「焼け跡の灰の中に、まだダイヤモンド(人間の光)が残っているのか?」灰とダイヤモンド neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
焼け跡の灰の中に、まだダイヤモンド(人間の光)が残っているのか?
アンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』をブルーレイで鑑賞しました。
戦争映画として広く知られている一本ですが、私には政治映画というより、
「価値基準が崩れた世界で、人間は生きる理由を選ぶことができるのか」
という存在的テーマを描いた作品に思えました。
物語の舞台は1945年5月8日。ドイツ降伏の日です。
町では勝利を祝う祝祭が続いていますが、主人公マチェクは喜んでいません。
彼は反共レジスタンスとしてロンドンからの指令を受け、
共産側の高官を暗殺する任務に就いています。
ナチスが去ったあとにソ連が来る。
「解放」がそのまま「新たな支配」へとつながるポーランドの運命を象徴するように、
戦争の終わりは必ずしも幸福の始まりではありません。
マチェクは暗殺を遂行する過程で、ホテルのバーの女性に惹かれ、
ふたりで逃げて別の人生を生きることを考えます。
しかしその可能性は最後まで「一瞬の光」に過ぎず、
結局は任務へと引き戻されてしまいます。
ここで重要なのは、彼が“大義”を選んだわけではないという点です。
彼は「選んだ」のではなく、「選ぶ力そのものを失って」いました。
恋を選ぶ自由も、大義を選ぶ自由も、生を選ぶ自由も残っていない。
価値基準が崩れ落ちた戦後の世界では、人間は自由意志を発動することができず、
ただ状況に押し流されるしかない。
その「自由なき自由」が、この作品の一番深い虚無として胸に残りました。
技法面では、ディープスペースを使いながら、
あえてシャローフォーカスを用いて前景にだけピントを合わせるなど、
「奥行きはあるのに未来にフォーカスできない世界」を視覚的に示していたと思います。
奥の方で何かが起きているのに、そこへピントを合わせることができない。
これは未来を見通す力を失った国の比喩であり、
マチェクの存在にもそのまま重なります。
また、ピントが意図的に甘かったり、微妙にずれていたりするショットが多く、
それもまた「世界が焦点を結ばない」という時代感覚を表現しているようでした。
象徴的な演出も目立ちます。
間違えて殺してしまう男の背中が炎に包まれる場面、
祝祭のカオスと空虚さ、
墓地の逆さになった十字架、
そしてラストの逆光の朝日。
どれもリアリズムと象徴性の境界が曖昧で、
「世界そのものがねじれている時代」を体現していました。
特に墓地のシーンで引用される詩人ノルヴィドの詩、
そしてタイトル「灰とダイヤモンド」は非常に重要です。
詩の核心は、
「焼け跡の灰の中に、まだダイヤモンド(人間の光)が残っているのか?」
という問いかけです。
マチェクの内側には確かに“ダイヤモンドの原石”のようなものがありました。
恋に落ちかけた瞬間や、生きたいと感じているような揺らぎ、
学びへの興味や未来への微かな希望。
しかし彼にはそれを磨く力が残っていなかった。
選択肢があるように見えながら、実際には何も選ぶことのできない世界に生きていたからです。
そのため、彼の中にあったはずの光は灰に埋もれ、
最後にはゴミのように捨てられた場所で、意味のない死を迎えます。
この「選べなかった人生の死」は、とても痛ましく、深い余韻を残しました。
主人公を演じたズビグニェフ・ツィブルスキは、
強い意志を持つタイプではなく、
影と脆さを抱えた戦後の青年像を非常に的確に体現していました。
価値基準が崩れた世界で、自分を強く持つことができない“空洞の主体”。
戦後ヨーロッパ映画にしばしば現れる、
「価値の喪失によって根を失った人間」を象徴しているように思います。
総じてこの作品は、政治的テーマを超えて、
「価値基準が崩れた世界では、人は生きる理由を選ぶことができない」
という深い存在的問題を描いた映画だと感じました。
灰の中にあるはずのダイヤモンド──
それは確かに主人公の内側にあったのに、
彼はそれを掴むことも磨くこともできなかった。
そのどうしようもなさと虚無感こそが、
この映画を忘れがたいものにしているのだと思います。
鑑賞方法: Blu-ray
評価: 91点
