市の暗部を描いた人間ドラマ。
ニューヨークに暮らす警部補のLTは、
麻薬、賭博、買春など、警察官としてはもとより、人としてもあるまじき行為の数々に明け暮れている。
ある日、教会の尼僧が強姦されるという事件が起こる。
LTは野球賭博でできた借金を穴埋めしようと、懸賞金5万ドルがかけられた犯人を捕らえることに躍起になるが、
被害者である尼僧が犯人を許そうとしていることを知る。
賞金のためにも尼僧に犯人を告発するよう懇願するLTだったが、
逆に彼女の信仰深さや敬けんさに触れ、おのれの弱さや罪深さに気づいていく。
1992年のカンヌ国際映画祭で上映されるも、ショッキングな描写や内容から賛否を呼んだ。
不道徳な世界で生き、悪徳のかぎりを尽くしながらも、
もがき苦しむ主人公LTを、「ピアノ・レッスン」「スモーク」などで知られるハーベイ・カイテルが怪演。
バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト
劇場公開日:2024年1月19日 96分
悪徳の街ブロンクスをバッドLTが往く! 1992年のハーヴェイ・カイテルをはしごする、その2
1992年のハーヴェイ・カイテル主演作のリヴァイヴァル上映2本を、新宿ではしごするマイ企画その2。
ピカデリーで『レザボア・ドックス』を観たあと、いったん矢来町に移動してモンゴル料理を食したあと、ふたたび新宿に戻って、シネマートのレイトショーでこちらを鑑賞。
なんか、今日一日だけで、3桁回は「ファッキン」を耳にしたような(笑)。
ハーヴェイ・カイテルを愛でる映画としては、これ以上ないくらいに彼の魅力が詰まった映画だし、この内容に聖職者レイプと実体としてのキリストを絡めること自体、向こうの映画界ではかなりのタブーに踏み込んだ勇気ある作品であることもよくわかる。
とはいえ「悪徳刑事もの」としては、少し一本調子だったかもしれない。
出だしから薬漬けで淫売宿に入りびたり、恐喝に痴漢に置き引きとなんでもござれで、おまけに野球賭博にどっぷり浸かって首がまわらなくなっている。
(薬と酒と野球賭博って、日本の悪徳刑事とやってることが全く同じ!!(笑))
たしかに、終盤に向かうにしたがって状況はどんどん悪化していくのだが、どんどん悪行がエスカレートしていくというよりは、おんなじような調子でずっと悪いことをしているので(笑)、いまひとつドラマとしてのメリハリに欠ける点は否めない。
僕自身は、刑事が悪いことをしていたからといって、それで何か内なる道徳心に響く部分など微塵も持ち合わせていないし、むしろ悪の論理をもって悪を討つような悪徳刑事には、おおいに親近感を抱くタイプである。僕は政治家や法曹家や官僚でもそうだが、悪を相手に仕事をせざるを得ない人間には、絶対に悪の素質がないといけないと信じているし、むしろ同等の悪のパワーで政財界の悪や犯罪者たちをねじ伏せる胆力が欲しいと願っている。だから選挙に際しても、あたら正義を振りかざす軽薄な輩や清貧さを売りにするスマートガイだけは絶対に受からせまいと心に念じて、投票活動にいそしんでいる。
ただこの刑事の場合、単に「素行が悪い」だけで、悪徳刑事としての眼力で悪の存在や悪のロジックを見破り、悪を共食いしていくような気概はぜんぜん感じられない。
単なる、破滅型というか、流されやすいだけというか、依存性が高いだけというか。
その日を乗りきるのがやっとで、権謀術数で上昇志向を示す様子もない。
悪としては、二流、三流。ガーシーかマーシー並みのヨワヨワである。
それどころか、彼は家庭では「いいパパ」として、平凡な生活を送っている。それは別段、悪を隠すための「擬態」ではなく、おそらく彼のもう一つの本質(むしろ、本当はそうでありたかった自分)なのだ。
こういう「悪」は、ちょっといただけない(笑)。
『コップランド』のときのハーヴェイ・カイテルのほうが、よほど「バッド・コップ」だったぜ。
あとは、なんといっても終盤の展開ですかね。
