トゥルーマン・ショーのレビュー・感想・評価
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西洋人はこう言った話好きだが、日本でも『テラスハウ○』があった
SFな映画と言える。
あり得ない話だと思うが、実現は可能だ。
言いたい事はなんとなく分かる。
プロパガンダみたいな物の怖さを表現しているのだと思う。
それは兎も角、
西洋人はこう言った話好きだが、日本でも『テラスハウ○』とか言った番組があったと記憶する。何が面白いのか分からない。何故なら、出演している演者の個人的見解や感情に、見る者が支配されてしまうからだ。平たく言えば、『演者と見る者が共に悲しみを共有する。』それが僕には馴染めない。
寧ろ逆に、演者が笑うっておかしな事やっているのに泣ける。ドラマってそんなものじゃないかなぁ。つまり、制作者や演出家や役者の枠を超えて、見る者の為に芸術はあると思う。現実と芸術の違いかなぁ。人の悲しんでいる姿を見て、一緒に悲しみたくない。一緒に悲しむのだったら、別の何かが、一つ以上自分の心に残ればと良いって思う。それを可能にするのが審美眼なのかもしれない。
想像以上に面白かった!!
ジム・キャリーの代表作も今見ると色褪せて
初見です。
いろんな人がおすすめするので、見てみましたが、残念ながら私には響きませんでした。
誰もが一度は想像する、「世界は自分を中心に回っている」をストーリー化したものですが、最初の数分でその状況を分からせるシナリオはさすがのクオリティですね。
その構図に主人公が気づき、何とか脱出を図ろうとするところまでは、すでにあちこちで耳にする機会があったので、初めて見たにも関わらず、予想通りの展開でした。
あえて、このプロットで成功した作品として邦画の「サトラレ」を連想したことを申し添えておきます。
とにかく、トゥルーマンが勝ち取った「自由」はとてもささやかな、価値の薄いモノに思えて仕方ありません。
動物園で飼育されていたゴリラが野生に帰ろうとするようなものでしょうか。
2023年1月13日@Netflix (2022年年末に途中まで視...
2023年1月13日@Netflix
(2022年年末に途中まで視聴、2023/01/13に途中からラストまで再生)
初めて見たけど名作だと知っていたので、序盤はあまりワクワクする展開ではなくて流し見してしまった
トゥルーマンが世界の異変に気が付いてから一気に面白くなってくる
もっとコメディなものを想像していたけど割とシリアスだと思った
中盤まで誰かこの番組を作っているのか、目的もよくわからずなのは面白い
最後までどうなるかわからなかったので集中して見ることができた
ただラストは中途半端で、結果どうなったのかわからずのままだった
トゥルーマンを応援したりエンタメとして消費するときうより、ただ可哀想という気持ちになってしまった
劇中作である『トゥルーマン・ショー』の監督は何がしたかったのか?神のような存在になりたかったのか、父親になりたかったのか
ジムキャリー好きだなと思った
平凡な暮らし、、、それはテレビの放送でした。
SF風味のユニークな作品
謎の美女の発言が気になりながらも、うまく事態が飲み込めずに物語を見ていく。すると、終盤にかけて種明かしがされ、トゥルーマンに「お前には外界に踏み出す勇気など無い」と言い放つプロデューサーの態度にショックを覚え、視聴率イノチで暴走してこういうこともやりかねないのがこの業界かも、と脚本のシニカルな部分にも共感してしまった。
主演のジム・キャリーのカキワリにぶち当たった時の表情が、主人公の複雑な思いを表していて特に良かった。
番組の中の出来事
もがいても逃れらないのなら、受け入れるしかない
私も見られている
今まで見た時は腹立たしく番組プロデューサーを憎みトゥルーマンを憐れんでいました
しかし、この作品はもっともっと深く深く意味のある映画だったのですね
何度か見ていたし比較的内容を覚えていたつもりでしたが久々の鑑賞に新たな発見や感動があり、やはり、映画とはなんとも奥深い、何度見たって楽しめる
私ね、昔っからふと考えてしまう事があるんですよ
何をしていても時折り左斜め後ろ上から自分を見るようなそんなことを思っちゃうんです
そうだな〜 5mほどの距離からかな〜
例えばスマホで何やってるかは分からないくらいの距離
小学生くらいの時からかな、そんなことを思うようになったのは
だからってわけじゃないんだけどポイ捨てとかあまり良くないことは出来ないし美しい景色とかあったら斜め上から徐々にカメラが下がってきたりしてなかなか楽しい
かと言って想像力を働かせて奇抜なストーリー展開にするとかって言うこともなく今を淡々と眺めているだけなのです
最近は少し忘れてましたけど『トゥルーマンショー』を見て思い出しました
私は常に見られている、見られていると言うよりも自分が第三者目線で見ている
だから時折り滑稽だったりズルかったり素晴らしかったりポンコツだったりがよく分かるんです
あなたはどの角度から自分を見てますか?
