「秀逸な前半に対して、後半の失速ぶりには肩透かし」バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
秀逸な前半に対して、後半の失速ぶりには肩透かし
スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮、ロバート・ゼメキス監督による大ヒットシリーズ第2弾。本作では30年後の未来、2015年にタイムトラベル。
本作と完結編に当たる次回作『PART3』は同時に製作され、本国アメリカでは半年間の間を空けて公開された。尚、監督によると前作の衝撃的なラストは、あくまで「マーティとドクの冒険は、この先も続くよ」という意味のもので、当初続編の予定は全く無かったそう。
本作も続編、特に「2」における御約束のスケールアップの例に漏れず、前作以上の大騒動と複数の時代へのタイムトラベルが展開される。また、作品が分かりやすく「三幕構成」の作りとなっている。
【第一幕】
前作の衝撃的なラストからの幕開け。デロリアンで帰還したドクは、30年後の未来でマーティの息子が窃盗容疑で逮捕されるのを防ぐ為、彼とジェニファーを2015年の未来に案内する。ハイテク機器満載の未来を楽しみつつ、無事息子の逮捕される未来を回避したマーティだが、ほんの出来心から「スポーツ年鑑」を入手し、過去(現在)の世界で儲けようと企んでしまう。しかし、その企みを知った未来のビフに密かにタイムマシンを奪われてしまい、歴史が改変されてしまう。
【第二幕】
何も知らずに1985年に戻ったマーティとドクは、ビフが莫大な富を築いた資産家であり、マーティの義父である事、父ジョージが亡くなっている事を知る。ヒルバレーは元の美しさを忘れ、荒くれ者だらけの荒れ果てた世界となってしまっていた。真相を探ろうとマーティはビフに接触。ビフは、未来の自分からスポーツ年鑑を渡された事、ジョージを殺害したのは自分である事を語ると、マーティを始末しようと銃を手にする。全てを元に戻す為、マーティとドクは再び30年前の1955年に向かう事になる。
【第三幕】
1955年にやって来たマーティは、ビフが未来の自分からスポーツ年鑑を受け取る現場を目撃し、彼から年鑑を奪おうとする。しかし、肌身離さず年鑑を持ち歩くビフからは、中々奪うことが出来ない。苦労して年鑑を奪うも、短気が災いしてビフの挑発に乗ってしまい、年鑑を奪い返されてしまう。諦めずホバーボードでビフの車を追跡し、何とか年鑑を奪うことに成功したマーティは、今度こそ年鑑を焼却し、未来を元に戻す。
役目を終えて帰還しようとするマーティ達だが、雷の影響でデロリアンの年代設定が更に過去の時代に設定されてしまい、マーティを残してドクだけがタイムトラベルしてしまう。途方に暮れるマーティの前に、電報局の人間が現れ、70年前、1885年からドクが書いた手紙を受け取る。ドクを救う為、1955年のドクに協力を仰ぎに行くが、たった今(PART1の)マーティを未来に帰したばかりのドクは、混乱のあまり気を失ってしまう。
本作を語る上で誰もが語りたくなるのが、第一幕の2015年の未来世界についてだろう。現実の年代が作品で示された未来を追い越した今日だからこそ出来る答え合わせが楽しい。
マーティが手にする、自動で靴紐が結ばれる靴や、反重力で浮遊するホバーボードは、残念ながら(少なくとも一般社会の生活には)普及せず。しかし、80年代という時代を懐かしく思い、骨董店が経営されている点は、あの時代だからこそ放っていた輝きが現実でも根付いており、現代でも様々な形で表現されているのは確か。マーティが入ったレトロ喫茶で掛かっていた、マイケル・ジャクソンの『Beat It』は、今日も変わらず愛される不朽の名曲だ。
個人的に1番の面白ポイントは、3DCGで表現された『ジョーズ』のシーン(CGが今観るとあまりにもチャチなのはご愛嬌)。流石に迷惑になるので、あんな風に街中で3DCGが出現する事はないが、それこそ映画に於いても2015年の時点で3Dは一般化され、今やアトラクション型の4DXまで存在している。
また、『ジョーズ』が切り開いた“サメ映画”というジャンルも、作中では「PART19」と表現されていたが、今日でも『ロスト・バケーション』(2016)という秀作や『MEG』(18、23)シリーズのような一種の怪獣映画、低予算のキワモノ作品まで様々な作品が展開されているのを見るに、ある意味では現実がフィクションを追い越したと言えるかも知れない。
とまぁ、未来世界の描写は実にバラエティに富んでおり、マーティが未来の息子を救う為に、前作と似た構図でビフの孫であるグリフらを撃退する展開含め非常に楽しめる。しかし、マーティ達が現代に戻ってからは、ラストに向かうに連れてドンドン作品としての推進力や魅力を失っていってしまったのが残念だった。本作のスコアは、ほぼ全てこの第一幕の未来描写に対しての評価である。
第二幕で、ビフというガキ大将が巨万の富を得た事で荒廃した世界は、『マッドマックス』や『北斗の拳』を彷彿とさせる世紀末感で、恐らくあの時代ですら既視感しかなかったのではないだろうか?