個人的には、刑事が唐突な暴力的衝動に駆られて、気高き神への想いを説く修道女を再レイプの上くびり殺して、その罪を最初のレイプ事件の実行犯であるごろつきの少年ふたりになすりつけて、このふたりも逃亡させると見せかけて途中で殺して、街から逃げようとしたので撃ちましたと申告し、最後は阿片窟で高笑いしながらジ・エンド、みたいな映画をぼんやり夢想しながら観ていたので、なんだかずいぶん甘ったるい流れにするんだな、というのが率直な感想だった。
僕は高校時代、クラス内で回し読みされて流行っていた梶原一騎の『愛と誠』を読んで、クラスメイトに「早乙女愛なんかに心を奪われて、外道としての生き方を踏み外したから、太賀誠は脆くも滅びるしかなかったのだ。これは博愛主義の光に目をくらまされて、凶器としてのひりつきを喪った男の敗北の物語だ」と壇上で一席ぶっていた人間であり、今でも基本悪い奴が改心すると、ろくなことにならないと信じている。
悪は悪のまま、悪を生き抜いてこそ、悪の華は毒々しく咲き誇るのだ。
だから、この物語における悪の末路には、いまひとつしっくりこない。
要するに、僕は自分がなり切れないけど憧れている「悪」に染まった人間の暴走と悪行三昧をスクリーンで堪能したかったのに、あろうことか僕たちのバッド・ルーテナントは終盤でなよなよと改心してしまったのだ。
というか、この映画はふたを開けてみれば、悪徳刑事を描くこと自体が本題ではなく、そんな人間でもキリストと神にすがることで贖罪を果たし、救済されることが可能だという「宗教的真実」を謳い上げる「カトリック映画」だったわけだ。
そう言いつつも「改心」する流れとしては、そこまで悪くないのかもしれない。
何がしっくりこないかというと、結局は僕自身が、カトリシズムにおける贖罪とか救済とかをまるきり信じていないからで、こうなると楽しめないのはどちらかというと自分のせい、ということになるのかも。
なんでだろうね? 映画の中で主人公が「宇宙人がいる」「悪魔がいる」と主張しているのに回りが信じていないシチュエーションに出くわすと、「なんでお前ら信じてやらねーんだよ、いるに決まってるじゃないか!」と自然に思えるんだけど、「神様は実在していて救ってくださいます」って言われても「嘘つけ、よくいうよ」って気分になるんだよな(笑)。一種の自衛本能だろうか。
以下、細かい思ったことなど。
●「ニューヨークの警部補LTは」ってリーフレットにも映画.comのあらすじにも書いてあるけど、LTって警部補=ルーテナントの略称だよね。だから、作中でもずっと「警部補」って呼ばれてるだけという話だと思う。ちなみに、刑事コロンボも実際の階級はルーテナント(警部補)である。
●ハーヴェイ・カイテルの演技はやはり最高だった。
全編の中でも最も印象的な、全裸でのキメセクシーンは、もしかするとヴィスコンティの『家族の肖像』(74)の名高いドラッグパーティ・シーンあたりを意識しているのかもしれない。
少なくとも、ハーヴェイ・カイテルの手を横に掲げた裸体(胸元には十字架!)は、間違いなくキリストの磔刑を意識したもので、後に登場するキリストの幻影と呼応している。
ちなみに、ハーヴェイ・カイテルは盟友スコセッシの『最後の誘惑』(88)で、キリスト(ウィレム・デフォー)を裏切るユダという重要な役で出演しており、その当時からキリストの存在やカトリック信者との関係性については、ずっと深く考え続けてきたはずだ。
●ハーヴェイ・カイテルのまくしたてるような演技プランは、スコセッシ・ファミリーの仲間であるロバート・デ・ニーロや、『ロング・グッドバイ』(73)でくるったヤクザを演じていたマーク・ライデルあたりに近い感じがするが、やはり田舎から出て来た無免許運転の姉ちゃんふたりを脅して、片方のケツ穴見ながら片方のブロージョブを想起してオナるシーンが最高。ちなみにこれは、先述のヤリ部屋で「3人」でまぐわっていたシーンと呼応しており、刑事の3P性癖が改めて強調されている。同時に、「最後まで手は出さない」あたりに、彼の悪としての弱さ、踏み込んだ悪いことは出来ない小物感を示している。
●当時のNYにおけるドラッグ事情についても、かなりドキュメンタリー・タッチで「ありとあらゆる吸引の手段とインジェクションのやり方」が描き出されており、90年代のアメリカ風俗史として興味深い。
