劇場公開日 1959年7月7日

「焼け跡の灰の中に、まだダイヤモンド(人間の光)が残っているのか?」灰とダイヤモンド neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 焼け跡の灰の中に、まだダイヤモンド(人間の光)が残っているのか?

2025年11月12日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

アンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』をブルーレイで鑑賞しました。
戦争映画として広く知られている一本ですが、私には政治映画というより、
「価値基準が崩れた世界で、人間は生きる理由を選ぶことができるのか」
という存在的テーマを描いた作品に思えました。

物語の舞台は1945年5月8日。ドイツ降伏の日です。
町では勝利を祝う祝祭が続いていますが、主人公マチェクは喜んでいません。
彼は反共レジスタンスとしてロンドンからの指令を受け、
共産側の高官を暗殺する任務に就いています。
ナチスが去ったあとにソ連が来る。
「解放」がそのまま「新たな支配」へとつながるポーランドの運命を象徴するように、
戦争の終わりは必ずしも幸福の始まりではありません。

マチェクは暗殺を遂行する過程で、ホテルのバーの女性に惹かれ、
ふたりで逃げて別の人生を生きることを考えます。
しかしその可能性は最後まで「一瞬の光」に過ぎず、
結局は任務へと引き戻されてしまいます。
ここで重要なのは、彼が“大義”を選んだわけではないという点です。
彼は「選んだ」のではなく、「選ぶ力そのものを失って」いました。
恋を選ぶ自由も、大義を選ぶ自由も、生を選ぶ自由も残っていない。
価値基準が崩れ落ちた戦後の世界では、人間は自由意志を発動することができず、
ただ状況に押し流されるしかない。
その「自由なき自由」が、この作品の一番深い虚無として胸に残りました。

技法面では、ディープスペースを使いながら、
あえてシャローフォーカスを用いて前景にだけピントを合わせるなど、
「奥行きはあるのに未来にフォーカスできない世界」を視覚的に示していたと思います。
奥の方で何かが起きているのに、そこへピントを合わせることができない。
これは未来を見通す力を失った国の比喩であり、
マチェクの存在にもそのまま重なります。
また、ピントが意図的に甘かったり、微妙にずれていたりするショットが多く、
それもまた「世界が焦点を結ばない」という時代感覚を表現しているようでした。

象徴的な演出も目立ちます。
間違えて殺してしまう男の背中が炎に包まれる場面、
祝祭のカオスと空虚さ、
墓地の逆さになった十字架、
そしてラストの逆光の朝日。
どれもリアリズムと象徴性の境界が曖昧で、
「世界そのものがねじれている時代」を体現していました。

特に墓地のシーンで引用される詩人ノルヴィドの詩、
そしてタイトル「灰とダイヤモンド」は非常に重要です。
詩の核心は、
「焼け跡の灰の中に、まだダイヤモンド(人間の光)が残っているのか?」
という問いかけです。
マチェクの内側には確かに“ダイヤモンドの原石”のようなものがありました。
恋に落ちかけた瞬間や、生きたいと感じているような揺らぎ、
学びへの興味や未来への微かな希望。
しかし彼にはそれを磨く力が残っていなかった。
選択肢があるように見えながら、実際には何も選ぶことのできない世界に生きていたからです。
そのため、彼の中にあったはずの光は灰に埋もれ、
最後にはゴミのように捨てられた場所で、意味のない死を迎えます。
この「選べなかった人生の死」は、とても痛ましく、深い余韻を残しました。

主人公を演じたズビグニェフ・ツィブルスキは、
強い意志を持つタイプではなく、
影と脆さを抱えた戦後の青年像を非常に的確に体現していました。
価値基準が崩れた世界で、自分を強く持つことができない“空洞の主体”。
戦後ヨーロッパ映画にしばしば現れる、
「価値の喪失によって根を失った人間」を象徴しているように思います。

総じてこの作品は、政治的テーマを超えて、
「価値基準が崩れた世界では、人は生きる理由を選ぶことができない」
という深い存在的問題を描いた映画だと感じました。
灰の中にあるはずのダイヤモンド──
それは確かに主人公の内側にあったのに、
彼はそれを掴むことも磨くこともできなかった。
そのどうしようもなさと虚無感こそが、
この映画を忘れがたいものにしているのだと思います。

鑑賞方法: Blu-ray

評価: 91点

neonrg