父ジョージの死の真相も、一種の推理映画的側面を見せるのかと思えば、(分かり切っているとはいえ)アッサリとビフ本人が自分の仕業だと語ってしまう。また、何故ビフがジョージを殺害したのかの動機が不明なのも今ひとつ。早い段階で巨万の富を得たならば、ジョージなど気に留める必要もないとは思うのだが。ロレインを手に入れるのが目的なら、わざわざ彼女がジョージと3人も子供を儲ける前に始末した方が都合が良い(マーティが生まれなくなってしまうが、そこをどうカバーするかが脚本の腕の見せ所だろう)。
最も興が削がれてしまったのは、第三幕の1955年の舞台だ。私が、前作『PART1』を評価したポイントは、テンポ感の良さや脚本の推進力の強さなのだが、そうした前作の持っていた長所を今作は悉く台無しにしてしまっている。前作と同じ年代を舞台にした事で、必然的に前作の内容(一部シーンの再現等)を交えて展開される。そのため、同じ内容を別作品で再び見せられるというストレス、前作の内容と今作の内容が行き来しながら展開されるテンポ感の悪さが出てしまっているのだ。
また、前作では“両親の恋愛”や“未来へ帰る準備”、“過激派テロリストからドクを救う”といった様々な目的が展開されていたが、今作では“未来を取り戻す為に、スポーツ年鑑を奪う”という比較的地味な目的のみが展開されるので、物語として劇的な展開が少なくパンチが弱いのだ。年鑑を奪う上で展開されるアクシデントも、主となる目的自体が弱いので、「次どうなる!?」という緊迫感が薄く、コメディチックに見えてしまう。
唯一、第三幕で面白く感じられたのは、ラストの件だ。1885年からのドクの70年越しの手紙。それを受け取り、ドクの無事を確認したマーティは、1955年のドクに協力を仰ごうとする。しかし、ドクは気絶してしまい、「この先どうやって過去に戻るのか?」という強烈なヒキで次回へと繋ぐ。相変わらず、このシリーズは次回へのヒキが抜群に上手いなと感じた。
エンドロール前に披露される、1885年の西部時代で展開される更なる冒険の様子も、こちらの期待を煽るものだった。
元々、続編の予定が無かった上での『PART2』『PART3』2部作同時製作という性質上か、本作は次回作とセットで一つの作品なのだろうという印象を受けた。その為の付け足し、特にマーティが“腰抜け”と言われると必ずキレ短気キャラという設定は唐突感があり、「あれ?君そんな血気盛んなキャラだっけ?」と思ってしまった。前作の内容を踏まえた上でのやり取りや、後々活きてくる伏線の張り方は流石ではあるが、やはり何処か「人気によりシリーズ化した事での蛇足感」を感じざるを得ない部分もある。より壮大になっていく物語がどう幕を閉じるのか、完結編となる次回作に期待したい。