僕自身はドラッグをやったことは人生で一回もないし、おそらく今後も一生ないだろうが、ちょうどこの映画と同じ1992年に日本で発売された、青山正明の『危ない薬』に衝撃を受けた世代としては、ドラッグ・カルチャーに関する「知識」はサブカルチャーの王道だと思うし、しゃぶ漬けの主人公が出てくる映画には無条件で食指が伸びる。
まあ、このあいだ「かしまし娘」の庄司歌江師匠が94で亡くなっていたが、20代にずぶずぶのヒロポン中毒だったという三姉妹の長命ぶりを見ても、70年代レジェンド・ロッカーたちの元気はつらつ老人ぶりを見ても、ドラッグって「呑み込まれ」さえしなければ、結構長生きできるものなのかもしれないなあと(笑)。
●教会でのシスター凌辱シーンは、悪魔崇拝儀式めいていて、なかなかにインパクトがあった。わざわざキリスト像が映りこんでいたり、レイプの道具に十字架を使ったりと、かなり瀆神的なシーンづくりがあえてなされており、挑発的でクールな演出に感心。
シスター役の女性が清楚で美しいこともあって、ちょっとヨーロッパ映画の香りのするシーンだった。
●同じく教会でのハーヴェイ・カイテルの懺悔シーンは、そこまでの「悪漢」ぶりとは隔絶のある、転げまわって泣き喚いての「圧巻」ぶりで、さすがとしかいいようがなかった。なんか「おおおおん」って、子供か泣いた赤鬼みたいに泣くのね(笑)。
でも、この悪徳とドラッグにまみれた物語で、実体としてのキリストの姿を何度も登場させるのって、カトリック教会サイドは気にしなかったんだろうか?(むしろ教会はこの映画を応援したという話がリーフレットには書いてあったが)。『ベン・ハー』とか観る限りでは、生身のキリストを出すのには相応の覚悟がいるものなのかと思っていたけど(あの映画は、ベン・ハーの生涯を描いているように見せかけて、実はキリストの伝記映画としての側面ももっている。ただし、神の子の姿が映画内で表されることはない)。
●ラストはこれって、ある意味「救済」でもあるんだろうな。たしかに野球賭博のほうの窮状には奇跡が舞い降りたのかもしれないけど、これだけアル中、ヤク中、セク中が進展すると、今の偽装した生活はもう限界だったからね。改心の痕跡を少年二人を相手に残した上で、あと腐れなくここでこうなるのは、まあ福音なのかもしれないなあ、と。
ちなみに、映画を観ているあいだはこの展開って、完全な成り行きというか偶然なんだと思ってたけど、リーフレットを読んでいるとあれをやったのは「ノミ屋」だってはっきり書いてあった。確定的な部分ってあったっけ? と思ってよく考えたら、これもしかして、倍々ゲームの賭けに「勝っちゃった」からああなったってことか!
●総じて、少しリズムが一本調子に過ぎるし、内容面でしっくりこないところもあるし、終盤の展開も僕にとっては宗教臭が強すぎたが、ハーヴェイ・カイテルの魅力を堪能するにはとても良い映画だった。
でも、悪徳刑事が闊歩してるってだけじゃなくて、ほんとにNYのブロンクス地区って物騒きわまりない街だよね(笑)。街中で、当たり前のように、窃盗や、レイプや、殺人や、ドラッグが常態化してる。
アベル・フェラーラ監督としては、実際にふだん目にしているブロンクスの様子をカメラに収めただけなのかもしれないが、ある種、誰もが脳内で想起するような「幻想の米スラム街」を、映像として生々しく「実体化」させることに成功しているともいえる。
「90年代ブロンクスの風俗映画」としては、本当に面白い映画でした。
(以下、追記)
コメントをくださった方とやりとりをしていて、2019年のチェコ映画『異端の鳥』(ヴァーツラフ・マルホウル監督)にも、もう老境に達したハーヴェイ・カイテルが「司祭」役で出ていたことを想起したのだが、あの映画のカイテルにも「背後に架かる磔刑のキリスト像の姿とかぶるように、両手を広げて壇上で説法するシーン」がある。『バッド・ルーテナント』のあのシーンを霊感源にしたかどうかはわからないが、少なくともやりながら、カイテルはこの1992年に身体を張って頑張った映画のことを、きっと懐かしく思い出していたはずだ。
期待度○鑑賞後の満足度○ 佳作だと思うしハーヴェイ・カイテルも名演だが、主人公に感情移入できないのがイタい。