私もそんな視聴者の一人です。
エド・ハリス演じる番組ディレクター、これほどまでに苛つかせるキャラはいない。天気を操り、ラストは天からの声のような演出と共に慈悲深い神を気取ったセリフを吐く。
しかし彼だけではなく、妻役や親友役、父役、その他エキストラのすべてが、主人公の状態を理解したうえで仕事という名目の元、主人公を追い詰めていく。
そしてそんな主人公が抗う姿を見ながら感動し涙を流す視聴者と、そこに群がるスポンサー。
きっとそれらの中に自分の姿を重ねざるおえないところに、この苛立ち、不快感はあるのだろう。
ラストシーン、作り物の青空と海を背景に、切り口上を述べて現実の世界へと退場していく。ユーモアとしても映像としてもとても良くできている。
しかし、本当に幕を下ろしたのは、番組終了してすぐに番組表を探す視聴者たちだった。まるで、「君たちも同じだろ」と言わんとするように。
最後のシーンの意味とは?
現代文の文章の中に、この映画の話が出てきたので見てみた。
ジム・キャリーの表情がとても良く、見ていておもしろかった。
現代文の文章で読んだ時に描いた想像が結構違うくて面白かった。
今度はイエスマンでも見ようかな
浅はかで、怠惰で、傲慢な世界
平凡な日常のある朝に、空から謎の小物体が、自分の近くに落ちてきた。その後、自分は監視されている感じや死んだはずの父が路上を歩いているのを見かけるなど、違和感が渦巻くようになる。
何の前知識もなく見始めたら、最初は主人公が認知症でも発症してきているのかと思ってしまったが、そうではなかった。
むしろ、人間の欲や浅はかさを痛烈に皮肉にした映画だと思った。虚構に完璧な現実を再現することが無理なのに、それを貫ぬき通そうとする浅はかさと、それでも虚構に現実では得難い刺激や安寧(実際には様々な可能性があるはずなのに)を求める怠惰で傲慢な欲。それらが作り出す歪な世界に吐き気さえ感じるところを、ミステリー→種明かし→ハプニングという物語の流れを作って娯楽化に成功しており、これまた皮肉だなと思えてならない。
結局、ちゃんと理解しようと思い、もう一度頭から見てみると、シーンの細かいところでの役者の表情や視線の意味が理解できて、二度目もいろいろ発見のある映画でした。
感想が2つに分かれる映画(主に私の中で)
この世界は実は作り物だった…というシミュレーション仮説的な世界観はこの映画の数年前に作られたマトリックスや最近だとフリー・ガイとか古くはSF小説とか割と手垢のついたネタで、私的には結論も出てて「作り物だったとしてもその世界で精一杯頑張るしかないよね」派。
ストーリーは感動話として王道な感じで予測から外れるような展開はあまりなくて、まあそういう流れになるよね的な。もっとトゥルーマンがプロデューサーが嫌がるような「あからさまな演技」をするシーンとかあってもよかった気がするけど。最後のプロデューサーの自分を神と思ってんのか的セリフももうちょっとドロッとした感じに捻ってくれた(例えばトゥルーマンを心底自分の子と思ってるからこその毒親的保護欲をみせたセリフにするとか)ほうが自分的には好みだけど、ラストの爽快感を重視するならこの演出なのかな。
最後は感動的なラストに拍手喝さいを送る(つつさあ次の番組見ようとすぐ切り替える)テレビ視聴者と自分自身が重なり、実のところもっとも醜悪なのはプロデューサーよりも自分たちだったというオチなわけだけど、数十年前の未来日記や最近ネトフリに多いリアリティ・ショー、としまえんのクロちゃんしかりエンターテインメントを求めて視聴者が醜悪な行動をとる・視聴者を満足させるため過激になっていくみたいなのを思い起こすと実際ちょっと気分が悪くなる部分も(もっとドロドロした演出の方が良かったと書いてる自分は完全にテレビ視聴者だ)。
