「タルコフスキーのこと」ノスタルジア(1983) 高橋直樹さんの映画レビュー(感想・評価)
タルコフスキーのこと
『ノスタルジア』が日本公開されたのは1984年の春、初鑑賞から40年の時が過ぎた。再上映や特集などで何度か観ているがその回数は定かではない。母国を離れてイタリアを旅する詩人の“郷愁”をテーマにした『ノスタルジア』は、2020年公開の『サクリファイス』と共に、我が心に深く刻まれた作品だ。今回、イタリアのライシネマに保管されていたオリジナルネガと音声を基にフィルム鮮度のクオリティにレストアされた4K版を観ることができたのは至上の喜びだ。
この作品には、一切の無駄を許さない純度の高い脚本があり、フレームに対する徹底したこだわりがあり、モノクロとカラーを使った精緻で繊細な感情表現がある。絞りによって色彩を浮き上がらせる撮影の妙、主人公の脳裏をよぎる心象風景は、完璧な配置による故郷の理想的なイメージとなって画面に映し出され、主人公の想いの深さを伝える。美術、情景、小道具、人々の動き、言葉のひとつひとつにまで、作家の強い意志が貫通している。
1 + 1 = 1
水滴になぞらえた自然に対峙する姿勢と思想の原理にも大きな影響を受けた。この呈示には、映画は、決して足し算では成立しないという、タルコフスキーの創作に対する原点が宿る。彼の講演を綴った「映像のポエジア:刻印された時間」(ちくま学芸文庫)に拠れば、映画監督には必然しかない。監督の前で、俳優はどこに立ち、何を見つめているのか。その時、心の奥底にはどんな想いがあるのか。映画の時間を生きる時、俳優はもはや彼でも彼女でもなく、映画の時間を生きる固有の存在としてフィルムに定着していく。幾重ものイメージがつなぎ合わされ、ひとつの物語に昇華されたときに映画が生まれる。
その瞬間を逃すまいとする作家の妥協なき追求によって、綿密に計算された映像が形作られている。カメラアングルはもとより、フレームの中にあるすべてのファクターが、映画監督によって既に定められている。当たり前のことを実践することの苛酷。あくなき探求と思索が、結晶体のように純化した映画となって観る者を凌駕する。素朴でありながらも芳醇、匂い立つような画面には、こうでなければならないという作家の固い決意と、心を研ぎ澄ませれば感じとれるはずだという、観客への絶大な信頼に裏打ちされている。それは決して神々しいものではなく、単純な人間の生理に基づいた感覚を共有しようとする素朴な意志である。
映画は常に開かれている。だから躊躇する必要はない。難しく考えるのもやめよう。映画館の大画面でこの類い希なる傑作『ノスタルジア』に向き合い、心が感じるがままに楽しもうではないか。