「医学博士の車旅」野いちご 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
医学博士の車旅
映画は78歳の医学博士イサク(Victor Sjöström)の独白ではじまる。
『いわゆる「人づきあい」の主な中身は、そこに居ない誰かの噂をし悪口を言うことだ。私はそれが嫌で友を持たず、人とのつきあいを断った。歳をとった今ではいささか孤独な日々だ。・・・』
映画野いちごはイサクが学位の授与式に参列するためストックホルムからルンドまで車で移動する道中の様子を描いている。マップを開いたら直線で500キロほど、車で7時間──と出た。当時の車/インフラならもっとかかっただろう。
車旅は息子の嫁(イングリッド・チューリン)と三人の若者が道連れとなり、折々夢へ飛躍しながらイサクはじぶんの人生の再評価を余儀なくされる。
イサクは人々から尊敬され感謝される医者であり大学から叙されるほどの成功者だが、息子や亡妻に対して常に不機嫌で頑固で自己中心的であった──ことがイサクの見る白昼夢や息子の嫁の証言によって明らかになっていき、過去の自分自身を観察しながら次第に内省へと落ち込んでいく。
wikiの解説に『ベルイマンはストックホルムからDalarnaまでのドライブ中故郷のUppsalaに立ち寄ったときに映画「野いちご」のアイデアを思いついた。』とあった。
車を運転される方であればお解りになると思うが、ドライブ中はいろんなアイデアを思いついたり、あるいは嫌なことを思い出したりする。いいことはあまり思い出さず、不意に恥ずかしい失敗を思い出して車内で独りなのをいいことに、大声をあげてその記憶を振り払ったりする、こともある。
つまりベルイマンは「野いちご」のアイデアを閃いたことと、映画中でイサクが自省の念へ立ち戻っていく──という事象をドライブに紐付けながら語っている。
人生の黄昏期、集大成のような功労賞が与えられるという節に7時間のロングドライブをしたら、確かにあんなことやこんなことや、悲喜こもごもを思い出しながら、ひょっとしたら暗い気分になってしまうかもしれない──と思わせる普遍的な完成度をもった映画だった。
普遍的というのは、じぶんが78歳の医学博士に至っていなくても、まったく別の年齢で何も達成していなくても、この話はとてもわかる話だ──という意味であって、イサクが幻想でまみえる夢判断のような劇中劇も解りやすく、結果本作はベルイマンの代表作にもなり、キューブリックやタルコフスキーのような巨匠中巨匠でさえもが野いちごをAll Time Favoriteに挙げている。
ただしベルイマンの主潮流である神の不在とは印象が異なり別サイドの代表作という感じ。
個人的に普遍性と家族と、ある種の虚無感によって「東京物語のB面」というのはどうだろう。我ながらいい短評だと思う。
wikiによれば1957年撮影時のベルイマンは体調も悪く私生活も混乱していた。
前にも言ったことがあるがベルイマンという人は理知の塊のような映画をつくるのに反して結婚離婚を繰り返した人だった。それを「反して」というのは語弊があるかもしれない。ただすごく悟性に訴える映画をつくるのに何度も結婚離婚をしていることが日本人の見地からは違和があった。むろんそれがだめと言いたいわけではないしスウェーデンがそういう国なのかもしれないが、野いちごの撮影時には胃疾患とストレスでの入院後だったのに加え、出演者の一人であるBibi Anderssonとの関係が終焉していた──と概説にあった。ビビとは要するに不倫をしていたわけ。
わたしはどなた様の不倫にも感心がなくましてそれに善悪是非を裁定する権利がないと思っているがベルイマンが恋多き男だということは映画のピューリタンな印象とは異なっていた──という話である。
ただしもちろん、往々にして世の傑物がそうであるように、何度でも女性とくっついたり離れたりするような甲斐性や執着心がなければ人はクリエイターなんかになれない、というのは解る。(もちろんそうではないクリエイターもいくらでもいるが)
それらの絶不調に加えて主演のVictor Sjöströmが難物で、かれはサイレント映画時代の重鎮でベルイマンの大先輩でもあった。
ベルイマンは──
『Victorは憂鬱な気分でいて、映画をやりたがらなかった。彼は人間嫌いで疲れていて、老いを感じていた。彼にこの役を演じてもらうために、私はあらゆる説得力を駆使しなければならなかった』
──と述懐している。
つまりイサク役はVictor Sjöströmそのものだった。歳も同じくらいで、ベルイマンは時々脚本の細部について屁理屈を言われながら、最終的に撮影時間が変更されSjöströmが彼が日課にしている午後5時からのウイスキーを飲む時間に帰宅できるようになると、事態は好転した。──そうである。w
ベルイマンの苦労が報われ野いちごのVictor Sjöströmは迫真だった。Victor Sjöströmが遠くを見る目をするだけですでにドラマチックだった。
ラスト、イサクは幻想のなかでBibi Andersson扮するサラに誘導され、湖のほとりでピクニックする家族のヴィジョンが見えると、そこでやっとイサクは肯定的な歓びの表情をする。
あれはまもなく死ぬからだろうと思う。あれはハッピーエンドのイメージじゃなくて涅槃のイメージだ。だから野いちごは「人はどんな風に死んでいくのか」という映画だ、と(個人的には)思っている。