こんなこと思いつつもやっぱり映画見てる最中はトゥルーマンに感情移入してて応援していて、やっぱり最後嵐の中ヨットを進めるシーンはトゥルーマンを応援する気持ちがむくむくと湧いてくる。ヨットが壁にぶちあった時の「ついにやった!」感と、それまでのリアルさがある風景からあからさまに作り物感ある風景へ切り替わりその先に外の世界へと続く「空に描かれた階段」という画が強く印象に残る。
扉の向こうは真っ暗で必ずしも彼が選んだ先が幸福に満ちているかはわからないことを象徴してるようにも思えるけど、最後にお決まりのせりふを吐いて皮肉を利かせつつ作り物としての「トゥルーマン」を最後に演じ切り扉の向こうに消えていくのはやはり爽快感がある。すべてはジム・キャリーの迫真の演技があってこそ。あ、親友役の人の演技も好きです(顔を引きつらせつつの『絶対に嘘はつかない』とか、結構マジに心配して捜そうとしてるとことか)。
友人・彼女と一緒に見た場合に言うべき社会的に正しい(?)感想は「安全な場所、守られたかごの中にとどまっていてばかりでは真実には出会えない、勇気をもって一歩踏み出すことの大切さを伝えてくれる素晴らしい映画だった」なんだけど(笑)、それは醜悪なテレビ視聴者的感想でありその感想・感情を嫌いつつ捨てきれないのをどうしたもんかともんもんとしてしまうそんな読後感だった。
コメディーと割り切って見ればいいのでしょうか・・・
初めての鑑賞
ずっと前に録画していたが
途中まで見て、やめていたものを
もう一度、初めから見直した
主人公の生活は24時間生中継されている
知らないのは本人だけ
まわりの人間はすべて俳優
という設定
面白そうと思って録画したのだが
自分には合わないか・・・・
コメディなのだから
「そんなのあり得ないだろ~」
とかは抜きにして見たつもりだが
面白いと思えなかった
と、いうより
365日24時間、他人の生活をリアルで見たいかな?
今回、
・テレビで見る側
・生中継される側
・演じる俳優
といろいろな角度で見てしまい
自分の目線が定まらなかったため
見終わって、疲れた
いつか、またテレビ放映があったら
もう一度見ようと思う
今回と違う印象を受けるかもしれない
ひとのこころ
続きが気になる
某国の現状と重なって見えてしまい…
24年前のロードショー以来だったが、
過去の鑑賞では、
己の人生は自らの意志で導いたものか、
或いは他人の意志に導かれているものに
過ぎないのか、との観点で
この映画を捉えていたような記憶だが、
改めて観てみて、
情報操作や監視社会が問題視される今だから
こそ価値ある作品かもしれないと感じた。
某国に置き換えて観てみると、
多数少数の点では逆だが、
トゥルーマンはその国の国民の象徴、
番組スタッフやエキストラは国家指導部、
TV視聴者は経済発展だけに目を向けて
体制に甘んじてる国民を彷彿させ、
そして、トゥルーマンに真実を伝えた
女子大生は情報操作や監視社会の問題に
声を上げて追放処分された知識人、
といったところだろうか。
「私の世界なら君は安心だ」との
トゥルーマンへのプロデューサーの語りかけ
は某国の指導者の心内そのものに思える。
映画ではたった一人でもトゥルーマンは
最後に歪んだ社会から逃れるべく行動した。
圧倒的多数の某国の民は、
情報操作・監視社会から脱却すべく
行動出来るだろうか。
私は33年前の事件で立ち上がった若者達の
民主化へのエネルギーがまだ残っていると
信じたいのだが。
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