友だちのうちはどこ?のレビュー・感想・評価
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ラストシーンの応用的解決策は子供の成長の証で清々しいばかりだった
1993年(キネマ旬報第8位)以来だったが、
NHK放送を機に再鑑賞。
当時のパンフレットを読むと、
キアロスタミ監督は、
この映画についてのメッセージは
特にないと語っているが、
そうでもないだろうと思い、
勝手に想像してみた。
目に付くのは大人側の封建的な意識による
子供世界の支配と、
子供側の他人を想う純心さだ。
ほぼ全編において、大人側からの一方的で
理不尽な要求に対し、
子供の方にも焦りがあり、
未熟な対応から非効率な行動を強いられ
どんどんと状況が悪くなる。
しかしながら、間違って持って帰り、
届けることも出来なかったことに対して、
遅刻してまでも、友だちの宿題分までを
仕上げてノートを返すのは、
一つの成長した応用的解決策でもあり、
本来の人間の純粋な心を
思い出させて清々しいばかりだった。
大人達の数々の封建的な言動は、
多分に彼らが充分な教育を受けられなかった
ためだろうが、
冒頭と最後に学校のシーンを置いたのは、
これからの子供達には
大人世代を超えるべくたくさん学んで、
それを打破して欲しいとの
監督の期待だったのだろうか。
大人たちの横暴
2012年7月第三回午前十時の映画祭にて
まともな大人がいない
8歳の小学生が、同級生の家の詳しい場所を知らないまま隣村まで宿題ノ...
オープニングもラストもいいけど。裏話はチョットねえ…
子供の映画は好みでないので(例外は、アラン・パーカー『ダウンタウン物語』くらい)これが最初だったキアロスタミはずっと観てこなかったが、つい先日、観てしまった『桜桃の味』が諸々とても素晴らしかったので、ついに本作も今頃になって観てしまった次第。
さすが元グラフィックデザイナー。
今回も構図が完璧。
オープニングの淡く擦れたブルーのドアからラストの瞬間まで全てのショットが素晴らしい。
ラストも小粋なミニマリズムという感じで、思わず心の中で喝采してしまった。
芝居の方も皆んな素人なのに(素人ゆえか)ドキュメンタリーみたいに自然だ。
しかし、子供映画が苦手な人にも間違いなくお勧めか?というと、実はそうでもない。
まず、そもそもの設定&プロットに少し難がある。
あの賢そうな坊や8歳(日本だと小2か小3)であれば、電話が無いとはいえ、もっと知恵も働いて、直ぐ学校に戻り、先生に事情を話すなりして、一件落着になりそうだ。
あういう設定で、どうしても走れメロスやりたいんだったら、せめて6歳くらいでないと。それに4〜5歳だって賢い子は知恵も働くだろうし、やっぱり主人公は賢く見えない方がいい。
あまり賢くは見えないが、友達には義理堅い。そんなキャラでないと、あの設定には合わない。
たぶん、あの主人公の子供の正直そうな真っ直ぐな眼を見て、一発で気に入ってしまったのかもしれないが。
であれば、それならそれで、例えば、
あの子は機転を利かして、慌てて学校に戻ったが、運悪く先生はバイクで帰って行こうとして、そこを必死で追いかけるが、声は届かず… 更に他の先生達に助けを求めるが、忙しがって相手にされず…
などであれば、
あの賢そうなキャラとの整合性も取れ、過酷感も増し、いよいよもって「友だちのうち」を探さなきゃいけない… という切迫感も増して、更に良かったと思う。
それにしても、子供達の演技が、あまりにもリアルだったが、現場では、かなりエグい事をやっていたようで…
特に冒頭の方の泣かすシーンでは、子供の人権なんて知らんわ!と言わんばかりの非情さで、子役俳優でもない素人に、随分な事をしていて、
あの主人公役の子の弟だったらしいが、人間不信にでもなってなきゃいいが…
当時のスタッフも現在は反省してるようだが、コッチは種明かしされしまって、すっかり引いてしまった(お勧めしないが、どうしても気になる方は、ポチッと検索どうぞ)
ホントこういった裏話は、あんまりベラベラ喋らん方がいいと思う。特に本作のようなドキュメントタッチの場合には。
しかし、こんな部分もイランのクロサワと言われた所以なのかもしれない。
やっぱり、本物のリアリズムを虚構の上に作り上げるには、殆どやりすぎ(黒澤明の場合は殆ど狂気)と言えるほどの、それ相応の厳しさは必要みたいだ。
とはいえ、素人の子供にやっちゃ、流石にイカんけどね。
女の子は学校に来れないの?
この美しさは、写真の美しさだ!
体験学習
先生っていじわる
どこの国でも先生っていじわるなんだな。子どもだっていろいろ事情あるでしょう。でもノートに宿題をやるべき理由をきちんと説明してたのはよかった。
アハマッドがまだ大人にうまく説明できないし、大人はちゃんと話を聞かないしでもどかしい!
