劇場公開日 1998年11月14日

「奇抜な設定に父子愛とシュールな映像娯楽感が持ち込まれた」トゥルーマン・ショー 永賀だいす樹さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0奇抜な設定に父子愛とシュールな映像娯楽感が持ち込まれた

2013年3月18日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

泣ける

笑える

悲しい

ゴーデングローブ章男優賞/助演男優賞/音楽賞、ヒューゴー賞最優秀映像作品賞、サターン賞最優秀ファンタジー映画作品賞/脚本賞とそうそうたるメダルオナーな作品。
「生まれてから今まで、24時間フルタイムで全世界ライブ中継されている男」という設定だけ聞いてれば、とってもB級映画臭がプンプンするのに、どうして?と思ってしまう。

それはたぶん、テレビや映画という虚構が「本当の現実」を映し出すことに失敗してきた(と視聴者が感じている)事実と、無邪気な子と愛情豊かな父親という親子愛が込められているからだ。

全てが役者、全てがセットという世界にあって、ただひとつ真実なのは、ライブ中継されている男・トゥルーマンその人だけ。こんな痛烈なパロディは他にない。

バラエティやドラマなど、テレビや映画は虚構のエンタテイメントや人生を大量生産してきた。
それら全てを嘘か真かで問えば、それはもちろん「嘘」ということになる。
だから観客が愛想を尽かす、というのは本当は違うと思うのだけど、しかし世間的にはそんな意見も厳然と存在する。「だから俺はドキュメンタリーしか見ないのだ」と。

だがよくよく考えてみよう。
ある少年のドキュメンタリーを撮る。彼は不治の病にかかり、その影響で足の自由が失われた。とても不幸な境遇。でも無邪気な笑顔。みんなに親切で性格も明るい。
見ている人は感動する。
ところがドキュメンタリーを製作している間、当然ながら現場にはカメラが入る。撮影してもいい場所、してはダメな場所の打ち合わせがある。感動の映像を収めるため、入念な事前調査をやってタイミングを計る。
これをもっと徹底してやっているのが『トゥルーマン・ショー』という映画。いやはや恐れ入る。

これだけでも相当に作りこんだSFとして成立するのだけど、さらに深みを増すのが「トゥルーマン・ショー」という番組のディレクター・クリストフの存在。
彼は視聴者に本物を提供したいと同番組を作った。のみならず、トゥルーマンその人に並々ならぬ愛情を注いでいる。
それはネタに対する執着という意味ではなく、親が子を見つめるような愛情で、寝ているトゥルーマンの映像をいとおしそうになでる姿にジンときてしまう。

またトゥルーマンが真実であるからこそ、視聴者はもちろん役者も心が動く。
エキストラの女優は苦渋の決断を迫られるし、妻役の女優はストレスのあまりヘマをやらかしてしまう。
それは結局、嘘から真実へのシフトではあるのだけど、真実がトゥルーマンに暴露されては番組が成立しないから、演出という形でさまざまな妨害が入る。突然の暴風雨になったり、道路が渋滞したり、あるいはもっとセンシティブな事件が仕込まれたりする。

こうした涙ぐましい努力の結果、全世界がトゥルーマンに釘付け。
いよいよ番組が佳境に入ってくるときには、賭けをするものまで現れる始末。
それくらい世界が熱狂した番組として観客に示される。

しかし何が観客の胸を打つといって、ラストの一コマほどショッキングなものはないだろう。
それはトゥルーマンがある決断により番組「トゥルーマン・ショー」をめちゃくちゃにすることと関係するのだけど、実は番組それ自体は視聴者にさほどのものを残していなかったという事実。
制作側も涙し、怒り、人生をつぎ込んできた番組も、視聴者からするとチャンネルの一つでしかなかった。なんたる残酷。

たったワンカットに過ぎないこのシーンを入れたことで、映画『トゥルーマン・ショー』は深いものを残した。
映画の向こうの視聴者の移り気を目の当たりにしたとき、スクリーンのこちら側の観客である僕らは何を感じたらいいのだろう。

では評価。

キャスティング:8(主演ジム・キャリーの存在、クリストフを演じたエド・ハリスのまなざしが本作に真実味を加えた)
ストーリー:9(バカ映画になりがちな設定ながら、高尚なSF的側面を持ち合わせる)
映像:6(ナレーションをいれずに作品背景を説明する技術はうまい)
親子愛:8(血のつながり以上に深いもの)
パロディ:10(映像作品にとって何が真実たりえるのか)

というわけで総合評価は50満点中41点。

映像作品としての映画における真実とは何なのか問い直したい人にオススメ。
全面的な無邪気さによる感動を画面のあっちとこっちで共有したい人にオススメ。

永賀だいす樹