「壮大なる不倫大河物語」ドクトル・ジバゴ(1965) kazzさんの映画レビュー(感想・評価)
壮大なる不倫大河物語
午前十時の映画祭7(2016/7/18 TOHOシネマズ市原)
午前十時の映画祭14(2025/2/23 TOHOシネマズ市原)
…にて。
寡作家であるデビッド・リーンが『戦場にかける橋』(‘57)、『アラビアのロレンス』(‘62)の代表作2作品を連発した直後の、本作もまた大作だ。
ソ連でのロケが不可能だったので、スペインのマドリードかどこかにオープンセットでモスクワの街を再現して、路面電車まで通したというのだから驚く。
ロシアの大自然のシーンもスペイン郊外でのロケで、ジバゴたちが疎開するウラル山脈の農村の家もそのロケ地にロシア風の建物を建てたものらしい。
さて、『戦場に…』は第二次世界大戦が、『アラビアの…』はオスマン帝国でのアラブ反乱戦争が物語の背景で、本作は第一次世界大戦からロシア革命に至るロシアの内乱を物語の背景としている。
しかし、前2作品の主人公たちとは異なり、本作の主人公たちは兵士ではなく内乱に翻弄される市民だ。
しかも、魅惑の娘ラーラ(ジュリー・クリスティ)と詩人であり医師のユーリ・ジバゴ(オマー・シャリフ)の道ならぬ恋の物語である。
この壮大な不倫物語は、一面ではジバゴをめぐるラーラとトーニャ(ジェラルディン・チャップリン)という2人の女性の物語であり、別の一面ではラーラを取り巻くジバゴ、コマロフスキー(ロッド・スタイガー)、パーシャ(トム・コートネイ)、ジバゴの異母兄(アレック・ギネス)の4人の男の物語でもある。
デビッド・リーンは既に不倫映画『逢びき』(‘47)で高い評価を得ているし、『旅情』(‘55)でも情熱的だが成就しない恋物語を描いているが、それらのメロドラマとも本作は異なっている。
内乱という時代のうねりの中で彼らは数奇な運命を辿らなければならず、熱愛と倫理感の狭間の苦悩のみならず、生きるための苦闘を強いられるのだ。
ただ、この映画は長大な大河小説(※)を原作としていて、3時間20分に迫ろうかという長尺でも内乱の状況変化や人物像の描写が不十分な気がする。
特にコマロフスキーについては説明が全く不足していて、ラーラの母親(エイドリアン・コリ)との関係、革命政権下での地位などが分からない謎の人物になっているから、ラーラの亡命を支援するという申し出もその真意に怪しさが残ってしまう。小説ではジバゴが子供の頃のコマロフスキーとの因縁も描かれているのだが、そこが省かれているのは仕方がない。
ジバゴの妻となるトーニャもヒロインではないとはいえ人物像が薄い。父親(ラルフ・リチャードソン)と亡命しなければならなくなり、ラーラを訪ねてバラライカを渡し、ジバゴのことを託したという経緯がラーラの言葉だけで説明されるのだが、トーニャとジバゴの幼馴染の頃から恋愛が芽生える頃までが描かれていれば二人の絆が理解できるから、ラーラの言葉でトーニャの決意をジバゴが汲み取ることができるのも納得できると思うのだが、これもきりがないので仕方がない。
という訳で、一本の映画に収まりきらない大河小説とリーンは悪戦苦闘し、完全勝利とはならなかった気がする。
だからか、次作『ライアンの娘』(‘70)でも、アイルランド独立戦争を背景にした壮大なる不倫物語に再度挑戦したのかもしれない。
本作のヒロインには、物語の舞台となる時代の、あるいは製作当時においても尚そうだったかもしれない、男に対して身分も力も弱い女性の立ち位置が反映している。
17歳のラーラは、母親のパトロンであるコマロフスキーの要求に抗えない。
馬車でのキスシーンでは素直に受け入れているし、手籠めにされる場面では最初は抵抗しつつもラーラの手はコマロフスキーを抱きしめてしまうのだ。
力のある男に従わなければ生きられなかった女性は、結局肉体も男に任せてしまうもの(女性自身が受け入れるもの)だという男目線の描写だ。
だが、意味合いはともかく、映画技法としてこのシーンは、直接見せないことでエロティシズムを漂わせる見事な表現で、ひとつのひな型となった。
デビッド・リーンの持ち味はスペクタクルの画作りだと思うが、夜のベルリンでデモ行進を騎馬隊が蹴散らす場面は凄まじいばかりだ。
だが一方で、先にあげたエロティックなシーンをはじめ、窓際に燭台を置くとロウソクの熱で窓の霜が徐々に溶けていくのを建物の外から見せるシーンとか、窓越しにジバゴが見つめる庭の花が、ラーラのいる街に咲く花にオーバーラップするシーンとか、情緒豊かで芸術的なシーンも多く見られる。
そしてなにより、本作の最大の収穫はジュリー・クリスティ。ロシア人ぽくはない(ロシア人をよく知っているわけでもないのに言う)が、おそろしく整った造形的な美しさもさることながら、出会う男出会う男をたちまち虜にしてしまう、魔性とは少し違う求心力を持つ女。彼女以外に誰が演じられるかと感じるほどだ。その眼には強さもあり儚さも宿って、放っておけないと男は感じるのだが、彼女自身は男に依存しない強さも持っている。
最後にジバゴが見たのは、本当にラーラだったのか。デビッド・リーンは、あえてその女性の顔を写していない。これは、ラーラだったとも、見間違えた別人だったとも解釈できるような演出だ。
あの正に命を落とそうとしている瞬間に、間近にいて気づかれないすれ違いの悲しさと、見間違いだったとしてもラーラの元気な姿を見た安堵と、ジバゴにどっちの思いを抱いて死なせてやるか、観客がそれぞれに受け止められるようになっている。
私は後者だと思っている。
物語の結末、異母兄のイエブグラフ・ジバゴが弟の生別れの娘を探していたのは、弟のためではなかったことが語られるのは、ある意味衝撃の展開だ。
その娘がバラライカを肩にかけ、彼女の恋人が「誰に教わったわけでもないのにプロ級の奏者だ」と言うのを聞いて、イエブグラフは「遺伝だな」とつぶやく。
ところが、劇中でユーリ・ジバゴがバラライカを弾く場面はないのだ。
※著者のボリス・パステルナークは本作でノーベル文学賞を受賞するも、国家の圧力によって辞退させられた…とか。