おじいさんの勘違いにみせる優しさとモハマッド=レザへの優しさ、押し花に泣ける。漏れる光を計算した窓枠がきれいだ。
子どもの頃はあんな風にに走れたことを思い出す。ロバとの追いかけっこ、見えそうで見えないあの子、おじいさんの窓。印象に残るシーンがいくつもあった。
イランってけっこう教育熱心で躾にも厳しいんだなあとちょっと意外だった。おじいさんたちは日がなあそこでおしゃべりしてるんだろうか。
それにしてもお母さん洗濯大変…。
【”走れメロス!イランバージョン。”友だちが退学にならないように、少年がくねくね道を只管に、必死に走る無垢なる姿が沁みます。当時のイランの子供達がイロイロな仕事を親から言われて大変だった事も・・。】
ー 冒頭、質素な教室でネマツァデ君は、先生からこっ酷く叱れている。宿題をノートではなく紙に書いて来たからだ。
そして、先生からは”次に同じことをしたら、退学だ!”と言われてしまう。
隣席の、アハマッド君は心配そうに見ていたが・・。ー
◆感想
<Caution ‼内容に触れています。>
・冒頭のシーンでポシェテという地域から通学してきた少年が遅れて教室に入ってきた際に、怖い先生から、”何処から来た?””ポシェテです・・。”
仕方ないなあ、という表情で先生が”ポシェテからくる子は10分早く起きなさい、30分早く寝なさい!”と言う。
ー ポシェテってところは、遠いんだね・・。ー
・アハマッド君が家に帰ってきたら、ナント、ネマツァデ君のノートが出てくる。焦る、アハマッド君。
”このままじゃ、ネマツァデ君が、退学になってしまうよ!”
ー けれど、親からは宿題代しろ!と言われ、必死に宿題をするアハマッド君。。そして、脱兎の如く、ネマツァデ君のノートを片手に、くねくね坂道を駆け上がっていく。
ポシェテに住むネマツァデ君にノートを届けるために・・。ー
■焦る、アハマッド君を遮る数々の障害。
・突然落ちてくる洗濯物。
ー 人の良いアハマッド君は、洗濯物を投げて戻してあげようとするが・・。時間はドンドン過ぎていく・・。ー
・ポシェテには、色んな地区があって、ネマツァデ君がどの地区に住んでいるか、分からない・・。
・アハマッド君のお爺さん。
ー 孫はキビシク躾けなきゃならん!と言って、煙草を持っているのに、煙草を買いに行かせる・・。で、自分の昔話を友達のお爺さんにし始める・・。
躾じゃないでしょ!時代が違うんだよ!ー
・”儂は、何でも知っている”お爺さん。
ー アハマッド君を、ネマツァデ君の家に案内するというも、自分が作った木製の扉の話ばっかりして、到頭息切れしちゃって、到着できない・・・、というか、知らないんじゃない!ー
・意気消沈して、家に帰ったアハマッド君。食欲無し・・。
<翌日、学校にアハマッド君は来ない。ノートがないネマツァデ君は、涙顔。
ドンドン迫って来る怖い先生。
そこに、現れたアハマッド君。
最初、ノートを間違っちゃうけれど、キチンと、ネマツァデ君のノートにも宿題の答えが書いてある・・。
当時のイラン情勢を、コミカルに揶揄しながらも、溢れる山道を駆けずり回るアハマッド君の善性溢れる姿が、沁みてしまった作品。
佳き作品であると思います。>
ハマる(笑)
押し花
シンプルでリアルな眼差しが生むもの
タイトルなし
無題
押し花が光った
アバスキアロスタミの初期の作品らしい。一般論だが、イランの映画を見ていると最初の20−30分は何がおきているかわからなく、そのうち何かがわかってくるという映画が多い。キアロスタミの作品もまさにその通りだ。しかし、『ともだちのうちはどこ』はかなり早い時間に作品の内容の検討がつく。
そして、忍耐強く大人に話しかけていくシーンは一般論だが、イラン映画の代表的シーンだ。子供の食いついていく力強さがはっきり出ている。子供だけじゃないんだなあ、先生、お母さん、おじいさんのもこの何度も繰り返す執拗な性格がうかがえる。好きだなあこういうシーン。それに、イラン映画は子供を使った映画が多い。なぜなら、芸術に対する政治的な検閲が厳しいからだそうだ。友達にノートを返そうとしてポシュテにという村まで、返しにいくシーンは善後策を顧みない子供の行動だが、これが友達を助けようとする一心不乱の行動なのを、この映画でなんとも良くとらえている。キアロスタミの画策が良さを出している。
最後のシーンの先生の言葉、『よくできた。』これだけしか云わない。『宿題をノートにかかなかったら退学だ」とか言ってたんなら、生徒の筆跡ぐらい注意してみろよと言いたいが、アハマッドの心の優しさの方がずうっと価値があるので、不正(カンニングの一種)であっても、許してしまう。かえって、先生に見つからなくてよかったと思う。宿題をノートにすることが大切か?それともどんな紙にでも宿題をやることの方が大切か? こういう文化は日本の文化と似ている。『先生の板書は美だ』と言っていた日本の某有名大学の教授と同じで、何が本当に大切なのか本質がわかっていない。
アハマッドが教室に遅れてきて、友達のノートを差し出した時、友達はなにがおきたのかも、どんなに苦労しても友達の家を探せなかったかも何もしらない。その時の友達の顔は愉快だった。人生において、取り越し苦労をしても相手に理解されない時のようだ。
それにまして、押し花が宿題の間にあったのに、まるで、関心も示さない先生(教育の狭さ、情操教育の無さ)にも偏見承知だが、イランの1987年の教育を垣間見た感じがする。
いつの作品かを気にしてみていなかったが、これは田舎の人里離れたところに(散村)に違いない。Kokerというところにこの少年アハマッドの家族は住んでいるが、私は地図で探すことができなかった。以前地震のあったカスピ海の内陸部らしいが。
アバスキアロスタミは個人的に好きな監督で、彼は小津安二郎のファンだったと聞いたが、小津安二郎感覚を共有している。
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