①衝撃的な尼僧○○○事件を期に、“善”であろうとする人間の強さと“悪”に流れてしまう人間の弱さが交錯する。
怪演とはこのこと
ハーヴェイ・カイテルの凄まじい演技力に圧倒される。ロクデモナイ刑事ではあっても、魂の一角には誤魔化すことが決して出来ない神聖な人間性がこびりついていて、それと向き合った時、心の底から慟哭する姿に完全に打ちのめされてしまった。粗野なギャングを演じるだけではなく、これほどまでに深い演技が出来る名優だったのだ。素晴らしい。久々に感銘を受けた。
ハーベイ・カイテルの映画人魂
ハーベイ・カイテルの悪徳刑事ものの旧作だけど、彼の熱演だけが見どころの破滅型ドラマでした。ヤク中で野球賭博と買春にどっぷりハマった刑事の堕落ライフを手持ちカメラを多用してドキュメントっぽくリアルに撮っているのはいいとして、肝心のお話しのつながりが悪く、退屈なシーンの長回しばかりでさっぱり盛り上がりません。主人公が何を考えているのかも分かりにくいし、被害者の尼さんの話しを聞いて改心するあたりの心境の変化がピンと来ませんでした。とは言え、ハーベイ・カイテルの懺悔シーンは鬼気迫るものがあり、ここは長回しの演出が彼の演技力で活きてくる場面ですね。90年代に彼はこの作品も含め、まだ無名のタランティーノ作品に出演していて、改めて彼の映画人としての先見の明とリスクを恐れない矜持を感じました。
ヤバヤバ刑事のハーヴェイ・カイテル
シネマート新宿にて鑑賞🎥
デジタルリマスター版✨
ハーヴェイ・カイテル演ずる「バッド・ルーテナント」、ホントにワル過ぎて、変態的刑事なのだが、妻と子供達とは平和に暮らしている二面性のギャップあり😅
冒頭から街中を運転しながらヤ クを鼻で吸う男、これが刑事LT(ハーヴェイ・カイテル)であり、のっけからヤバヤバ刑事が前面に…🤣笑
さらに、野球賭博にハマって地獄街道まっしぐらの彼は、娼婦との一時的な悦楽に浸ったり、刑事の立場を利用して一般人のチョット不良女性2人と性的な時間を過ごしたり……と、とにかくワル過ぎ😁
そんな中で、教会の尼僧が2人の若者に犯される事件が起こって、LTはその捜査にも首を突っ込む。ただ最初の捜査開始の動機は「犯人見つけた時の報奨金5万ドル欲しさ」であったのだが、途中から気が変わった動機が上手く描かれていなくて残念(^^;
「ヤ ク」・「賭博」・「性」がいろんなかたちで繰り返されるので物語としてのインパクトは薄かった。そんな中でインパクトに残ったのはLT(ハーヴェイ・カイテル)のボカシ無しの裸体…😄
変な映画を観てしまったという感じだったが、飽きることなく観ることができた。
這いずり慟哭し苦しみ泣く男をハーヴェイ・カイテルが最高に演じた
前半には笑えるシーンも数カ所あった。警部補であることを笠に着た痴漢場面では気持ち悪くて吐きそうになった。だから最後、涙がこんなに出て胸がこんなに痛むとは思わなかった。
繊細・真面目なご婦人にはオススメ出来ない
裏通りのスコセッシとも言うべきか、この作品の罪と贖罪のテーマは決して不真面目なものではないどころか大変真摯なものではあるのだ。
しかしいかんせん都会の悪徳という舞台と人物と描写が、俗物を極限まで追求したものとなって不快極まる舌触りへと仕上がっている。
それもまた取り上げたテーマである、罪を贖うべき現実への真摯な取り組み故だ。
その作り手が定めた聖なる題目を真面目に追究する為の手つきであるゆえ、不快さは逃れられないものであるのだから、こちらもしかとまなこを開いて目撃する覚悟が必要である。
それが叶わぬ鑑賞者なら回れ右だ。
さてもそれは男の私でも思わず眉を顰めてスクリーンから顔を逸らす有様であった。
私が当時この映画を観劇した有楽町マリオン横の今はない小屋はいつになく活況を示していた。
直前に話題作となって御婦人方が多く駆けつけた『ピアノレッスン』。
そこにおける、かつてのC.ブロンソンを継ぐような「心優しき野獣」の優れた演技によって奇跡的に(失礼!)ファンが増えた我等が兄貴ハーヴェイ・カイテル。
彼を目当てに本作をよくわからず観に来たと思われるマダム方が狭い客席を多く占めていた。
本作上映早々に次々と繰り出される、カイテル演じる刑事の想定以上の不快極まる無様な自堕落無軌道描写。
