「体制からの個人の自由、人間性の回復ということがテーマだったのだろうが、東西の争いに利用された面もあったのかもしれない。」ドクトル・ジバゴ(1965) あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
体制からの個人の自由、人間性の回復ということがテーマだったのだろうが、東西の争いに利用された面もあったのかもしれない。
知人にロシアの文化、文明を一切認めないという人がいる。ロシアだけではなく中国、北朝鮮の「悪の枢軸国」は政治体制が悪らつでありそのような国で育った文化、文明はとても評価はできず駆逐すべきであるという理屈である。現在のものか過去のものかは関係ないとのこと。えーっトルストイは?チャイコフスキーは?と尋ねたところ、あの人たちはどちらかというとフランスやドイツで創作活動していたんじゃないのと返されてしまった。
この映画は、ノーベル文学賞を受賞(辞退)したボリス・パステルナークの原作をもとに映画化された。原作は映画に先立つ10年前に完成しているがロシア国内では刊行されなかった。発禁されたというよりは当局の介入を恐れて引き受ける出版社がなかったようだ。そこで最初はイタリアで発刊された。映画の底本もこのイタリア版である。パステルナークのノーベル賞授賞は1958年でありこれは彼の詩人としての功績を評価したもの。「ドクトル・ジバゴ」はノーベル賞受賞者の唯一に近い長編小説としてあとから評判になった経緯がある。「ドクトル・ジバゴ」がノーベル賞を受賞したわけではない。直木賞じゃあるまいし。
映画は、主人公ユーリ・ジバゴの異母兄(アレック・ギネスが演じる)が姪(ユーリの子)を探すところから始まって、終わる。その間、3時間の大長編にユーリとラーラの恋とそれぞれの家族の物語が濃厚に詰め込まれる。ユーリとラーラの二人の幸福は真冬のウラル地区の僻村ベリキノにある廃屋で絶頂に達するのだが、実は二人の接点はそれ以前には従軍時代の医師と看護師としての1年間しかない。ユーリにしてもラーラにしてもそれぞれの配偶者であったり愛人であったりする人々との時間のほうがより長いのである。でも短くも美しく燃え、というところか濃密な時間が突然到来するというところはメロドラマの鉄則であり、そういう意味ではこの作品はロシア革命時代(というよりは革命後の混乱期)を背景とした実にスケールの大きいメロドラマてあると言い切ってしまって差し支えないと思う。
一方、時代も場所もそうなのだが、政治体制やイデオロギーが個人を飲み込もうとするとき芸術にしても恋愛にしても、それは人間性ということなのたろうけど、守り抜こうとする人達の姿を描いた作品であると読み込むことももちろんできる。
ただ、映画についていえば、多かれ少なかれ、当時、東側にいた人々へのメッセージであったのだったということはいえると思う。そちら側にも自由を希求する芸術家がいますよ、その作品を映画化したらこうなりましたよ。というところか。だからある意味、この映画は東側に忖度したというよりは西側に忖度した政治的な意味のある作品だったのかもしれないね。
関係ないけど冒頭の知人は、ノーベル文学賞について、「韓国の聞いたことのない女性作家が受賞して村上春樹がとれないのは選考に不正があるからでは」って言ってました。頭腐ってるよね。
日本のプライオリティのズレはドナルド・キーンの言うように三島由紀夫→川端康成、安部公房→大江健三郎となってしまった。ボブ・ディランがOKならヨイトマケの唄もありかと………
ノーベル文学賞は純文学や詩を対象にしており選考委員会は村上春樹を通俗文学の作家だと思っているようです。
だからグレアム・グリーンやSF小説の大家たちが受賞しなかったように彼も取れないでしょう。