劇場公開日 2021年10月16日

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「壊れたドアと小さな花」友だちのうちはどこ? neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 壊れたドアと小さな花

2025年11月13日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

1987年のイラン映画ですが、舞台となる田舎の風景を見ていると、まるで明治や昭和初期の日本のような素朴さを感じます。舗装された道も車もほとんどなく、ロバで移動し、土壁の家が立ち並ぶ。文明というより“時間そのものがゆっくり流れている”世界です。私はアハマッド君とほぼ同世代ということもあり、同じ時代を生きながらも、まるで異なる文明に属していたような衝撃を受けました。

主人公の少年アハマッド君は、友だちの宿題ノートを誤って持ち帰ってしまい、退学の危機にある友人を助けようと、隣町ポシュテまでノートを届けに走ります。しかし、彼が出会う大人たちは誰も話を聞いてくれず、「明日でいい」「子どもは大人の言うことを聞いていればいい」と言うばかり。アハマッド君の必死の説明は、彼らの価値観の中では“無意味な言葉”に過ぎません。

大人たちは皆、「しつけ」や「秩序」を語ります。けれどもその“しつけ”とは、実際には上からの命令に従わせるだけの服従訓練です。アハマッド君の祖父は「4日に1度は殴る」と言い、間違いを犯していなくても殴ると豪語します。本来は正しさを教えるための手段が、殴ることそのものを目的化してしまっている。つまり、倫理教育が暴力の儀礼に転化しているのです。こうした構造の中では、正義とは「力のある者に従うこと」になり、真の倫理感は育ちません。

この構造を社会的に拡張した存在が、作中に登場する「偽ネマツァデ」という男です。彼はドア職人でありながら、代金をごまかそうとし、子どもからノートを奪い、労働者から搾取します。つまり、形式的には“働き”、実質的には“奪う”人間です。祖父のしつけと同じく、「正しさの形」を保ちながら「不正」を行う。ここに、イラン社会に蔓延する強権的倫理と日常的な腐敗の縮図が見えます。

この映画で繰り返し登場する“壊れたドア”は、そのような社会の象徴だと思います。ドアとは本来「内と外」「自分と他者」をつなぐものですが、この村ではほとんどのドアが壊れていて、誰も直そうとしない。むしろ「鉄のドアなら壊れない」と語られ、壊れない=開かないドアが理想化されています。
つまり、壊れたドアは「閉ざされた社会」を、鉄のドアは「完全に閉じた心」を象徴しているのではないでしょうか。誰も他者とつながろうとせず、自分の家(自分の価値観)に閉じこもる。アハマッド君だけが、唯一ドアを開けようとする存在として描かれています。

さらに印象的なのは、祖父が「外国人は一度言われれば直すが、イラン人は二度言わなければ直さない」と語る場面です。そこには「命令に従う人間をつくることが文明だ」という倒錯した信念があります。しかしそれを突き詰めると、個人の判断力や倫理観は失われ、強者が弱者を従わせることが“秩序”になる社会が生まれます。これはまさに革命後のイランで進行していた、宗教的権威主義と社会の硬直化の影を反映しているように見えます。

キアロスタミはそうした批判を、子どもの視点という“寓話的形式”を使って巧みに隠しながら描いています。大人たちは無関心で、世界は閉じている。けれども少年は走り続ける。夜になっても、暗闇の中を、ノートを届けようとして走る。その姿は、命令ではなく良心に従う唯一の存在です。

ラストでノートに挟まれた小さな花は、おじいさんから受け取った“ささやかな優しさ”であり、閉ざされた社会の中に残された最後の希望を象徴しています。大人の世界が壊れたドアの向こう側にあるなら、アハマッド君はそのドアを自ら開けようとする存在なのです。

この映画は、1980年代のイランという厳しい検閲の時代にあって、宗教や政治を一切口にせず、「倫理とは何か」という根源的な問いを突きつけた作品です。
暴力的なしつけが倫理を歪め、従順さが腐敗を生む社会。
その中で、アハマッド君の小さな“良心”だけが、唯一、壊れたドアの外へ出ようとしている。
その姿が、心に残りました。

鑑賞方法: シネフィルWOWOWの録画

評価: 94点

neonrg
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