その確信的毒針が放たれる度に、ご婦人方はシートから頭がのけぞるほど拒否反応を示した。
そののち、こんなモノを観る為に来た訳じゃないわとばかりに次々と退場する始末。
それはある意味この作品のあるべき姿としての監督の企みは大成功したわけだ。
しかしながら哀しくも麗しいものを観にきたつもりの御婦人方には大変気の毒ではある。
後半の刑事の戸惑いと葛藤と慟哭は、彼の俗物を極めた成れの果てだ。
それは図々しく高みから見届ける我々観客の人生態度を示唆し懺悔を促すようでもある。
これは優れた映画に度々みられる原型である。
終幕は巧妙に無慈悲に、観客の唯物自我廃液で肥大した肝臓の右脇腹をゆっくりと槍で突き刺し、自己救済へのいざないを観客自身に示す事に成功している。
「彼」は現すのみにて「我」はすでに彼の示しを予め得ていた事を漸く思い出すのだ。
~良い刑事、悪い刑事~
監督はアベル・フェラーラ、主演のL.Tは『レザボア・ドッグス』や『ナショナル・トレジャーシリーズ』に出演したハーヴェイ・カイテル。脚本を担当したゾーイ・ルンドは皮肉にも公開された7年後に薬物中毒で亡くなってしまう。
L.Tは息子たちに対して厳格な父親像を見せているが、徐々に本当の姿を現してくる。実は刑事でありながらも薬物中毒で、刑事仲間と野球賭博をしている。喧嘩の仲裁では銃を撃ち、若い女に卑猥な行為をする。町は裕福な所もあるが主人公は闇の部分で暗躍する。友人の刑事も善意は欠けている。まさしく「悪い刑事」を体現しているのがL.Tだろう。野球ネタはハリウッド映画では定番だ。副題に野球をつけてもおかしくないぐらいくどく出てくる。あまり興味がない人からすると注意深く見聞きしないとストーリーから置いていかれそうだ。
この作品の副題に「刑事」「ドラッグ」「キリスト」の三つの言葉が付く。敬虔なキリスト教徒でありながらも神にたてつく行為でしか自分の存在を証明できない悲しき信者でもある。家族写真の上でドラッグを吸うシーンなどは胸が締め付けられる。修道女がレイプされた事件が起きると、L.Tとキリストとの対峙を予兆が始まる。L.Tは友人にも止められるほど危険な賭けを挑む。売人から薬の売り上げを回収して帰るシーン、薬物の影響と危機感からかL.Tは恐怖と孤独におぼれていく。L.Tは修道女に犯人を自分だけ見つけたら抹殺をすると語るも修道女は慈悲深くそれを断る。これはL.Tにとっては予想外の答えだった。彼は自分の弱さ暗に償いたかったのだ。しかし相手は神に仕える一人の女性でしかない。修道女が去りL.Tが振り返るとイエス・キリストが姿を現す。L.Tは懺悔と救済を求める。後ろに神、前にキリスト、もう逃げ場などない、すべてを洗いざらい吐き出す。L.Tは犯人を見つけるとこれまでにないぐらい落ち着いて野球を見ながらドラッグを吸う。しかし、犯人を捕まえずに犯人を町から追い出す。罪人の救済はキリスト教の教えにあるがもちろん事件の解決や犯罪に対する処置とは違う。しかし、最後に刑事として罰を科して、同じ罪人として許した。これは修道女が望む最善の結果でもあったのかもしれない。そんなL.Tの最後は死であるのは納得する。もはや、死は不可避だったろう。最後、少しながらもいい刑事になれたのではないだろうか。良い刑事、悪い刑事という定番のシチュエーションはあるが、自らが表裏一体のように二役するストーリーは珍しい。しかし、この程度の償いでは悪から抜け出せない。だが必要悪としての役割は果たそうとしたのではないだろうか。他人の罪を被る、まさしく、キリストの伝道と同じシチュエーションと言えるだろう。本人としては一人の人間としての救済を求めていたように見えるが、むなしいことに他人からは刑事としての側面しかL.Tを知らない。
しかし、普段は無関心な信者がここぞという時にすがる姿は正直自分にも思い当たる節がある。日本人は宗教に対してよく言えばミーハーだが、やや宗教を都合よくとらえているところがある。無宗教だが無神論ではないのは国が違えば侮辱に値するだろう。主旨と違うが、自分には宗教を見直す機会となってしまった。
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